落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第135話 積善館の赤い橋

2015-03-14 12:23:29 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。



おちょぼ 第135話 積善館の赤い橋





 「ここはウチにとって、死んでも忘れられへん、思い出の場所になりました。
 ウチ。一生、なにが有ってもここでの出来事は絶対に忘れまへん」

 佳つ乃(かつの)に肩を抱かれたサラが、積善館の古い屋敷を見上げる。
赤い橋の真ん中に直立したまま、2人はいつまで経っても動かない。
駒子を乗せた理事長の車は、橋の向こう側でもう5分以上も停まったままだ。


 「ええ加減にせんか、お前さんたち。
 あと2~3日もすれば、また京都で再会できるやろ。
 男と女の別れならともかく、祇園の姉妹が橋の上で抱き合ってどうするんや」


 困ったもんじゃな2人とも、とパイプをくわえた理事長が額にしわを寄せる。



 「それにしても・・・・今日はおそろしいほどの別嬪やな、サラは。
 孫とはいえ、これほどの美人だったとは、まったく今まで気が付かんかったわい。
 女は化けるとよく言うが、実に恐ろしい進化ぶりじゃのう・・・」


 気が済んだのか、ようやくサラが佳つ乃(かつの)の腕から離れる。
「さて、では行くとするか」理事に手招きされて、サラが車の中へ消えていく。
走り始める前、サラが後部座席から名残惜しそうに指を振る。
「気ぃつけてな」と佳つ乃(かつの)が、手を振り返す。
駒子とサラを乗せた車が、落合通りの雪の中を走り去っていく。
「俺たちも行こうか」と歩きはじめる似顔絵師を、佳つ乃(かつの)が
ヒョイと引き留める。


 「待ってな。ウチ等のラブシーンが、まだどすぅえ」


 「え、橋の上でラブシーンかい・・・まいったなぁ。
 いくらなんでも、昼間からキスをするのは、まずいだろう」


 「阿保。橋の上から、四万ブルーと呼ばれる、独特の水の色を確認したいだけどす。
 それからもうひとつ。陽子さんへ、報告を入れる必要もあんのどす」


 佳つ乃(かつの)が懐から、スマートフォンを取り出す。
指先でタッチすると、即座に「はい」と陽子の声が聞こえてくる。
ウフフと笑った佳つ乃(かつの)が、はいとそのまま似顔絵師へ、スマートフォンを
手渡してしまう。



 「あ・・・姉さん。大作です。
 佳つ乃(かつの)が勝手に呼び出しました。
 自分で報告が有ると言ったくせに、何故かいきなり、スマホを俺に渡しました」


 「年上の女を呼び捨てるなんて、ずいぶん出世したもんですねぇ、あんたも。
 なるほど。家庭を持つ決意を固めると、男もいっぱしの口を聞くようになるんだね。
 帰ってくるんでしょ、2人揃ってこちらへ。
 大切な報告が有るはずです、あなたの大事なご両親へ」


 「な、なぜ、それを知ってんだよ、姉ちゃんは」



 「30分ほど前に、おちょぼのサラちゃんから電話をもらいました。
 私も母も大歓迎ですと、隣に居る佳つ乃(かつの)さんへ伝えてください。
 でも、父の徳治が問題ですね。
 俺だけが何も知らされずに蚊帳の外かと、元日からへそを曲げています。
 カミナリが落ちるのを覚悟して帰って来ることですね、大作くん」

 
 ウフフと笑って、通話が切れる。
佳つ乃(かつの)は赤い欄干から、嬉しそうに四万の清流を見下ろしている。
(親父がへそを曲げているそうだ)とスマートフォンを返すと、
(でも、なんとかしてくれるんでしょ、あなたが)と佳つ乃(かつの)が笑う。



 「私の本名は、美しく結ぶと書いて、美結。
 みゆと呼び捨てで呼んでくれるんでしょ、あなたは、今日から私のことを」


 「え・・・美結さんというんだ、君の本名は」


 「はい。ウチの本名を呼び捨てで呼んでくれるのは、あなたが初めてです。
 12歳の時、2度と縁がないと思い、忘れてしまったはずのウチの本名どす。
 もう一度、美結と呼ばれる日が来るとは、想いもしませんどした。
 ウチは今日から、あなただけの美結どす。
 呼んでな早くぅ、みゆって、呼び捨ててぇな・・・」



