一日一善

2012年05月31日 | 日記・エッセイ・コラム

朝、通勤のために車で自宅を出て団地内の道路を通るとき、三々五々、集団登校の集合場所に向かう小学生たちに出会います。中には、一年生なのでしょうか、遠目にはまるで黄色いランドセルが歩いているとしか思えないような子どもたちもいます。

今朝のこと。いつものように登校する小学生を追い抜くように車を走らせていると、右前方に一年生かと思われる小さな女の子が小走りに駆けて行くのが見えます。と、そのスカートから何かが落ちたように見えました。近づいて見るとそれはポケットティッシュでした。私は、思わず車をとめて(もちろん後方確認をしてからです)、運転席の窓越しに「おーい、おーい」と、彼女に向かって声をかけました。

すると、その声が聞こえたのでしょう。「わたし!?」とでも言うようにその女の子が振り返ります。

私は、「落ちたよ!」と言いながらその方を指差しました。

「あっ!」と気がついた彼女は、次の瞬間、まるで桜の花びらが風に舞うように、スカートをひらひらさせながら戻ってきます。

そして、それを拾い上げてポケットにしまいながら、ちらっと私のほうを見るような見ないような……。その瞳は「お礼を言ったほうがいいのかなぁ?」と迷っているように見えました。でも女の子は恥ずかしそうな表情のままに、また小走りに駆け出していきました。

一日一善。

相手が小学生だったせいか、彼女の後姿を見やりながら、私は久しぶりにそんな言葉を思い出していました。

一日一善。悪くないですね。『今日も頑張るぞ!!』

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童謡「海」

2012年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、読売新聞の読者投稿欄「気流」に載っていたある投稿を読んで、独り唸ってしまいました。

『(前略)小学1年の長男が先日、学校から帰宅し、授業で習ったばかりの童謡「海」を披露してくれました。「海は広いな大きいな」と口ずさみながら、「この曲を歌うと、懐かしい感じがして涙が出そうになる」と言うのです。長男の目に、うっすら涙が浮かんでいました。

涙の理由を考えていたら、思い当たることがありました。長男は赤ちゃんの頃、夜泣きがひどかったので、私が何時間も抱っこをして子守歌を聞かせていました。「海」もその一曲でした。長男はそのメロディーが記憶にあり、懐かしさで涙が出たのでしょう。

感性を豊かにする童謡の素晴らしさを再認識しました。機会があれば子供たちと合唱し、童謡を楽しんでいきたいと思います』

この投稿の主の言いたいことと、それを読んだ私の思いは全く異なります

残念ながら私はこの投稿を読んで童謡の素晴らしさを再認識したわけではありません。だからといって童謡のよさ、素晴らしさを否定するものでも、もちろんありません。

小学1年の長男が「この曲を歌うと、懐かしい感じがして涙が出そうになる」と言ったという。自分には過去に「海」の曲を聞いた記憶がないのに、彼は「懐かしい感じがして涙が出そうになる」という。私が注目し、我が意を得たりと思わず唸ってしまったのはそこです。

たとえ、それが毎夜のことだったとしても、お母さんの腕の中で聞いた童謡を赤ちゃんだった当の本人が記憶として覚えていることはないでしょう。しかし、その時のお母さんの歌う「海」の歌のもつ雰囲気や、その時のお母さんの感情や肌のぬくもり、腕の中の赤ちゃんにかけた言葉に込めた願い、などは確実にお母さんから赤ちゃんである彼に沁みこんでいったのです。記憶にあるとかないとか、そういった自覚されたものではなく、無意識、無自覚の時の中で、いわば心身の記憶として沁み込んでいったのです。

人の人格形成においては生まれてから三歳までが大事とか、いや、すでに胎児の頃からが大事だ、などと様々に言われています。

恐らく、私たちにとって本人が覚えている記憶や体験など、その人格形成においては大したことではないのです。本人の知らない胎児期、あるいは新生児期、乳児期、幼児期の育ち方、過ごし方、どう育てられたか、どう生かされてきたかこそ、その人の人格形成にとって大事なのです。だから、残念なことに(?)人は自分自らが負えないところで、その人の人格の原型の大部分は決まってしまっているのです。

