落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第130話 2年越しの雪

2015-03-09 10:51:41 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第130話 2年越しの雪




 ゆずりは公園を後にして、15分ほど歩く。
四万街道を下っていくと前方に、赤い欄干の落合橋が見えてくる。
昼間なら赤い橋の下を流れる、独特の四万ブルーと呼ばれる清流が見える。
だが、深夜の今はそれも見えない。
はらはらと舞う雪が、黒い川原に静かに吸い込まれていくだけだ。


 「2年越しの雪になりましたなぁ・・・」


 川面を覗き込んだ佳つ乃(かつの)が、ポツリとつぶやく。
寄り添うように歩いてきた佳つ乃(かつの)が、橋の真ん中で立ち止まった。
「女は恋に生きるものどす」と最後に佳つ乃(かつの)が語ったきり、
2人は交わす言葉を見失ったまま、落合橋まで下って来た。


 せせらぎの音は、橋の上まで響いてくる。
だが、水の音は聞こえても、川面は暗い底に沈んだままだ。
それでも佳つ乃(かつの)は、見えないはずの暗い川面を覗き込む。



 赤い橋を渡りきると、落合通りの狭い商店街がはじまる。
通りをすすめば、宿泊している積善館の前に出る。
商店街と言っても、寂れ切った田舎の路だ。
客の少ないスマートボールの店と、昭和を思わせるような古いたたずまいの
商店が、ポツポツと現れるだけの、静かな通りだ。
3分もあれば、通り抜けてしまう短い商店街だ。
ポツリと光っているのは、理事長が飲みなおしているスナックの明かりの様だ。


 「あんたかて、ホンマは、2の足を踏んどるやろ。
 自分自身の生き方やいうのに、決心がつかないでただ揺れているだけやなんて、
 情け過ぎますなぁ、ホンマ、ウチ等は・・・」


 (悩ましい新年が、やってきましたなぁ・・・)と佳つ乃(かつの)が、
小さな溜息を洩らす。



 「祇園の芸妓が、母になることなら可能どす。
 けど、芸妓として生きている限り、結婚することは出来ません。
 内縁の妻として、男はんと暮らしてはるお方も中にはおりますが、
 ウチには、そんな生き方は無理なようどす。
 引退して普通のおなごになるか、屋形の女将にでもおさまれば家庭が持てます。
 芸妓を辞めさえすれば、ウチも人並みに結婚することは可能どす。
 実に簡単な話どす。
 けどなぁ、それが分かっていながら、清水の舞台から跳べんのどす。
 もう少し勇気が有れば、白蓮のように恋に生きたと思います。
 申し訳ありません。
 どないしても、ウチにはまだ、その勇気がここにないんどす」


 「すんまへん」と佳つ乃(かつの)が胸に手を当て、唇を噛む。
(あんたには、迷惑のかけっぱなしやなぁ・・・)と、小さな声でさらに付け加える。
面倒くさい女どす、ウチは・・・ともう一度、佳つ乃(かつの)が、唇を噛む。
芸妓を辞める決意を固めきれない女と、農家を継ぐ意志を固めきれない男が
赤い欄干に寄り添ったまま、暗い川面をじっと見下ろす。



 雪が、いつの間にか勢いを増してきた。
勢いを増した雪が、佳つ乃(かつの)黒髪へ舞い降りる。
大粒に変った雪が次から次へ、暗い川面へ落ちていく。
風に揺られた雪がふわりと飛んで、佳つ乃(かつの)のほつれ毛にまとい着く。
振り払おうとした似顔絵師の手を、佳つ乃(かつの)の左手が受け止める。


