高校を卒業し大学浪人をしている私に、ある時ある人が言いました。
「これまで君はいろいろな人のお世話になった。これからはだれかのために生きることも大事だ」と。
以来、私は福祉の世界を歩いてきました。
私が東京で学生生活を送るようになったころ、すでに日本では輸血用の血液を売血によってまかなうことはなくなっていたものの、すべてを献血でまかなえるまでには至っていませんでした。私は大学のあるサークルに籍を置き、日本赤十字社中央血液センターの後押しもある中、学内外での献血推進活動に参加しておりました。同じような活動を展開している都内のいくつかの大学と共同で、渋谷や池袋の駅前で数週間に渡り街頭署名運動をしたこともあります。
沖縄返還闘争や成田闘争が盛り上がり、内ゲバ、バリスト(バリケードストライキ)、ロックアウト、あるいはナンセンス、自己批判……といった言葉が毎日のように聞かれた時代でした。そんな中、一浪した私が大学1年生のときの11月には三島由紀夫が自決し、2年生の2月には浅間山荘事件もありました。
学生時代から全国組織の障害者の親の団体にボランティアとして関わっていた私は、誘われるままに就職先をその団体に決め、重症心身障害児と呼ばれる子供たちの福祉の世界に身をおき、障害児(者)福祉の仕事に携わるようになったのです。まだ「福祉に携わるなんて奇特な人だ」と言われていた時代です。
その後、個人的な事情で少年時代を過ごした地に戻った私は、幸運にも長年携わってきた障害児(者)福祉の世界の人間関係に拾われて、このさつき園で仕事をするようになりました。それからもう12年以上が経ちます。
人はだれでも生きていれば高齢者になります。高齢者への道はだれでもが通る道です。けれど、障害者の道は誰でもが通る道ではありません。さつき園に来るまでの20数年間、それこそ北海道から沖縄までの各地の重症心身障害児(者)や知的障害者、そのご家族の方々と触れ合い、また医療の専門家や行政と関わる中で、私は、生命について、障害について、人間について、そして類としての人間について考えさせられるようになりました。それはさつき園に勤めてからも変わりません。
はるかな学生時代、自分がこんな人生を歩むことになろうとは想像もしませんでしたが、せっかくの人生、これからもこの障害児(者)福祉の世界を歩いていこうと思います。
遅くなりましたが、ちょっと自己紹介をさせていただきました。