子どもが、それらの時代をどう育てられてきたか。それらの時代の親世代の子どもへの関わりの在り方こそ、問われなければなりません。

少年が童謡「海」の曲を歌うと『懐かしい感じがして涙が出そうになる』のは、その歌を少年に歌って聞かせていた当時の母親の、母親本人も気づかずにいた感情の投影なのではないのか。

とすれば、「教育は国家百年の計」といわれていますが、果たして障害者差別や虐待の連鎖を断ち切るにはどれだけの人と時を費やせばいいのでしょうか。

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金環日食とスカイツリー

2012年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム

月曜日(5月21日)。残念ながら、山口県では金環日食とはいかずに部分日食でしたが、それでも私はいつものミーハー振りを発揮して、雨の上がった朝、雲間に見え隠れする太陽と月を見上げていました。

それもつかの間、今は高さ634メートルのスカイツリー開業の話題に、早くも気を取られています。テレビのニュースではこれらを目の当たりにした多くの人たちが口ぐちに「すごーい!」と言って、感激、感動しています。

この金環日食は自然現象、いわば自然物です。それは私たち人間には到底創造することの出来ない自然の側に属するものです。片や、スカイツリーは人工物。人間が作り上げたもので、自然には出来得ない人間の側に属するものです。

では、果たして、障害は自然物か人工物か。知的障害はどうでしょうか。それは自然が作った自然物でしょうか?あるいは人間が作り出した人工物でしょうか?

自然の雄大さや神秘さに感動し、人間のもつ力や美意識に感激しながらも、自然の怖さ、不気味さ、そして人間の怖さ、不気味さに日々晒され、孤独の中に私たちは生きています。

金環日食に感動し、スカイツリーに感激する。そんな私たちに、遠い過去、自然を畏怖しつつも自然物をすべて受け容れるしなやかな精神が宿っていたなら、障害というものは今のこの世界には存在しなかったかもしれません……。

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親の覚悟

2012年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム

毎年、4月29日にはさつき園の所在する周防大島町の屋代地区で、町商工会主催の『お大師堂めぐり歩け歩け大会』が開催されます。

屋代地区に点在する多くのお寺を、自分の体力と相談しながら、ハイキングかあるいはウォーキングよろしく歩いて回るのです。スタンプラリーのように、巡ったお寺ではそれぞれに用意されたスタンプを通行手形に押して記念にします。大会の最後にはお楽しみ抽選会もあります。

参加者は近隣市町からはもちろん、広島県などからの参加もあり、全体で例年千数百人にのぼるようです。

さつき園でも毎年、利用者・保護者・職員で総勢約60名くらいで参加しています。(と言っても、園長の私は毎年園での留守番役ですが)本人の体力・脚力によって、それぞれ初級者コース、中級者コース、上級者コースとコースを選びます。

今年のその日。午後、お弁当を屋代ダムで食べた後、園のマイクロバスに乗って園に戻ってきた利用者と保護者・職員が20人ほどいました。その中のある母親の話です。

「一週間ほど前から私の体調が悪かったので、今年は参加できないんかなあと心配していました。それが息子にも分かったのか、ここんとこ息子に何か元気がなかったんですよ。ところがですね。2日3日前に、『お母さんは行くよ!』と、歩け歩け大会に出ることを本人に言ったんです。そしたら、『行くっ!?』と言って、○○は安心したように、それまではやめていた散歩に出て行ったんですよ。一緒に行きたかったんですねぇ。○○は言葉がうまく話せんから、どう思っているのか私もよく分からんかったんですが、よっぽど一緒に行きたかったんですねぇ。私ももういい年齢なんじゃけど、まだまだ頑張らんといけんですねぇ―」

○○さんは今年で49歳になります。お母さんの年齢は推して知るべし、です。

そんな年齢なのに、「まだまだ頑張らんといけんですねぇー」と真顔で言われます。そう言われて、私には返す言葉はありません。 

親の凄さ、覚悟の凄さに圧倒されます。

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