例えば、国会議員を頼りにするということについて

2015年03月24日 | 日記・エッセイ・コラム
 例えば、国の予算を獲得したり事業を新設したりすることに関して、国会議員を何人も知っているとか、力のある国会議員と懇意でもあるからといって、それを力頼みにして、何とかうまく予算を獲得出来たとしても、そこに社会の意識は付いては来ないでしょう。
 組織の長なり、組織の責任ある地位にいる人が、「いざとなれば国会議員に頼んで何とか……」というのを耳にするほど寂しいものはありません。そんな姿勢はいかがなものでしょうか。最後は票とカネを用意して、数と力を頼りにしますか。そんなことを何の疑問もなく日々繰り返しているから、国会議員のほうも自分の役割は国民から陳情を受け、己の力を発揮して、そこに何とか予算を付けてやることだ、と勘違いしてしまうのです。
 国会議員こそが自分の足で歩いて、ことの実際、ことの実態を見聞しなくてはいけないのではないでしょうか。そうして現場に出向いて、そこで自分で感じ、何をどうすべきなのかを自分の頭で考えてほしいと思います。自分で歩ききれないのなら、有能な秘書集団を育てて、彼らに現場を歩かせて彼らの実感の伴った生の情報を集め、分析し、ことに当たっていただきたい。国民の票やカネはそういうことの繰り返しの中から付いてくるものだと思います。先に票やカネがあるわけではありません。
 そのためには、ことの当事者である私たちこそが直面する課題や問題に日頃から真剣に立ち向かっていることが必要条件です。適当に議論し、適当に結論をまとめて、時間がないからあとは知り合いの、あるいは力のある国会議員にお願いしようなんて、まあ、何と虫のいいことよ。そんなお茶を濁すようなやり方でその場を凌いだりするから、社会での理解が進まないのです。
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メンクイを植える!?

2015年03月14日 | 日記・エッセイ・コラム
 午後の休憩時間に○○さんが園長室に顔を出します。
「あのね園長さん、じゃがいもを植えたんよ」
「おー、じゃがいも、植えたかね。寒かったろう」
「いいや、さむーはなかったよ」
「ご苦労さんじゃったのー」
「次はメンクイを植えるんと」
「はぁ? メンクイを植える!?」
「うん、メンクイを植えるんと」
「いや、そりゃーメンクイじゃなかろう。メークインじゃろう」
「いいや、メンクイを植えるっちゅうて、□□さんが言いよったよ」
「いやいや、なんぼなんでも、メンクイを植えちゃーいけんじゃろう」
 大笑いする私を、『なんで笑うんか?』というような顔をして見つめる○○さんでした。
 ○○さん、せっかく報告しに来てくれたのに、大笑いしてごめんなさい。でも、しまいには○○さんもつられて、照れたように笑っています。
 こんな巧まざる笑いが、さつき園ののんびりした昼休みのひと時を、よりいっそう和ませてくれます。利用者の素直さとやさしさに包まれる瞬間です。

