戦後5年経った昭和25年に生まれた身としては、自分のことはさておき(!)、幼稚園児から高齢者と呼ばれる年配者に至るまでの、日本人の箸と鉛筆の持ち方がかなり前からえらく気になっています。例えば様々なテレビ番組で、時に現代日本人の気になる箸や鉛筆の持ち方を目にすると、見るたびに毎回惨憺(さんたん)たる思いになるのです。
子どもたちの中には、極端に言えばじゃんけんのグ―の握りをして握った箸の先を、その握った手の小指と手の平の間から出して、つがれたご飯を箸で掻き出すようにして食べている子がいます。もうそうなるとご飯を食べているとはとても思えない。それはまるで餌を食べているかのようです。
幼稚園児や小学生から高校生大学生に至るまで、いや大の大人までが親指と人差し指と中指と薬指の4本の指を使った箸使いが上手にできないのです。いや、確かな数字は分かりませんが、漠然とそういう人たちが増えてきているように思います。
それは鉛筆の場合も同じなのです。鉛筆もグーで握って鉛筆を操作して文字を書き、図形などを描いてます。だから、箸も鉛筆も斜めに傾かないで、握った手の中で縦になって動かされています。
それは決して美しい形、と私は言わないのです。
言葉は見よう見まね、聞きよう聞きまね(?)で覚えるのでしょうが、箸や鉛筆の持ち方は見よう見まねでは覚えられないのではないでしょうか。誰かが心配しながら、しばらく根気よく教えるほかないように思えます。
親もそして幼稚園や学校でも、そんなことは二の次になっているご時世なのでしょうか。私も子ども時代にきちんと箸と鉛筆の持ち方について教えてもらったという記憶はありません。でも、グーで持つ持ち方はしないので、おそらく親とか先生とか、誰かが教えてくれたのだと思います。
私にすれば、こうした箸や鉛筆の“グー握り現象”は「無残だ」と言うほかはありません。少しお道化て、「今のあなたの箸の握り方で果たして小豆や大豆をうまく摘まむことができますか」と言いたくなります。いろいろ言い分はあるでしょうが、日本人の文化としての箸の持ち方、鉛筆の持ち方が危うくなってきているのだろうと思います。
様式美を、形式美を、などとオーバーなことは言いませんが、「食べられればいい」「書ければいい」というような結果オーライではあまりに寂しく哀しい……。
人は勝手に育つのではありません。人は人が育てるのです。
社会に出て、重症心身障害児者や知的障害児者の福祉に携わって知った、障害者と呼ばれる、いや私たちが障害者と呼ぶ、そうした人たちの人生を思うと、その思いはいっそう強く深くこの胸に広がるのです。
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