世界の終わり

2012年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

はたして、現代は子どもたちにとってどういう時代なのだろうか、と思う。

いじめがあり、虐待があり。しかも、それらの大半は潜在化している、といわれる時代。

リセットボタンを繰り返し押し続けると、バーチャルな世界は何度でもいのちを蘇らせる。ならば、その画面の中で敵を倒すことに、また、その画面の局面を制圧することにどんな意味を見つければよいのだろうか。

手軽に手に入るバーチャルな世界といじめや虐待の連鎖の中で育つものは、何なのか。大人たちが、腰の引けた生き方しかできなくなっているとき、子どもたちは自分たちの精神からいのちに感動する心を捨て去っている。

今や、親は子を見ようとせず、子は親を見失い、教師は生徒を見ようとせず、生徒は教師を見失う。社会は安心を見失い、経済は満足を見失い、政治は大衆を見失い、類は個を見失う。そして、個はおのれを見失う。その、おのれを見失った蒼白の個に豊かな感性はもどらない。

こうして今を生きる私たちが、来る日も来る日も大事なものを見失い続ければ、世界の終わりかー。

『…… あなたを見失えば 世界の終わり …… 』(吉田拓郎)

だれも、すぐそばにいる少年の、そのふるえる息遣いにさえ気づかない、あるいは気づこうとしない時代を生きているのだ。

そんな時代では、私たちが「あなた」を見失えば世界の終わり、なのだ。

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空とぶうさぎ

2012年07月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今から25年も前のことになりましょうか。私はある社会福祉関係団体の全国大会に参加した時、この歌を初めて聞きました。

1「手をください」「目をください」「足を……」という人もあるけれど

 私は見えないことなんか 気にしない  目をくださいとは思わない

 でもひょっとして 私だって心の中では  そう思っているかもしれない

 人は勇気があるんだなあ  うらやましいから言うのかなあ

 言ったって思ったって もらえるわけないのに

 どうしたってもらうことは できないもんな

2 目が見えなくても 人の話を 聞いたり 触ったり 嗅いだり

  ほんとうに見えるより もっともっといろんなことを

  思い浮かべることができるんだもん

  いつかうさぎが空をとぶことができると思い 人に笑われたこともあるけれど

 すごいねって言った人もいた

  うさぎはどうしてとんじゃいけないの 私の心の中ではうさぎってとぶんだよ

  私といっしょに とぶんだよ  ラララ……

ボニ―ジャックスが歌っていました。

読んで想像されるように、この歌詞は目の不自由な(全盲)子ども(少女)が書いた詩です。

柄にもなく、書棚を整理していたら偶然このMD(ミニディスク)が出てきたのです。そういえば、ある時、テープからMDにコピーしていたことを思いだしました。

いま、毎日、仕事帰りのカーステレオで聞いています。

皆さんも機会があれば、ぜひ、お聞きいただければと思います。

  うさぎは どうしてとんじゃいけないの

  私の心の中では うさぎってとぶんだよ

  私といっしょに とぶんだよ

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険しい道

2012年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム

このたび(平成24年6月20日)、これまでの「障害者自立支援法」に代わり、いわゆる「障害者総合支援法」が新たな法律として国会で可決成立しました。施行は平成25年4月1日(一部は平成26年4月1日)です。

しかし、当事者や関係者の多くが期待したこの新法でしたが、大山鳴動鼠一匹の感があり、施行後の3年間で内容を検討するとした項目が多々あることなどから、残念ながら、問題先送りの印象が否めません。

例えば、このたび「障害程度区分」を「障害支援区分」に改めるとしたものの、その支給決定のあり方については「施行後3年を目途として検討すること」とし、「その結果に基づいて所要の措置を講ずるものとした」のです。悪名高き「障害程度区分」の改正は喜ばしいことですが、その現場への適応にはなお3年超、待たねばならないのです。今日生まれた赤ちゃんも3年も経てば走り回るほどに育つでしょうに……。なお、3年待て!とはのんきなことです。

人は長く生きていれば誰もが高齢者になりますので、高齢者福祉には国民の誰もが関心を持ち、その取り組みも積極的です。が、しかし障害者の福祉については、残念ながら国民の誰もが関心を寄せている問題とはいえません。ましてやその中でも知的障害者福祉にいたっては、わが国ではまだまだ関心や理解の度合いは低く、差別の垣根は高く、極々少数派でしかないのです。(だから、3年間待つくらいで、あれこれ文句を言うなって!?)

高齢者の道は誰もが通る道です。しかし、障害者の道は誰もが通る道ではありません。だからその道は通る人も少ない険しい茨の道です。  

だけど、いえ、だからこそ、私たちは徒手空拳ながら、今日の利用者のために、そして将来の利用者のために、その険しい道を歩くのです。

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ある人生

2012年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム

今日は土曜通所日です。

午前中は梅雨の合間の、風のある晴れた天気になりました。

さつき園の玄関に立つと、遠目に○○さんが上手に鍬を使って畑の土を掘り起こしているのが見えます。

○○さんは今年でもう74歳になります。さつき園利用者の最高齢者です。背中が曲がっています。時折、鍬の柄をつっかえ棒にして組んだ腕をのせて小休止しています。

彼の両親がいつどうして亡くなられたのか私は知りません。73歳の今も里親とともに暮らし、毎日元気にさつき園に通っています。からかい半分に「園長、死んでもええか!」と言うのが口癖で、聞いた私が驚いたふうに「何言いよるんじゃー、死んじゃあいけんよー」と言うのを、声を出して笑いながら待っています。

74年前の昭和13年に生まれた○○さん。小さい頃からどんなにか苦労したことでしょう。家族のいる喜びや重さを知っているのでしょうか。無理解の世間への苛立ちも理不尽な仕打ちも数えきれないほどあったことでしょう。そうして、回りまわって、24年前、開所後1年目のさつき園にたどり着いて、今、通所の毎日を私たちと過ごしています。

「園長、畑やっちょったけえの―」「わしがやらんにゃー誰も出来んけえの―」「今日も畑やるでー」

ポツポツとパソコンのキーボードを打つしか能のない私は、頭が下がるばかりです。

○○さんの手は、長年畑仕事をしてきた人の手です。小柄なので指は短いけれど太くて日焼けしていて、そしてその手のひらはとてもやわらかです。

利用者が髭を剃らずにいると、「髭を剃らんにゃー!」と叱る私ですが、○○さんにはその少し伸びた白い顎髭を剃れとは言えません。それは○○さんの人生の一部なのです。それは彼の勲章なのです。さつき園の誰も叶うものではありません。

○○さんは顔じゅうを丸くして、いい笑顔で笑います。

そんな○○さんを今、遠目で見ながら、長いとは言えない、しかしそれでもどうにか刻まれてきたわが国の知的障害者福祉の歴史を思います。「いい人生だったですか?」「日本の知的障害者福祉はどうでしたか?」○○さんがそれを語れるなら聞いてみたいものです。

『○○さん、まだまだ死んじゃ-いけんよー! 畑、頑張ってやってくれよ!』心の中で祈ります。

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