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働くことへの孤独

2015年03月08日 | 日記・エッセイ・コラム
 今、一般の企業などへの就職を目指す障害者は就労移行支援事業を行っている事業所で就職前の訓練を受けることが望まれている。その過程を経てきた障害者なら企業も安心して雇えるというわけだ。先日、その事業所の一つを見学する機会があった。
 驚いた。そこで訓練を受けていた彼ら10人ほどの障害者は、ひと言の言葉も発することなく、その日与えられた課題にひたすら黙々と取り組んでいた。説明によると、作業での根気、集中力、正確さ、協調性、修正力、ていねいさ、トラブルへの対応力、そして他者への言葉遣い、礼儀正しさ、などを鍛え、伸ばすための課題だということだった。
 それらの課題に取り組んでいる目の前の彼らは、私には健気とも、痛々しいとも思われた。そこまでするのか。そこまでして就職するのか。そこまでしてそれらの課題を克服し身に付けなければ君たちが就職できないのが、今の私たちの社会なのか……。私は心の中で呆然と立ち尽くしていた。
 100円を稼いで満足するより1000円を稼いで、よりたくさんのものを手に入れることの出来る生活のほうが良いに決まっている、ということか。自分の可能性を引き出し、鍛え、伸ばし、それを生かして、より給料のいい企業で働き、たくさん稼ぎ、より楽しい豊かな生活を送ること。今、障害者と呼ばれている君たちが、健常者の社会で生き、生活し、働くということは、健常者同様にそれを目指すということなのか。それが君たちの希望であり、望みなのか。
 それはそうなのだろう、おそらく……。
 しかし、と思う。今、目の前の彼らが課題として取り組んでいることは、社会への、あるいは企業への適応訓練という名のもとに、健常者の私たちがただ私たちの価値観を押し付けているに過ぎないのではないのか。
 彼らの生い立ちに思いを馳せてみよう。彼らのこれまでの人生に思いを馳せてみよう。おそらく私たちの誰も、そんなことなどしたことはないのではないか。それでもなお、彼らに訓練を適応を強いるのか。可能性を引き出し、鍛え、伸ばし、それを生かし、誰にとってもより生きやすい社会、より生活しやすい社会、より己を解放できる社会の実現に努力せねばならないのは、私たちなのではないのか。その社会の実現に向かって、健常者は、あなたは、そして私は努力をしないのか。
 障害者と呼ばれている彼らに社会への適応を強いることは、二重に障害者を差別していると思う。
 人間の可能性を伸ばすことは期待されていいことだ。しかしそれは、障害者に望む前に、自分たちを勝手に健常者と呼んで収まり返ってしまっている私たちこそが努力し、取り組むべきことではないだろうか。どんなに膨大な時間がかかろうが、人間の可能性として、そして人類の可能性として、それは取り組むべきことではないのか。
 今、社会で働く障害者には「働くことへの孤独」があると思う。彼らにとって社会の中で働くことは、誰にも頼れない、自分の力だけを頼りにするほかないのだ、という「働くことへの孤独」が。

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ごみの捨て方、言葉の吐き出し方

2015年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 ごみの出し方、捨て方でその人の社会の中での生きる姿勢が分かる、と思う。その人の使うごみ箱を見ると、その人の生き方が分かると思う。
 例えば、職場での場合。事務所などに置いてあるごみ箱に、自分から出たごみをどのように捨てているか。不要なコピー用紙ならただ丸めて捨てるか、細かく破いて捨てるか。また、細かくて散らかるようなごみなら要らない紙に包んで捨てるか、それともそのままごみ箱にパラパラと捨てるか。
 丸めて捨てるよりある程度小さく破って捨てるほうが嵩張らない。嵩張るごみは扱いに困る。細かくて散らかりそうなごみは、包んで捨ててあるとあとの処理がしやすい。
 果たして、私たちはごみ箱に捨てられたごみのあと処理をする人のことを考えて、ごみを捨てているかどうか。ごみを受け取る人のことをどれほど考えて捨てているだろうか。
 言葉も同じだ。果たして、私たちは自分の吐いた言葉が相手にどう伝わり、どう響いていくかを考えて、言葉を吐いているか。思ったままをただ丸めたままで吐き出してはいないか。小さく砕いて吐き出しているか。また、散らかりそうな言葉はうまく包んで吐き出しているか。
 自分の吐き出した言葉を相手がどう受け取るかなどお構いなしにしていると、言葉も相手を刺す凶器になることに気が付かないし、気が付けない。
 ごみ屋敷の住人は、概して何らかの理由で社会との距離が遠くなっており、その結果、社会との接点が持てなくなっている。すると、自分の吐いた言葉を受け取ってくれる人を、そして自分から出たごみを受け取ってくれる人を持てなくなっているから、自分の言葉も自分のごみも自分の内部に溜まるばかりなのだ。それが高じると、ますます社会から遠くなり、社会から遠ざけられてしまうことになる。
 ごみも言葉もそれを受け取ってくれる人がいて初めて、社会生活が営めるのだ。
 だから、社会生活を淡々と営むために、ごみも言葉も受け取ってくれる人がその扱いに困らないようにして吐き出す。それが社会人としての責任を果たす基本だ。それは福祉と同じだ。
 まず、ごみを出すことの無意識から改めたい。難しいことか。


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