 「しがらみが多すぎる女どす、ウチは。
 ウチを、実の子供のように可愛がってくれたバー「S」のオーナーの、
 期待を裏切ることはできません。
 置屋のお母さんや、お茶屋の女将さんたちの期待も、ウチは裏切ることができません。
 佳つ乃(かつの)は芸妓になるために、祇園に生まれた女の子どす。
 最初から芸妓になる運命を背負って、ウチは生まれてきたんどす。
 ようやくのことで皆はんに、恩返しが出来るとこまで来たんどす。
 まだ簡単に、辞めるわけには、いかへんのどす・・・
 ウチのここにもっと勇気というもんが有ったなら、ウチは、
 恋に生きる、普通の女になれんのに、なぁ・・・」


 佳つ乃(かつの)の左手が、似顔絵師の指先を心臓のある左胸の上に導く。
にわかな風が、赤い欄干へ吹いてきた。
舞い落ちる雪が風にあおられて、突然向きを変え、激しく横に流れていく。
「あっ」と小さく声を上げた佳つ乃(かつの)が、似顔絵師の胸に、
あわてて顔を埋める。


 佳つ乃(かつの)の手から離れた傘が、風に乗って、空中高く舞いあがっていく。
2度。3度。空中で揺れたあと、傘が暗い川面に向かって舞い落ちていく。
「傘が飛んでしまいました。やっぱりウチらの前途は、多難のようどす・・・」
しっかりと抱きとめられた似顔絵師の腕の中で、目を細めた佳つ乃(かつの)が
「絶対に、離さんといてな」と、もう一度小さな声で、そっとささやく。


第131話につづく

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おちょぼ 第129話 女は恋に生きる

2015-03-08 10:44:42 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第129話 女は恋に生きる



 
 「ふるさとにかへりしごとき 四万の里 若葉のやまは 抱かむとする。
 四万の山並みが、故郷の京都の山に似ていると詠んだ白蓮の短歌どす。
 16歳で最初の結婚をした白蓮は、そこから、波乱の生涯を生き抜いていきます。
 恋に生き、自らの愛を貫き通した、白蓮の人生。
 晩年に出会った四万の山並みに、故郷、京都での少女時代を重ね合わせるんどすなぁ。
 四万の山々が、さぞ愛おしく思えたことでしょう」


 細かい雪が舞い落ちる中。佳つ乃(かつの)が白蓮の生涯を短く語る。



 「ウチには、絶対に真似できない人生どす。
 実はなぁ、群馬へ着いた最初の夜。
 お姉さんの陽子さんと居酒屋さんで呑みました。
 あなたが生まれた頃の話。3歳で、絵を描く天分が有ると認められたこと。
 中学と高校時代のガールフレンドたちのこと。
 全部、詳しく教えてもらいました。
 最後に四万温泉へ行くのなら、情熱歌人の白蓮の歌碑が有るから、
 ぜひ見てきてと言われました」


 「なんだよ。おしゃべりだなぁ、姉さんも・・・」

 
 稲包神社と白蓮の歌碑が有るゆずりはの公園は、水晶山の登山口になっている。
日向見からゆずり地区に抜けるかつての道も、この公園内を横切っていく。
「山のあなた ひるも夜もある灯ひとつ しつかなるかな 四万のやまなみ」
と書かれた白蓮の自筆の歌碑は、すぐに見つかる。
初詣で賑わう稲包神社の鳥居を抜けたすぐ脇に、ひっそりとして建っている。
白く染まりはじめた石段を、地元の人たちが時々行きかう。



 帰る姿が多く見えるのは、年越しのイベントが一段落したからだ。
時刻を見ると、午前1時をすでに過ぎている。
雪が舞う氷点下の気温の中を、すでに1時間以上も歩き続けていることになる。
厚手のポンチョを着ているとはいえ、さすがに指先と足の先から寒さがしのび寄って来る。



 「戻ろうか」と似顔絵師が、佳つ乃(かつの)の背中へ手を回したとき、
「おう。やっと顔を出したな、ご両人」と背後から、おおきに財団理事長の
ダミ声が飛んできた。


 「どうするんだ。
 白蓮の歌碑と心中するつもりなら、見放して置いていくぞ。
 年越しのイベントが一段落したから、ワシらはスナックへ戻って呑みなおす。
 その気があるなら、車に乗れ。
 いやならそこで朝まで2人で、仲良く夜明かしをするがよかろう」


 「おおきに。お気持ち、ありがとうございます。
 けど、ウチらはまだ新年の散策の途中どす。
 歩いて戻りますゆえ、のちほどスナックにて、またお目にかかりたいと思います」



 雪の積もった相合傘を傾けて、佳つ乃(かつの)が理事長に向かってほほ笑みを見せる。
「なるほど。気が付かんかった。新年早々、余計な世話をやいたようじゃ。
では先に戻っておるゆえ、気が済むまで歩いてから、顔を出すがええ」
行くぞと駒子の肩を抱き、理事長が相合傘の2人に背を向ける。


 「それにしても姉さんは、いったい何を考えているんだろう。
 四万温泉と言えば、先に見るべき名所や絶景がたくさんあるというのに、
 よりによって白蓮の歌碑を教えるなんて、なにを考えているのか、
 まったく理解ができないな」


 「ウチが2の足を踏んでいることに、気が付いたんやと思います」


 「2の足を踏んでいる?・・・・君が?」



 「清水はんの舞台まで、足を運んだつもりです。
 けどなぁ。いざ舞台の上に立ってみたら飛び降りる勇気がないんどす。
 芸妓を辞める決心が、つかんのどす。
 28日の朝どした。
 理事長はんから、サラを連れて四万へ遊びに来いと電話をもらったんどす。
 渡りに舟どしたなぁ。すぐに荷物をまとめて、新幹線に飛び乗りました。
 四万へ行く前に、あなたの実家を訪ねれば、ウチの気持ちが思いきれるかもしれん。
 そんな風に考えて、回り道をしました・・・
 いまから考えれば、浅はかな思いつきどすなぁ。
 ウチの躊躇を、お姉さんはきっと、一目で見抜いたんどす。
 女は恋に生きるもの。そんな風に言いたかったんやと思います、お姉さんは」


    
第130話につづく

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おちょぼ 第128話 白蓮の歌碑

2015-03-07 13:00:31 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。 

おちょぼ 第128話 白蓮の歌碑




 「ずいぶん熱心に祈っていたねぇ。サラ。
 何を祈っていたんだ。保護者としては気になるなぁ、聞かせろよ、
 いったい何を熱心に願っていたんだ?」


 「いけませんなぁ、兄さん。
 神様とかわしたお誓いは秘密どす。秘密は、簡単に口にしたらいけんのどす」


 「へぇぇ、願い事をしたのかと思ったら、神様に誓いを立てたんだ君は。
 やっぱり、自分の将来をチャンと見つめている子は違うねぇ。
 今どきの若い子とは、心がけが根本的に違うなぁ」


 「いくら褒めても、神様と交わした誓いは絶対にあかしまへんえ。
 あ・・・それからですなぁ」


 「それから?。まだ何か有るの・・・」



 「何もおへん。ウチ、これでもう、お祖父ちゃんのお部屋へ帰ります。
 再会すんのは、明日の朝のご馳走の時という事になりますなぁ。
 兄さん。ウチは一人で帰れますさかい、残った佳つ乃(かつの)姐さんを
 よろしゅうお願いいたします」


 サラがポンチョのフードを引き上げて、すっぽりと頭へかぶる。
(大丈夫なの、夜道をひとりでも)と心配顔を見せる佳つ乃(かつの)に、
(心配おへん。一本道どすさかい、迷う心配はありまへん。
それに、いつまでもお2人の恋路の邪魔をしていたのでは、ウチも気が引けます。
ここらでいっぺん、消えておきたいと思います。うふふ・・・)
ニコリと笑たサラが、元気に参道を駆け降りていく。



 零時頃から舞い始めた雪が、時間とともに勢いを増してきた。
雪を路肩に寄せたはずの参道が、ふたたび白く染まりはじめている。
短い坂道を一気に駆け下りたサラが、麓で足を緩めた。
四万街道へ続く細い道を、振り返ることなくゆっくりと歩き始める。

