宇宙との交信

2008年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム

宇宙の話です。

例えば、高度な通信ができる文明の寿命を100年として、直径約10万光年といわれる銀河系で、私たち人類と同じタイミングで高度な文明が存在する惑星の数は、計算上たったの14個なのだそうです。

そして、この14個の惑星を銀河系の中に均等に配置すると、隣の惑星までの距離はなんと約7000光年ということになるそうです。つまり、自分たち地球人の存在をアピールする電波を宇宙に向けて送ったとしても、交信できるには往復で約1万4000年かかることになります。

お互いの文明の寿命を10倍の1000年とすると、可能性のある惑星の数も10倍の140個になります。しかし、その140個の惑星が銀河系内に均等に存在しているとしても、一番近い惑星までの距離は700光年くらいです。つまり、お互いに交信するのには往復1400年かかるわけです。

お互いの文明が長続きすれば、もしかしたら、他の知的生命体と交信することができるかもしれませんが、気の長い、いや気の遠くなるような話です。

地球を食べつくそうとしている人類は、その自らが発展させてきた高度な文明によって自らの寿命を縮めていくようです。地球温暖化、民族・宗教抗争、核問題、金融恐慌……。

孤独な地球、そして孤独な私たち人類は、いったいどこへ向かっているのでしょう?地球はいつまで青い惑星として宇宙に浮かんでいられるのでしょう

?

年の瀬に、ふと夜空を見上げた拍子に、そんなことを思ったのです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未熟者

2008年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

ビンや缶や箱のふたをしっかりと閉める。ドアは静かに開け閉めする。トイレのスリッパはきちんと揃えて脱ぐ。あいさつ言葉は相手の目を見て言う。ゴミはできるだけ嵩(かさ)を小さくして、ゴミ箱へ捨てる。道具はていねいに使う。使った道具や備品は元の場所へ戻す。受話器はていねいに置く。物を壊したら直す。せきやくしゃみをするときは手のひらで口元を覆う、新聞はきちんとたたむ、……などなど。

これらはすべて他人を意識することから生まれる動作です。他人を意識せずに動作しているうちは、つまり自分の動作が客観的に見えていないうちは、社会人として未熟者と言われても仕方ありません。

私たちは日常のこんな些細な動作をいくつもいくつも積み重ねる中で、社会の中で他人との信頼関係を作り上げていきます。働くとは他人のために己の心身を活動させることです。

さつき園の利用者は、朝通所して来ると、ちゃんと私たちの顔を見て目を見て、大きな声で「お早う!」「お早うございます!」と言います。それを聞くと、いかに未熟者の園長でも『今日も頑張ろう!』と思うのです。利用者に働かせてもらっています。利用者に働く意味を教わっています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひげ剃り

2008年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

ドアを開けて「お早うございます!」と言うや否や、あごをヌッとつきだす○○さん。このところの毎朝の園長室での光景です。

ある時、私が「○○さんはひげを剃るのが上手じゃのー。きれいに剃れとるなー」としきりに感心したことがあったのです。聞いたら「自分で剃るんよ」とのことでしたが、実際、お世辞でも何でもなく、剃り残しもなく上手に剃ってくるのです。

それからです。○○さんは毎朝、さつき園に来るとカバンをロッカーに入れるのもそこそこに、園長室のドアを開けて「お早うございます」と言うなり、私に向かってあごを突き出すようになりました。突き出して、何も言わずにニヤニヤ笑っています。

「おっ、今日もよう剃れとる。合格!」私がそう言うと、さも嬉しそうに「えへへ」と言って、ドアを閉めるのです。そして、廊下にいた他の利用者に「合格!合格!」と知らせています。

今は、その○○さんのひげ剃りの上手なことをことさら話題にして、雑にひげを剃っていても気にする素振りのなかった□□さんに、ひげ剃りに関心を持ってもらい、少しでも上達してもらえればと声かけを始めたところです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運命

2008年12月19日 | 日記・エッセイ・コラム

日曜の午後、FMラジオを聞いていました。

ある番組で、リスナー(生後5ヵ月の赤ん坊を残して奥さんが亡くなってしまわれたご主人)からの投書を読んだそのパーソナリティーが言いました。

『運命に立ち向かってください』

当事者に孤独を強いる厳しい表現にもかかわらず、優しさあふれるその語り口が私の胸に響きました。

私たちはみんな、大人も子どもも誰もかれも、人には見えないところで密かに一人ひとりそれぞれの運命に立ち向かっています。運命に抗うことも、運命を受け容れることも、それらはすべて運命への孤独と勇気の闘いのかたちです。その投書の主とまだ生まれたばかりの子どもさんの人生に幸あれと祈らずにはおられませんでした。

翻って、さつき園の利用者が“知的障害者を生きる”その姿を見るとき、私はいつも「おい、頑張れよ!」と胸の奥で声にはならない声をかけてしまいます。彼らの明るい笑顔は、まさしく「運命に立ち向かう」姿そのものと思うのです。 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プライドと志

2008年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム

 「安全を本当に支えるのは監視システムでも、運転規則でもなく、技術者たちのプライドと志なんです」

 これは、昨日目にした、日本のある業界の責任者の言です。

 即座に「利用者の豊かな人生を本当に支えるのは個別支援計画でも、支援マニュアルでもなく、職員たちのプライドと志なんです」と言い換えてみました。

 あなたに、プライドと志はありますか? 

  いや、その前に、この私にプライドと志があるのか?

 ふと目にしたその言葉が昨日から頭の中を巡っています。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敬称「先生」について

2008年12月02日 | 日記・エッセイ・コラム

訪ねてきた人が言います。

仲間内でお互いを「先生」と呼び合うのはおかしい。「○○(苗字)さん」でいい、と。「そうですね」と私も同意しました。長年、福祉施設では職員を「○○先生!」と呼ぶ習慣がありました。園長を「園長先生」と呼ぶところもありました。いまでもそう呼び合う施設がないともいえません。

しかし、訪ねてきたその人は、福祉施設に限らず、学校でも病院でも教員や医者がお互いを「先生」と呼び合うのはおかしい、と言われます。むー、そこまで言われるか、とちょっとびっくりしました。が、それが本当かもしれないな、とも思います。

お気づきの方もおられるでしょうが、NHKなどでは、例えば番組のゲストの大学教授を「○○大学の△△先生」とは呼びません。「○○大学教授の△△さん」と呼んでいます。

さつき園の利用者は、私のことを「園長!」と呼んだり、「園長さん!」と呼んだり、中には「古川さん!」と呼ぶ人もいます。そしていまだに、「園長先生!」と呼ぶ利用者もいます。そのたびに「“先生”はいらんのよ」と言って、言い直してもらっています。ご家庭で保護者の方がそう呼んでおられるのでしょうか。障害者福祉の歴史を感じる瞬間です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする