不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

嗚咽(おえつ)

2013年02月27日 | 日記・エッセイ・コラム

 

先日、ある高校の男性教師の教育実践の様子を紹介するテレビ番組を途中からですが、見ることがありました。<o:p></o:p>

 

画面には、女子高校生たちが1人一羽ずつのニワトリを胸に抱いている様子が映っていました。<o:p></o:p>

 

その日、彼女たちはこれまで自分たちが1人一羽ずつ、大事に大事に育ててきたニワトリを解体する(捌く)日を迎え、今、その順番を待っているのです。<o:p></o:p>

 

愛情いっぱいにここまで育ててきたニワトリを自らの手で殺さねばならない彼女らは、目に涙を浮かべ、必死に嗚咽をこらえてニワトリを抱いています。<o:p></o:p>

 

ある少女の順番が来ました。カメラが下からのアングルで教師と彼女の表情をとらえます。手元は見えません。      <o:p></o:p>

 

教師が彼女の手に刃物を握らせ、そこに自らの手を添えたようです。と、次の瞬間、彼女の表情は崩れ、嗚咽が漏れ、目に涙があふれます。彼女が育てた愛おしいニワトリの命が絶たれました。ニワトリの声は聞こえませんでした。<o:p></o:p>

 

番組のテーマは『生命の教育』。<o:p></o:p>

 

私たち人間にとって、命の連鎖は素晴らしい奇跡だけれど、それは私たちが数限りない多くの生き物をすることによってもたらされたものです。その自然の摂理の中で私たちは生きているのです。<o:p></o:p>

 

だから? だけど? 生きることは素晴らしい? 自然は素晴らしい? <o:p></o:p>

 

その命をいつまでも胸に抱いていることは許されないのです。命は命を奪うことで支えられねばならない。私たちはそうした命の連鎖を生きていることを思い知らされていました。<o:p></o:p>

 

彼女の嗚咽が耳から離れません。<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

落下と衝突

2013年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム

 

なんと、隕石がロシアに落下しました。<o:p></o:p>

 

これが落下ではなく「地球に衝突」と言われるような大きな隕石だったとしたら、すでに私たちは存在せず、人類の歴史も地球とともに一瞬のうちに宇宙のチリと化したかもしれません。この隕石の落下により、いかに地球が、そしていかに私たちがあなた任せのはかない存在であるかを思い知らされました。<o:p></o:p>

 

残念ながら、現代科学の力ではこの隕石落下を予測できなかったのです。宇宙の営みは私たち人類の人智を超えていると、今更ながら実感します。驕るな人類よ! 何が万物の霊長だ!<o:p></o:p>

 

しかし、のど元過ぎれば何とやらで、私たちは早くも「あー、隕石が落ちたロシアはたいへんだったようだねー」という感想とともに、この人類の歴史をかろうじてつなぎ止めたショッキングな宇宙現象をやり過ごし、地球上の日常に安住し埋没しようとしています。<o:p></o:p>

 

今にとんでもないことになる!?<o:p></o:p>

 

地球にとって私たち人類の存在は、スイカの表面のゴミのようなものです。だから、地球上のいたるところで私たちが繰り返す論争や紛争、喜びや悲しみなど、果てしなく膨張し続ける広大な宇宙にとっては、なおさらどうでもいいことなのです。<o:p></o:p>

 

果たして、はかない存在の私たちは現在をどこまで未来につなげることが出来るのでしょうか……。<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギョッとしたこと

2013年02月16日 | 日記・エッセイ・コラム

 

出席者が全員で10人ほどのその会議は、年に2、3回開かれます。<o:p></o:p>

 

先週末、県外でのその会議に出席した時のことです。<o:p></o:p>

 

私を含めた数人はすでに指定された席に着いていて、あれこれ雑談をしながら全員が揃うのを待っていました。<o:p></o:p>

 

そこへマスクをしたある出席者が入ってきたのですが、一通りのあいさつを終えて席に着いたその人の発した一言。<o:p></o:p>

 

「いやー、昨日までインフルエンザに罹っていて大変じゃったですわー」

「!?」<o:p></o:p>

 

その言葉を聞いた瞬間、私は部屋の空気が一瞬緊張するのを感じました。皆さん雑談どころではありません。内心『えー!?』と当惑したものと想像します。私の心うちはもっとえげつなく、『ギョッ!!』としていました。<o:p></o:p>

 

こんなの有りでしょうか?<o:p></o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

訃報

2013年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 

昨夜、帰宅すると訃報が待っていました。<o:p></o:p>

 

以前の職場仲間から届いたその便りには、ある女性の訃報が綴られていました。<o:p></o:p>

 

東京で、私がまだ学生だった頃に知り合った重い知的障害の娘さんのお母さんが亡くなられたのです。娘さんは、多動で、じっと座っていることが難しく、自分の拳で自分の頬や額を叩く自傷行為がありました。言葉はありません。ただ発語として「アー」とか「ウー」とかがあるのみだったと記憶します。<o:p></o:p>

