<o:p></o:p>
例えば、自分の育ちや学歴にコンプレックス(劣等感、ひけめ)を持っていると、他人の育ちや学歴が気になります。<o:p></o:p>
同じように、自分の身体にコンプレックスがあると、やたらに他人のそれが気になります。<o:p></o:p>
そして、それらを気にしすぎると、自分を見失います。<o:p></o:p>
そんなことで自分を見失ってはいけません。<o:p></o:p>
例えば身体にコンプレックスを感じていたとしても、また、例えば育ちや学歴にコンプレックスを感じていたとしても、<o:p></o:p>
「だから、なに?」<o:p></o:p>
と、さらりと受け流すのがよろしい。他人と自分を比較してどうしようというのですか。おのれを磨いて、他者に貢献すること。そのためには、唯一、おのれの心を、精神を、社会あるいは他者に向かって解放するすべを獲得することが必要です。<o:p></o:p>
他者はあなたが気にしているほど、あなたのことなど気にしてはいません。うぬぼれてはいけません。いや。だからこそ、私たちは自分に集中できるのです。<o:p></o:p>
知的障害者は、例えコンプレックスの原因になりそうなものがあろうが、なかろうが、いつも穏やかです。『自分は自分』なのです。それは本来、あるいは生来、他人と自分を比べることをしないからです。知的障害者はコンプレックスなどに躓くことはありません。<o:p></o:p>
「だから、なに?」と、コンプレックスはさらりと受け流して、自分に集中しましょう。それが、巡り巡って他者のためにもなるのです。<o:p></o:p>
さつき園に通って来る利用者はそんなことも教えてくれます。<o:p></o:p>
そして、敢えて誤解を恐れずに言えば、おそらく障害者虐待は虐待するその人が意識しているか無意識かに関わらず、その人のコンプレックスへの躓きにその遠因があるのではないかと思うのです。<o:p></o:p>