閉校式

2010年03月23日 | 日記・エッセイ・コラム

明治18年創立。以来125年。卒業生総数5612名。ピーク時の最高在校生数465名(昭和22年度)。平成21年度在校生11名、うち卒業生2名。平成22年3月31日閉校。

過疎化には勝てず、ということでしょうか。今年度末をもって周防大島町立屋代小学校が閉校になります。

さつき園は秋の行事である「さつき園ふれあい祭り」では、ずいぶん子どもたちにお世話になりました。子どもたちは自分たちの作ったお米を売るその元気な売り声で、大いに祭りを盛り上げてくれたのです。

3月20日に屋代小学校の講堂で閉校式が行われました。来賓としてご招待を受けましたので出席させていただきました。来賓の方々のあいさつは異口同音に「地域の方々のご決断を得て、子どもたちにより優れた教育環境を提供するために閉校することとなった……」というものでした。地域は苦渋の決断をしたのでしょう。子どもたちの教育をどう考えるか。地域の大人たちが考えに考えて出した結論です。

でも、果たして、当の子どもたちにも聞いたのでしょうか。「君たちはどうしたいの?」と。私はちょっと気になりました……。

閉校式で大きな声で学校にお別れのあいさつをする11人の子どもたち。大正琴で校歌を演奏します。

「山の泉の清らかに 流れる丘よ野も里も 誇りに輝くふるさとの 学びの庭よ屋代校 ……」

何度か入学式や卒業式に出席させていただいて何とか歌えるようになった校歌ですが、もう私が歌うことはないでしょうね。私の母校でもないのに、この日屋代小学校の校歌を歌うとなんだかさみしい気持ちになりました。

屋代小学校を後にしながら、『<学校>は子どもたちのものだ。大人はそれを保障するために力を尽くさねばならない。未来は子どもたちの手の中にあるのだから』と、思ったことでした。 

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『ファイト!』

2010年03月18日 | 日記・エッセイ・コラム

中島みゆきというシンガーソングライターがいます。彼女が作詞作曲した歌の歌詞に

  ファイト!闘う君の唄を

 闘わない奴等が笑うだろう

  ファイト!冷たい水の中を

  ふるえながらのぼってゆけ

 という詞があります。

 そうです。闘わない奴は笑うのです。彼らはあれこれ言うが、闘いもせずただ遠巻きに巻いて嘲り笑っているだけなのです。

 そういう人がいるかと思えば、誰にも見えないところで、誰にも見えない闘いを静かに懸命に闘っている人がいます。

 「園長さん、今日は出張ですか?ずっとさつき園にいますか?」

 私のネクタイ姿を見て、○○さんが、□□さんが、そして△△さんが聞いてきます。

 「はい、ごめんなさい。今日は山口へ出張です」「あー、そうですか。気を付けて行ってきて下さい」「はい、ありがとう」

 「園長さん、明日お母さんと広島に行きます」

 「いいですねぇ。園長も連れて行ってください」「いやー、ダメです」「それは残念」

 そんな他愛もない会話が楽しいのです。

 そんな楽しい会話の相手をしてくれる彼らは、しかし私の見えないところで闘っています。これまでも闘ってきて、そしてこれからも闘っていくのです。世間という、あるいは地域社会という姿かたちの定まらない大きな時間と空間をもつ幻想と。

 情けないことに、本来私たちは彼らに対して「ファイト!冷たい水の中をふるえながらのぼってゆけ」というほかないのかも知れません。

ときに今、政治は経済は社会はそして世間は、いったい本気でさつき園に通うような人たちの福祉を考えているのだろうか、ただ笑っているだけではないのか、と懐疑的になる瞬間があります。そんなときは心密かに 「ファイト!」と、私が私自身にそう呟くのです。

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異様な光景

2010年03月16日 | 日記・エッセイ・コラム

「異様な」というのは少々言いすぎか

しかし 前々から気になっていることがある 

会議のテーブルについた出席者全員の前に置かれたペットボトルのことだ

その多くはその腹に大抵『おーい○○』『□□茶』『△△茶』などと書かれている

ロの字型に並べられた机の上に等間隔で置かれた多数の薄緑色のペットボトル

その場にいても テレビで見せられても その光景はやはり異様と思う

ひねくれ者は つい「宣伝料でももらっているのか」と疑いたくもなるというものだ

いちいちお茶をついで回る手間が省けて楽なのかもしれないが 接遇としてはいかがなものか

ひょっとして接遇という感覚ではなくて それは単なる給水の手段ということなのか

私たちはマラソンランナーか

そんな給水をさせられて はたして会議の中身が豊かになるだろうか

たかがお茶かもしれないが

お茶こそ 淹れてくれた人の思いに触れながら飲みたいものだ

手間暇かけて何かを成すことを疎ましく思う時代になったということか

手っ取り早く に価値があるのか

けれど 手間暇かけずに生きて 何が残る

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ある虚構の作文

2010年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

皆さんはご存知でしょうか。今、厚生労働省の元局長が検察と対峙していることを。そして、ひょっとしてそこには検察が描く壮大な虚構があるのではないか、と噂され始めていることを。

そんな中、私は以前あることでの行きがかり上、さつき園園長としてやむを得ず検察と対面したことがあったのを思い出します。

その部屋に入って対面したときの検察の言動には言いようのない威圧感があり、その口調や表情には、こちらにゆっくり言葉を選んで答える余裕を与えぬ高圧的なものがありました。一人が質問し、もう一人は黙ってそのやり取りをパソコンに記録していきます。思わず身構えたのを覚えています。

そして検察は、私から引き出したある事柄に関する私自身の行動や思いについての説明の大半を、検察独特かと思われる言葉に何の躊躇もなく置き換えて、記録したのです。復唱されたそれは、私の言葉の中からあらかじめ検察自らが作った物語に合う単語だけを所どころにはめ込んで書き上げた作文、という印象でした。

丹念に一つ一つの事実を積み重ねて真実に迫ろうとするのではなく、自分の思い描く物語のためにある強い思い込みをもって作文を積み重ねると、あたかもそこに書かれたことが事実であり、現実に起こったのかと錯覚していきます。しかしそれはどこまでいっても虚構にすぎません。

私の場合の検察の作文は虚構とまでは言えませんでしたが、今回の厚生労働省の元局長の一件では検察の作文には何が描かれ、どんな意図が隠されているのでしょうか。

このところ私たちは検察をよく話題にします。がしかし、はたして私たちは検察の何を知っているでしょうか?

権力を持つ者が予断やある意図をもって動き始めると、一般人である私たちの人権や人格などは紙くず同然に扱われるばかりです。虚構によって事実が覆い隠され、人権や人格が毀損されるようなことがあってはなりません。

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