 「あの子なりに気をきかせたんどす。
 ウチは途中で消えますさかい、あとは2人で過ごしてくださいとスナックに
 居る時、ウチにささやきました。
 ウチがぽつりと白蓮の碑を見たいと、言い出したせいどす」

 
 「白蓮の碑?。白蓮というと、あの恋多い情熱歌人の柳原白蓮の事かい?」


 「そうどす。大正天皇の従妹にあたる女性で、恋多き歌人として名を馳せた人物どす。
 父は柳原前光伯爵。
 母は前光の妾のひとりで、柳橋で芸妓をしていた没落士族の娘、奥津りょう。
 白蓮は恵まれない結婚を繰り返したあと、恋に生きる女として駆け落ちをするんどす。
 その白蓮が四万を訪れ、詠んだという歌碑がこの近くにあると聞きました」


 「へぇぇ・・・恋多い女、白蓮が、こんな鄙びた四万温泉へ来ていたんだ。
 初耳だ。初めて知ったなぁ・・・」



 「近くに有名な草津温泉や伊香保温泉が有るというのに、
 あえて、ひなびた四万へ足跡を残したというのも、いかにも白蓮らしい行動どすなぁ。
 実はなぁ、あんたのお姉はん、陽子さんに教えてももらったんどす。
 四万へ行くなら、情熱歌人の白蓮の歌碑を見てきなさいって」


 「どこにあるんだい、その白蓮の歌碑というのは」


 「四万ダムの堰堤の下。ゆずりは公園内にある稲包神社の境内やそうどす」



 「稲包といえば、理事長たちが行っている場所じゃないか。
 なんだよ。それならそれで、最初からそっちへ足を運べば良かったのに」


 「サラは最初から、薬師堂と決めていたようどす。
 願いを叶えるために旅人の夢枕に立ったという薬師様へ、新年の誓いを立てると、
 最初から心に決めていたんどす。
 おちょぼの修行は、たいへんに辛いもんどす。
 8ヶ月から1年の間、なんも知らない女の子が、京の伝統芸能を身に着けるんどす。
 舞が身につかなければ、デビューすることは叶いまへん。
 毎日が氷の上で、精進しているようなものどす。
 修行の辛さに耐えて生き残った者だけに、はじめて舞妓の道が開けます。
 サラは今、その苦しさのど真ん中にいます。
 そんな時だからこそ神様に頼るんではなく、舞妓になる夢をかなえるために
 最後まで頑張りますと、神様と約束を交わすんどす」

 
 「君もそんな風に、神様に誓いを立てたことが有るの?」



 「四条通、東のつき当たりに八坂さんが鎮座してます。
 八坂神社は、祇園の守り神どす。
 舞妓と芸妓が流した、たくさんの涙を、全部知りつくしている神様どす。
 ウチも、舞妓になれるかどうかの年の明け。
 やっぱり今日のサラと同じように、八坂さんへお参りをしましたなぁ。
 舞妓になれるかどうかの、瀬戸際どす。
 それこそ必死に誓いました。
 ウチのすべてを捧げますさかい、どうぞこの春、無事に舞妓にさせておくれやすと、
 何べんも何べんも、神様と約束を交わしたもんどす」

 
 「なんだか俺も見たくなってきたなぁ。
 恋多き白蓮が詠んだという、ゆずりは公園居に有るというその歌碑を。
 ゆずりは公園は四万街道を、来た道とは反対方向へ進んだ右側に有るはずだ。
 行って見ようか。新年最初の、俺たちの記念すべきデートということで」


 (ウチは最初から、そのつもりどしたえ)と、傘を斜めに傾けて、
嬉しそうに佳つ乃(かつの)が肩を、そっと寄せてくる。

    
第129話につづく


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おちょぼ 第127話 サラの願い事

2015-03-06 10:50:16 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第127話 サラの願い事




 11時半を過ぎた頃。ふたたび、雪が夜空を舞い始めた。
寒冷地用の長靴を履いていても、足の先から寒さが忍び込んでくる。
凍てついた気温のためか、年が変わる深夜零時まであとわずかの時間になっても、
参道に初詣客の姿は現れない。
四万に住むほとんどの人たちが、年越しイベントが定着したダム直下の
稲包(いなつつみ)神社へ、足を運ぶ。



 (誰も来ないのかしら・・・此処へは)佳つ乃(かつの)が通路から、
参道を振り返った時、遠くに人の動く気配が見えた。
旅館の傘を斜めにさしかけた、宿泊客らしい二人づれだ。
(ようやく援軍の到着どす。物好きな観光客が居て、ほんま助かりましたなぁ)
人の姿が見えたことで、佳つ乃(かつの)がほっと胸をなでおろす。


 四万温泉では年越しに、新年を迎えるための除夜の鐘は鳴らない。
鐘を突く寺院が存在しないためだ。
初詣に出かけてきた人たちは、自分の腕時計で新年の到来を知るか、誰かが持ってきた
ラジオの実況放送で、煩悩を振り払うための鐘の音を聞く。



 時計が12時まであと数分になった。
傘を傾けた2人の観光客に続いて、人の姿がまた、参道の麓に現れた。
「5・4・3・2・1、よし、カウントダウンの終了。たったいまから、
新しい年のはじまりどす!」
この瞬間を待っていたサラが、石畳の短い通路を、脱兎のように駆けていく。
息を切らしたサラが、真っ先に、日向見薬師堂の真正面に立つ。

 (サラ。正面は避けなさい。
 正面は、神様のために空けておく場所どす。
 参拝のとき。中央を避けて参道の端を歩くのと同じ理由どす。
 お賽銭を静かに入れてから、お辞儀と拍手で神様へ到着のご挨拶をいたします。
 自分の名前と住所を告げたあと、神様へありがとうございますと、
 まずは感謝の言葉をささげます。
 新しい年の願い事を言うのは、それからどすぇ。
 順番でいけば、一番最後になりますなぁ)


 背中に立った佳つ乃(かつの)が、サラの耳へ小声でささやく。
小さくうなずいたサラが、すっと左の端へ身体を寄せる。
財布から取り出した小銭を、静かにつまんで賽銭箱へ差し入れる。



 遅れてやって来た人たちが、無言のまま、3人の後ろに列を作り始める。
佳つ乃(かつの)も財布を取り出す。
小銭を賽銭箱に差し入れたあと、両方の手を胸の前で合わせる。
しばらく祈った後、「あら、あなたは拝まないの?」と似顔絵師の顔を振り返る。


 「せっかくここまで来たというのに、神様を拝まないのどすか?
 バチが当たっても、ウチは知りまへんえ」

 
 「昔から、神頼みはしない主義でね。それに賽銭も持っていない。
 ・・・仕方がないなぁ。
 財布を持ってきていないから、君、小銭を貸してくれないか」


 「呆れた人。ひとから借りて、拝むものじゃありまへん。
 出かけるとき、自分の財布を持たないでよく平気どすなぁ、あんたってお人は。
 途中でなにかあったら、どうすんの」


 「何もないさ。たぶんね・・・」


 「あなたみたいにお賽銭までケチるひとは、神さまも助ける気にもなりまへんえ。
 けどなぁ。ウチ等の前途に、何か有ってからでは遅すぎます。
 はい、使ってください。
 ウチからのささやかな、お年玉どす」


 財布から取り出した500円玉を、似顔絵師の手のひらへ乗せる。
「ご縁(5円)の100倍どす。これでご利益が無かったらご縁と無かったと
諦めてくださいな。ご自分の無信心を恨むんどすなぁ」うふふと佳つ乃(かつの)が、
楽しそうに目を細める。



 受け取った500円玉を、似顔絵師がポンと賽銭箱へ投げ入れる。
願い事を、ざっくりと口の中で唱える。
(何はともあれ、新しい年の幕が開けた。
何が俺たちの前途を待ち受けているか知らないが、運を天に任せて突っ走るしかないだろう。
いや、天はまずいな。神様にお願いしておかないと、バチが当たりそうだ・・・)


 2人が願い事を終えて、薬師堂の前を立ち去ろうとしてもサラはまだ動かない。
神妙に両手を合わせたまま、真剣に祈りを続けている。
しびれを切らした後ろの参拝客が、サラの横からポンと小銭を賽銭箱へ投げ入れる。
「仕方ねぇなぁ)軽く舌打ちを見せたあと、するりと空いた空間へ、
身体を滑り込ませる。
それでもサラは目を閉じたまま、祈る姿勢を一向に崩さない。


 (ずいぶん熱心に祈っているなぁ、おちょぼのサラは・・・
 心に秘めた、特別な願い事でも有るのかな?)



 参道に立ち止まった似顔絵師が、熱心に祈り続けているサラの背中を見つめる。
サラの横に滑り込んだ参拝客は、さっさと願いごとを終えて、早くも参道を立ち去っていく。
後ろで順番を待っていた参拝客も、諦め顔を見せてサラの横へ滑り込む。
順番を急ぐ初詣の客も、さらさらと頭上で舞いつづけている細かい雪も、
深々と冷え込んでくる深夜の気温も、熱心に祈りつづけているいまのサラには
まったく関係が無いようだ。


 似顔絵師と佳つ乃(かつの)が、おこもり堂まで戻る。
火鉢の炭に手をかざし、ようやく指先に暖かさを取り戻した頃、長い願い事を終えた
サラが、2人の元に戻って来た。


   
第128話につづく

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おちょぼ 第126話 おこもり堂

2015-03-05 10:49:04 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第126話 おこもり堂





 間口が3間、奥行も3間。
国の重要文化材に指定されている日向見薬師堂は、寄棟造り、3間4方の建物だ。
屋根はすべて茅で葺かれている。
江戸幕府が開かれる前の、慶長3年(1598年)。
時の領主、真田信幸によって建立された武運長久を祈る建物だ。
祀られている薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)は、久しく治らない病気を治し、
すべての人を病気の苦しみから救ってくれる仏様として信仰を集めている。


 温泉地の奥に、ひっそりとたたたずんでいる茅葺の薬師堂には、
四万温泉発祥の伝説が残っている。
永延3年(989年)のころ。
源頼光の家来、碓氷貞光が越後から、四万奥にある木の根峠を越えて
日向見(ひなたみ)の地までやって来た。
今の薬師堂が建立されているあたりで、谷川の音に気持ちを静めながら、
一晩中お経を読んでいたという古事が有る。



 やがて、夢の中に一人の子どもが現れる。
「あなたの読経の真心に感心し、四万(よんまん)の病気を治す温泉を与えよう、
われはこの山神である」とお告げを残す。
山神が告げた通り、貞光が目を覚ますと枕元に温泉が湧き出ていたという。


 薬師堂の手前に「お籠(こもり)堂」がある。
病気が治るよう人々が、薬師様にお祈りするために泊り込みをした建物だ。
薬師堂建立から、16年後に建てられたと記録にしるされている。
間口4.79メートル。奥行は3.66メートルで、間口の中央に、表から奥へそのまま
抜ける通路がある。
おこもり堂の通路を抜けると、日向見薬師堂の真正面に出る。



 薬師堂へつづく山道は、真っ白に凍てついている。
表示に従い坂道を登っていくと、5分ほどでおこもり堂の正面に出る。
左手側にはひなたみ館があり、薬師堂の左下には足湯のある広場が見える。
あずまや風の足湯と共同浴場の御夢想の湯を挟んで、広場の突き当りに
かじかの湯で知られる中生館の建物がそびえている。
まだ時間が早過ぎるためか、薬師堂の前に人の気配はまったく無い。



 「なんや。薬師堂と言うから、もっとええとこに建ってんかと思うたら、
 広場の片隅に、ポツンと取り残されたような風景やな。
 それにしても古いなぁ・・・
 本堂もおこもり堂も、どちらも茅葺の屋根やんか」


 おこもり堂の古びた屋根を見あげて、サラが、崩れないのかしらと吐息を洩らす。
心配はご無用だ。長年にわたり山奥の風雪に耐えてきた建物だからねぇ、
と似顔絵師がサラの肩をポンポンと叩く。



 「薬師堂は、明治29(1896)年に定められた『※古社寺保存法』で、
 明治45年に国宝として指定を受けた。
 昭和25年に法律が改正され、国の指定重要文化財として再指定されている。
 このあたりにある旅館や足湯はあとから作られたもので、もともとは
 薬師堂へお参りするための道だけが有った」
 

 ※古い神社や寺を保存するための法律※




 おこもり堂の手前に、4段の石段が有る。
石段を登り、おこもり堂の中央に開いた3尺ほどの通路の正面に立つと、
一直線上の奥に、薬師堂の本堂の姿が飛び込んでくる。
通路の奥を覗き込んだサラが、「あら」と短い歓声をあげる。


 「普段は通路の両側に、内部を保護するためのガラス戸が有るそうどすが、
 今日に限り、それが取り外されておりますなぁ。
 ご丁寧なことに、石油ストーブと、火鉢のようなものが置かれておます。
 これで寒さをしのげという配慮でっしゃろか。
 粋どすなぁ。群馬の山神さまは!」


 暖がとれるのですか?、と佳つ乃(かつの)が石段をあがっていく。
通路が中央を抜けているが、通路の両側には3畳ほどの板の間が有る。
サラが言うように、石油ストーブが赤々と炎をあげて燃えている。
真ん中のあたりに、炭が焚かれた火鉢が置いてある。
こんな風にして昔の人たちは、一晩中お祈りしながらここに籠っていたのかしらと、
佳つ乃(かつの)が、おこもり堂の天井を見上げる。


 「兄さん。壁に何か書いてあります・・・なんやろな、これ」


 サラが板壁に残っている、薄い墨の跡を見つけ出した。
「元和・寛永・・・武州、茂作、妻、かよ。宇都宮、元助・・・。
落書きやろか、古い時代の?」薄い墨跡を、サラの指が不思議そうになぞっていく。



 「元和は、江戸幕府が開かれた慶長のあとの年号。
 寛永は、その次の年号で、寛永通宝が作られた時代のことだ。
 武州はいまの埼玉県。宇都宮は、栃木県の県庁所在地さ。
 旅と言えば歩くことが主流だった時代だ。
 四万の病に聞くという温泉の噂を聞きつけて、多くの人たちが、
 はるばるとこんな山奥まで、療養に来たんだろう。
 そんな記念に旅人たちが、願いを込めて板壁に書き記した、満願の想いさ」


 「へぇぇ。何百年も前の満願の想いか・・・。
 ウチも此処へ来た記念にひとつ、何か、書き残したろうかな」


 
 「コラ、やめておけ。不謹慎すぎる。
 お前さんが板壁に書くと、本当の落書きになっちまう。
 気持ちはわかるが、願い事と言うものは、胸の中で念じるだけで充分だ。
 おこもり堂と言うのは、そのために有る場所だ。
 もっとも・・・おちょぼのサラに願い事が有れば、という話だがな」


 「それが実はあるんどす。
 たったひとつだけどすが、ウチにはぜひとも叶えてほしい、
 強烈なお願い事が!」


 (えっ・・・冗談で言ったんだが本当に有るのかよ、願い事が・・・・?)と
似顔絵師が目を丸くしたまま、真顔のサラを見つめる。

 
  
第127話につづく

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