例えば、国の予算を獲得したり事業を新設したりすることに関して、国会議員を何人も知っているとか、力のある国会議員と懇意でもあるからといって、それを力頼みにして、何とかうまく予算を獲得出来たとしても、そこに社会の意識は付いては来ないでしょう。
組織の長なり、組織の責任ある地位にいる人が、「いざとなれば国会議員に頼んで何とか……」というのを耳にするほど寂しいものはありません。そんな姿勢はいかがなものでしょうか。最後は票とカネを用意して、数と力を頼りにしますか。そんなことを何の疑問もなく日々繰り返しているから、国会議員のほうも自分の役割は国民から陳情を受け、己の力を発揮して、そこに何とか予算を付けてやることだ、と勘違いしてしまうのです。
国会議員こそが自分の足で歩いて、ことの実際、ことの実態を見聞しなくてはいけないのではないでしょうか。そうして現場に出向いて、そこで自分で感じ、何をどうすべきなのかを自分の頭で考えてほしいと思います。自分で歩ききれないのなら、有能な秘書集団を育てて、彼らに現場を歩かせて彼らの実感の伴った生の情報を集め、分析し、ことに当たっていただきたい。国民の票やカネはそういうことの繰り返しの中から付いてくるものだと思います。先に票やカネがあるわけではありません。
そのためには、ことの当事者である私たちこそが直面する課題や問題に日頃から真剣に立ち向かっていることが必要条件です。適当に議論し、適当に結論をまとめて、時間がないからあとは知り合いの、あるいは力のある国会議員にお願いしようなんて、まあ、何と虫のいいことよ。そんなお茶を濁すようなやり方でその場を凌いだりするから、社会での理解が進まないのです。
組織の長なり、組織の責任ある地位にいる人が、「いざとなれば国会議員に頼んで何とか……」というのを耳にするほど寂しいものはありません。そんな姿勢はいかがなものでしょうか。最後は票とカネを用意して、数と力を頼りにしますか。そんなことを何の疑問もなく日々繰り返しているから、国会議員のほうも自分の役割は国民から陳情を受け、己の力を発揮して、そこに何とか予算を付けてやることだ、と勘違いしてしまうのです。
国会議員こそが自分の足で歩いて、ことの実際、ことの実態を見聞しなくてはいけないのではないでしょうか。そうして現場に出向いて、そこで自分で感じ、何をどうすべきなのかを自分の頭で考えてほしいと思います。自分で歩ききれないのなら、有能な秘書集団を育てて、彼らに現場を歩かせて彼らの実感の伴った生の情報を集め、分析し、ことに当たっていただきたい。国民の票やカネはそういうことの繰り返しの中から付いてくるものだと思います。先に票やカネがあるわけではありません。
そのためには、ことの当事者である私たちこそが直面する課題や問題に日頃から真剣に立ち向かっていることが必要条件です。適当に議論し、適当に結論をまとめて、時間がないからあとは知り合いの、あるいは力のある国会議員にお願いしようなんて、まあ、何と虫のいいことよ。そんなお茶を濁すようなやり方でその場を凌いだりするから、社会での理解が進まないのです。