 

しかし、そんな娘にいつも穏やかに語りかけるその人は、京王井の頭線に乗って、最寄りの駅から15分ほどの私の勤め先までの道のりを娘さんの手を引きながら、大勢の人の行き交う中、商店街や住宅街を歩いて来てくれていました。<o:p></o:p>

 

それは、私が大学を出て勤めた社会福祉団体の事業の一つに、全国の在宅重症心身障害者へお誕生日カードを贈るという事業があり、そのカード作りと郵送作業をするためでした。その人は長年ボランティアとしていつも笑顔で穏やかに協力し続けてくれていたのです。<o:p></o:p>

 

16年前に東京を引き払った私は、岩国に戻ってすぐの頃に1度お会いしただけで、その後はとうとうお会いすることはありませんでした。だから、今年の年賀状には『今年はお会いできますか』と書いたのです……。<o:p></o:p>

 

届いた便りには、今、その娘さんは関東のある入所施設におられるとも書かれていました。<o:p></o:p>

 

お母さんの死をだれがどうやって知らせるのでしょうか。<o:p></o:p>

 

○○さん、あなたを産んで、重度の知的障害のあなたのことを世間に隠すことなく、愛情豊かに、懸命に育ててくれたお母さんが死んじゃったよ。<o:p></o:p>

 

娘の人生を自分の人生として引き受けたその人生に捧げる言葉が見つかりません。<o:p></o:p>

 

<o:p>

 

</o:p>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

許容する子どもたち

2013年02月01日 | インポート

 

昭和26年に施行された「社会福祉事業法」が今から13年前の平成12年に、およそ50年振りに「社会福祉法」として改正されました。<o:p></o:p>

 

その第七十八条第2項には、『国は、社会福祉事業の経営者が行う福祉サービスの質の向上のための措置を援助するために、福祉サービスの質の公正かつ適切な評価の実施に資するための措置を講ずるよう努めなければならない。』と定められています。そしてそれを実現するために考えられた事業が「福祉サービス第三者評価事業」です。これは福祉施設などが提供している福祉サービスの質を第三者が評価し、その結果を公表する、というものです。<o:p></o:p>

 

評価は、障害・高齢・児童といった事業の対象ごとに福祉サービス第三者評価事業推進組織が定めた「評価基準」と「評価手法」によって行われます。山口県では唯一山口県社会福祉協議会がこの事業の推進組織と認められており、その「評価基準」や「評価手法」は国が示した内容に準じた内容となっています。<o:p></o:p>

 

先日、その「評価基準」の中の「児童自立支援施設版」に目を通していた時のことです。<o:p></o:p>

 

『他者の尊重』という評価項目がありました。そこには、『他者の尊重』ということについて、その施設に入所している児童たちへの、職員による支援が適切に行われているかどうかをどのような観点からどう評価するかが示されています。他の評価項目と同様に「判断基準」や「評価基準の考え方と評価のポイント」、そして「評価の着眼点」といった見出しで書かれているのです。<o:p></o:p>

 

その「評価の着眼点」の中の一文。<o:p></o:p>

 「職員は、日常生活において、常日頃から気づかないうちに、子どもが、職員の力量に合わせてくれていること、職員の未熟さや不完全さなどを許容してくれていることについて自覚を持ち、子どもに感謝の心をもって接しているか。」(について評価する、ということです-古川)<o:p></o:p> 

 今、体罰や虐待やいじめが大きな社会問題として広く取り上げられ、いろいろに議論されています。しかし、目の前の子どもたちがこんな心理状態でいることを知っているのと知らずにいるのとでは、教育や指導の現場において、その結果にはそれこそ天と地ほどの差が生まれるものと思います。<o:p></o:p> 

 このことは、この児童自立支援施設で生活する子どもたちに限ったことではないものと思います。<o:p></o:p>

 

常日頃から気づかないうちに、子どもたちは、大人の力量に合わせ、大人の未熟さや不完全さを許容しているのです。<o:p></o:p>

 

教育者よ、指導者よ、思い上がるな! <o:p></o:p>

 

いや、すべての大人たちよ、思い上がるな!<o:p></o:p>

 

そして、日々さつき園の利用者の中にいて、このことは知的障害者にも当てはまるという実感が私にあります。<o:p></o:p>

 

だから、職員よ、思い上がるな! 園長よ、思い上がるな! と言わねばならない。<o:p></o:p>

 

私たちは知的障害者と呼ばれる彼らに、自らの未熟さや不完全さを許容されていることに気がつかぬまま、彼らの懐の深さに甘えて自己満足の支援を繰り返し、己のアリバイ作りをしているだけなのです。彼らはそんな私たちに取り囲まれ、諦めの思いを抱きつつも、それでも私たちを日々許容してくれている……。<o:p></o:p>

 

だれが書いたのか、この一文を書いた人物の鋭い観察眼と感性に心底、敬服します。と同時に、そこにその人の無念の思いも感じています。<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする