昭和の長嶋、平成のイチロ―

2019年03月25日 | 日記・エッセイ・コラム
 大リーガーのイチローが引退を決めました。
 本気で「50歳まで現役を続けたい」と言っていたようですが、さすがのイチローも45歳でのこの1年間の実戦のブランクは応えたようです。引退表明した時のインタビューで、本人も残念がっていましたが、最後となった出場試合でもヒットを打つことが出来ませんでした。
 私たちにはマスメディアを通してしか見聞きすることのできないイチローの人生です。いつも、どこか冷めたように感じさせるイチローの言動。いったいどこまでが素のイチローなのか。素のイチローは誰にも見せないのか。などなどをあれこれ詮索しても、それは詮無いことです。私たちは、素直に、イチローがそう望んだように、マスメディアの中のイチローを受け容れるのがいいのです。
 様々なプロ野球記録、大リーグ記録を塗り替えて来たイチロー。
 そのイチローの才能がこれほどまでに開花したのは、むろん本人の手を抜かぬ日々の努力があったからでしょう。そして野球への深い愛があり、どこまでも野球が好きだったからでしょう。しかし、若き日のイチローに豊かな才能と可能性を感じ、それをまっすぐに開花させる道を用意した人があったからこその、今のイチローなのです。
 仰木彬。もとプロ野球 オリックス・ブルーウェーブ監督。彼こそが、イチローにとって、若き日の自意識過剰で自信家だった彼に、その才能と可能性を認めた運命の人ともいうべき人です。仰木との監督と選手としての関係がなかったら、イチローはどこにでもいるような、自信過剰で、青臭い、はねっ返りの若造のままで埋もれてしまっていたかもしれないのです。二人のそういう出会いに、私たちは感謝したいと思います。

 多くのプロ野球ファンは「ミスター」と言えば、長嶋茂雄のことだと知っています。
 そのミスタープロ野球が脳梗塞後のリハビリに励んでいる頃の、テレビのインタビュー番組(2015年12月25日放送 NHKTV インタビュアーは有働由美子アナウンサー)の中でこんな話をしています。
 ……。サードはゴロの捕り方が15種類あります。お客に見せるためのプレーを心がけていました。ゴロを処理する時のあの投球ホームは歌舞伎の所作から学びました。ヘルメットも大きめのものをかぶっていました。バットスイングの音は「ブーン」ではダメ、「サッ、サッ、サッ」と聞こえるように振らなくちゃー。だから暗闇で振るんです。努力しているところは人には見せません。でも今は、リハビリを頑張っているところを見せます。脳梗塞の人が全国で200万人いるそうですが、その人たちの励みになると思うので見せたいのです。
 そして、有働アナウンサーからのこのインタビューでの最後の質問。
「これからの夢は何ですか?」
 その問いへのミスタープロ野球、長嶋茂雄の答え。
「走りたいですねー……」

 心底、野球を愛した、長嶋とイチロー。
  昭和の長嶋と平成のイチロー。私たちの時代にあって、二人の存在は誠にうれしい限りです。
 
 
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座敷牢の記憶

2019年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 もうすぐ新しい元号が発表され、平成も終わる。
 昭和40年代後半から東京で学生ボランティアとして関わっていた社会福祉法人の団体に、昭和50年からはその組織の職員として障害児者福祉に携わり、その後、さつき園の職員として今日まで歩いて来た私の、忘れられない記憶から時代を振り返ってみる。
 今思い出しても強烈な印象として残っているのは、東京から出かけて行った関東地方のある県での障害児者の巡回療育相談に、事務担当スタッフとして参加した時のことだ。その巡回療育相談は医師、看護師、ケースワーカー、そして地元の児童相談所の職員などで相談班を編成し、地方の障害児者のご家庭を訪問し、専門医による障害のお子さんの診察や専門スタッフへの療育相談を受ける、というものだ。
 関東地方の某地方都市で、あるご家庭を訪問した時、私はそれを初めて見た。
 見た瞬間、「これは座敷牢か……」と思わず息をのんだ。
 その部屋は薄暗く、目を凝らすと部屋の中には太い柱があり、そこに繋がれた紐の先には、今でいう強度行動障害と思われる成人男性が腰のあたりを括られて、座っていた。部屋は臭かった。唸るような声が響いていた。
 当時は、障害の子がいる家庭では「我が家にはそんな子はいない」と世間を憚り、子の存在を圧し隠す時代だった。
 あれから時が経ち、時代は変わり、行政を司る措置権者が一方的に障害の子の処遇(当時はそう言っていた)について決定していた措置制度は平成15年からは支援費制度となり、今や障害者総合支援法のもと、障害福祉サービスを受ける側と提供する側は対等であり、障害福祉サービスの利用は本人の人権と意思を尊重した契約に基づくものとなった。
 昭和40年代以降、全国各地で障害者の収容施設(当時の呼び方。現在では入所施設と言う)が建てられていく。が、私たちの社会は障害者を受け容れることを拒み、彼らを人里離れた所に建てられた収容施設へと追いやった。ところが、彼らをそうした入所施設に追いやっておきながら、私たちの社会には「入所施設は障害者の人権を無視しているから解体せよ」と、声高に叫ぶ時代があったのだ。
 私たちの社会には障害者への根深い偏見と差別がある。それは、平成の世になって少しは無くなってきただろうか。障害者福祉への社会の理解は進んできているだろうか。
 国は「我が事・丸ごと」と言って地域共生社会の実現を目指しているが、障害者福祉はこの社会ではまだまだ「他人事(ひとごと)」なのだ。
 もうすぐ新しい元号の時代が始まる。
 果たして、私たちは、私たちの社会は、障害者を受け容れ、その命と人生を解放する時代を創造することが出来るだろうか。私の中から座敷牢の記憶は今も消えない。



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