物の見方、人の見方

2019年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

 例えば、円運動を繰り返す物体があるとします。例えば、それは〇〇遊園地の観覧車。

 夜。その観覧車の数あるボックスの中の1つだけに明かりを灯すとします。

 その時、遠くから、しかも真横からその観覧車を見ている人には、正面から見ている人には円運動に見える観覧車のボックスの明かりは、上下運動をしているように見えるはずです。

 また、観覧車を見ている位置が斜めから見ている人には、明かりはあたかも楕円運動をしているように見えるはずです。

 遊園地の観覧車は円運動をしていることを知っている人にはそれらのことはすぐに理解できます。しかし、観覧車という遊園地にある乗り物など見たことも乗ったこともない人が、遠く、真横あるいは斜めの方向からしかその明かりが見えない所にいたとしたら、その明かりは円運動ではなく上下運動、あるいは楕円運動をしているようにしか見えないはずです。

 物を見るとき、人を見るとき、常にある一定の方向からしか見ていないとすると、物の見方、人の見方は知らず知らずのうちに偏ってしまい、それらの物や人の総体を見誤るものと思います。

 物や人の総体を見誤らないためには、己の五感を駆使して、その物や人に触れるのが一番です。自分自身を信じることも大事だけれど、しかし自分自身の思考を一旦解放し、再構築することも大事なことと痛感します。

 

 

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編み物

2019年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 〇〇さんが編み物を始めたそうです。〇〇さんはさつき園のグループホームで生活しています。

「編み物するんじゃねー。知らんかったよ」と言ったら、

「世話人に教えてもろうたんです」と、うれしそうに答えてくれました。

「今度、編んだ物を見せてや」と言うと、恥ずかしそうに

「まだ下手じゃけー、見せられん」と言います。

「始めたばっかりじゃけ―、下手なんはしょうがないよねー。ええけー、持って来んさい。見せて欲しいけー」

 数日して、さつき園のお昼休みに園長室にやって来て、持ってきた編んだ物を恥ずかしそうに差し出す〇〇さん。

「おー、これかね。編み具合はどうかいの」と、手に取ってみる私。毛糸の色は薄茶色で測ってみると、幅が15㎝、長さが28㎝ありました。

「まだ、この辺がダメなんです」と、網目が揃っていない個所をいくつか指差して教えてくれます。

「むー、この辺はまだちゃんと編めてないねぇ。じゃが、ホームで一人の時にすることがあって、よかったじゃないかね」

「うん」

「『うん』じゃない。返事は『はい』じゃろー」

「あっ。はい。よかったです。前はグループホームで一人の時はすることがなかったんじゃけど、今は編み物があって、うれしいです」

「うまく編めるようになったら、誰かにプレゼントしてあげたらえーじゃ」

「うん。いや、はい。でも、まだ下手くそじゃけ―」

 そう言いながらも、うれしそうな〇〇さん。

 自分に非がないときでも、「ごめんなさい、私が悪かったから。私のせいです」と、いつも他の利用者や職員に謝るのが口癖のようになっている〇〇さん。集中できるものが出来て、生活にも張りが出て来たように感じました。

 また、数日しての今週の月曜日。見せてくれた編み物は幅が15㎝、長さが何と114㎝にもなっていました。

「なかなかよう頑張っちょるねー。長く編んじょるが、どこまで編むんかね」

「初めて編んだけー、マフラーか何かにしようと思います」

「おー、ええねー」

 まだまだ、編みむらがありますが、〇〇さんの生活に張りを持たせてくれた編み物。よくぞ世話人が思い立って〇〇さんに編み物を教えてくれたこと、と私もすこぶるうれしくなっています。編み物は一人ででも出来るし、しかも集中するし、編んだら充実感や達成感も味わえるし、そして完成したら誰かにプレゼントすることもできるのです。〇〇さんに編み物を教えてみようと思い立って、辛抱強く教えたグループホームの世話人に感謝、感謝です。

 まったくの余談ですが、まだ私が高校生か大学生だった頃、近くに置いてあったある雑誌の表紙に「棒針編」と書かれていたのを「ぼうしんへん」と読んでしまったことがありました。小説や映画によく付けられている「青春編」とか「望郷編」など言った表現と似たものなのかと、勘違いしたのです。それは「ぼうばりあみ」と読むのが正解でした。妹が大笑いしながら教えてくれたのです。編み物に全く関心がなかった私の、今でも編み物の話題になると内心一人で笑ってしまう、半世紀近く前の忘れ得ぬ思い出です。

 

 

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発表 新元号「令和(れいわ)」

2019年04月01日 | 日記

 平成に代わる新しい元号が『令和(れいわ)』だということを車で移動中に知った。この言葉の出典が万葉集からなのが、なかなかいい感じだと思った。

「令」の字は、日頃は「命令」や「指令」の「令」でよく目にするので、「令嬢」などの時の「令」のもつ意味にはあまり馴染みがない。だから、「令和」の文字を見た時には一瞬、どきりとした。

「和」は私たち日本人の多くが好む字だと思う。字の形としても落ち着きがいい。しかし、「令」の字はどこか落ち着きが悪い。字の形が不安定に思われるためか。

 しかしながら、「令和」には私たちの新元号への予想を超えた、斬新で新鮮な感じがある。

「令和」と決まるまでの経緯を明らかにしてほしい、と早くも政権に注文を付けている評論家、あるいはマスコミ関係者がいるが、今は新元号についての自分自身の思いや感想をよーく確認しておくのがいい。私たちの人生で何度も体験することではないのだから。

 人々の感想を見聞きする前に、その時自分はどう感じたのか、自分はどう思ったのか、を心に留めておくことは、事象や物事について考えるどんな場合でも大事なことだ。

 まず、自分自身はどう実感したのか。思想はそこから始まる。心身がそのことに馴染んでからでは遅い。

 30年前、「昭和」から改まった新元号が「平成」と知った時、私は「平成(へいせい)? 何かしっくりこないなあ」と口にしたことを思い出す。

「平成」はどんな時代だったろうか。

「令和」の時代はどんな時代になるだろうか。

 

   銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむに

     まされる宝 子にしかめやも            (山上憶良 万葉集第五巻)

 

 とりわけ、幼いものたちにとって伸びやかで人間の情愛に満ちた時代であって欲しいと思う。 

 

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