とぼけた職員に囲まれて

2009年03月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、あることで職員と一緒に行動することがあって、わがさつき園の職員が何と愛すべき(?)職員たちであることかを痛感させられました。

 「くしゃみが出る」と言うところを、何を慌てたのか「ハクションが出る!」と言う職員がいるかと思えば、12,300(いちまんにせんさんびゃく)という数字を読むのに、これもまたどうしたことか「せんにひゃくさんびゃく!」と自信たっぷりに読んでしまう職員がいたり……。しかもそれがあまりに自信たっぷりだったので、瞬間誰もおかしいことに気がつきもしないのです。そして果ては、ガソリンスタンドでの給油の時に何を血迷ったのか、給油口を開けずにボンネットを開けちゃったりなんかする職員もいるのです……!?

わぁー、こんな職員たちに囲まれて、いったい私はどうすればいいのでしょうか?

みなさん、園長って、意外に大変なんですよ!!こんなとぼけた職員たちを引き連れて、遠い道のりを一歩一歩歩いて行かなくてはいけないのですから。

心中お察し下さいませ。

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不熟ということ

2009年03月19日 | 日記・エッセイ・コラム

 前の車との車間距離をビックリするほど極端に詰めて運転している車を見かけました。私もよく経験させられます。そんなときは、すぐにウインカーを左に出して、「どうぞお先に」と道を譲ります。いつまでも後ろにくっつかれていては落ち着かないし、気分が悪い。いや、第一、危険です。

そういうあおり行為を楽しんでいる輩もいるのでしょう。しかし、一体に、人が嫌がると分かっている行為をするのは精神の未熟です。いや未熟というより不熟かもしれません。未熟はこれから熟す、成熟する可能性がいささかなりともあるでしょうが、不熟となればもうこの先どんなことになろうが熟すことはありません。そこでは熟すことなく成長や発達が終わってしまっているのです。

 翻って、我が方を顧みますと、未熟な福祉環境を成熟させるべく、利用者の笑顔と保護者の愛情と職員の素直さとに支えられて、見えない汗や時には血を流しながらも闘っている日々の連続です。しかし大変だからといって、私たちはまかり間違っても福祉を不熟のまま朽ち果てさせて後世に残していくわけにはいかないのです。

 出張の帰り、車間を詰める運転を見かけて「不熟」という言葉に思い至り、「福祉の未熟」「福祉の不熟」に思いを馳せた次第です。

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お誕生日おめでとう!!

2009年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

 今日は3月生まれの利用者の誕生会です。会場は食堂で、茶話会でお祝いします。

 3月生まれの3人が前に立って、みんなから「おめでとう!!」と歌と拍手の祝福を受けます。併せて園長から、3人と園長とで写った写真が貼ってあるカードが贈られます。そのカードには園長直筆のメッセージが書かれています。

 会が終わって、○○さんがカードを持って園長室にやって来ました。

 「園長さん、ありがとうございました」「いえ、どういたしまして」

 「園長さん、これ何て書いてあるんですか?」「あー、これはね、○○さんは作業をさぼってしょうがありません、って書いてあるんよ」

 「えー、イヤだー」「おー、イヤかね。大丈夫、大丈夫、そんなことは書いてないからね。家に帰ってお母さんに読んでもらいんさい」

 「はい、分かりました」

 うれしそうにカードを手にして、○○さんはみんなの中へ戻っていきます。 下手な字で書いたメッセージですが、喜んでくれるのを見るとホッとします。

 ○○さん、お誕生日おめでとう!! これからもよろしくお願いしますよ。

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会議の進め方

2009年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

 先月は合わせて11の会議やら研修会やらに出席あるいは参加しました。

 それぞれの出席者はそれぞれ時間を遣り繰りして会議などに出席しています。ところが議題や内容がしっくりこないわけでもないのに、虚しく時を過ごしてしまったという感慨を抱いてしまうことがあります。何がどうなんでしょうか?

 思うに、得てして資料の説明が主となる会議や研修会は虚しいと感じる度合いが高いかもしれません。参加者の声を聞くこともなく、ただただ資料の説明に終始する。時間の関係で先を急ぐのでしょうが、それなら資料は送ってもらえば十分で、忙しい時間を割いてまでその会場にわざわざ足を運ぶこともない、ということにならないでしょうか。そこに会した人たちの生の声を聞いたり、あるいは研修会では参加者と講師や司会者とのやり取りを聞いたり、また自分も発言したり、ということにこそ出席した意義があると思うのですが……。

自分が出席している間、職場である福祉現場では一人欠けた状態で利用者支援にあたっているのです。だから、自分がいないところをカバーしてくれている同僚のためにも有意義な時間を過ごさなくてはなりません。なのに、ただただ資料の説明を聞かされているだけでは送り出してくれた仲間に申し訳が立たないというものでしょう。

 先日もある会議に出席してきましたが、30名近い出席者の中で事前に予定された発表者以外で発言したのはたった1人だけでした。それもやむに已まれず発言を求めた、といったものでした。発言しようにも、会議の雰囲気が時間に追われ時間を気にせざるを得ない雰囲気だったのです。

 せっかく集まったのですから、もう少しお互いの時間を大事に有意義に有効に扱いたいものだと思います。会議を主催する側のアリバイ作りに協力させられているようで不快になることが間々あります。

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どう声をかけるか、いかに待つか

2009年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 先週のある日。午前中は、それでも苛立つこともなかった○○さん。しかし、午後になると、したいことを誰かに制止されたのか、あるいは意に沿わないことがあったのか、苛立ちをあらわにし始めました。

 ○○さんが園長室にやって来ます。開けたドアを力いっぱい部屋が揺れるほどの勢いで閉めて、応接用のソファに膝を折って座るのが今は癖になっています。そういう姿勢をとると、しばらくはそうして座っているので見守ってきた職員を作業に戻し、○○さんに声をかけます。

 「○○さん、力入れんのんよ。力入れんの。楽にして、楽に。手をぶらぶらしてごらん」そう言いながら、いつものように両手で包んで手の甲をさすります。

 こちらの言うことはかなり理解している○○さん。苛立つ何かがあるのでしょうが、いっとき座っているとわずかですが落ち着いた表情を取り戻します。興奮して力が入った体を力で抑えつけようとしてもかえって反発してしまいますので、私は声をかけながら、手を握って手のひらをさすったり、ぶらぶら振ってみたりします。指先や手から力を抜くことで、体全体の力みを一瞬でも抜いてもらおうと思うのです。

 ゆっくり時間をかけて○○さんに対することができればいいのでしょうが、現場ではなかなかそうもいきません。職員はそこがしんどいところです。でも、力みが取れるのを待つことができればお互い○○さんも職員もゆったりとした時間を味わえるのです。知的障害者福祉の現場は「どう声をかけるか」と「いかに待つか」で支援の質がまるで違ってしまうのです

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