 色留袖の美結が、肩を寄せてくる。
四万の山並みは、何処を見ても雪一色の銀世界だ。
積善館の建物も、すべて白一色に埋もれている。
だが誰が落としたのか新湯川に架かる赤い橋だけが、綺麗に雪が落とされて
赤い欄干をあらわにしている。


 プルプルと美結の胸元で、スマートフォンが鳴り始めた。
(電話だぜ・・・)とささやく似顔絵師のポケットでも、同じように携帯が鳴り始めた。
2人を取り巻く人たちが、あわただしく動き始めたような気配がある。


 「ウチ等はいま取り込み中どす。野暮な電話は後回しどす」



 美結が嬉しそうに似顔絵師の胸にもたれかかってくる。
サラの化粧のついでに手直しをしたのだろうか、着けたばかりの甘い香りが
美結と一緒に、似顔絵師の胸にしのび込んできた。


最終話につづく

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おちょぼ 第134話 早いか遅いか、ただそれだけのこと

2015-03-13 13:02:32 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第134話 早いか遅いか、ただそれだけのこと




 部屋へ戻って来た佳つ乃(かつの)が、窓際の椅子へ腰を下ろす。
目を外へ向けたまま、ふぅ~と長い吐息を洩らす。
雪はすでに止んでいる。
柔らかい光が降り注ぐ中、昨日より厚みを増した屋根の雪がキラキラと輝いている。


 おおきに財団理事長は、京都へ帰る準備に取り掛かった。
4日までの予定をキャンセルして、京都に戻ることをその場で決断した。



 「駒子を水上へ送り届けてから、サラを連れて京都へ帰る。
 まずは、置屋の女将を説得せなならん。
 お茶屋の女将連中も、このニュースを知ったら仰天するやろう。
 おそらく。天地がひっくり返ったような騒動になるじゃろう・・・
 問題は山のように出てくる。たぶん事態を丸く収めるのはそれほど、簡単じゃない。
 だが、辞めると言い切った佳つ乃(かつの)の気持ちは、変わらないようだ。
 お前さんは、佳つ乃(かつの)の面倒を見てくれ。
 正月の休みが終れば、また京都で再会することになるだろう。
 戻ったら連絡をくれ。バー「S」へすぐに顔を出すから」


 それだけを伝えたあと、携帯電話を取り出してあちこちへ電話をかけ始めた。
理事長としての裏工作が有るのだろう。
現役の芸妓が、まだデビューもしていないおちょぼへ、自分の名前を譲ると決めたのだ。
ニュースが知れ渡れば、祇園中が上へ下への大騒ぎになる。
だが「万事任せろ。ワシがなんとか四方を丸く収めてみせる」と理事長は、
ドンと胸を叩いた。



 部屋へ戻った佳つ乃(かつの)は、無言のまま外を見つめている。
ふたたび小さな吐息を洩らした後、また四万の山並みを静かな目で見つめはじめる。
「俺たちも、帰りの支度をはじめるとするか・・・」
似顔絵師が小さくつぶやいて立ち上がった時、廊下でコトリと音がした。
音のしたほうを見ると、青ざめたサラがそこに立って居る。


 だがサラは、「すんまへん」とうなだれたまま、部屋の中へ入ってこようとしない。
気が付いた佳つ乃(かつの)が、窓際の椅子からサラを振り返る。
佳つ乃(かつの)の視線に気が付いた瞬間、「申し訳ありません!」と
いきなりサラが廊下へ座り込む。



 「出過ぎたことを言いすぎました。
 全部、ウチの勝手な思い付きどすが、けど、一度口にしたことはもう元には戻りまへん。
 結婚に2の足を踏んでいる姐さんを見るのが、辛いんどす。
 ウチが姐さんの名前を継げば、万事が解決する・・・
 浅はかにも、そんな都合のええ展開を考えついてしまいました。
 そうすることが最善やと決めつけて、無理難題を口にしてしまいました。
 堪忍して下さい、ウチ・・・姐さんに死ねと言われれば、死んで見せます。
 死ぬ覚悟を決めて、こうして謝りにやってきました」



 「阿保。ウチの名前を継いでくれるあんたが死んだら、元も子もないやろ。
 あんたが言い出したこととはいえ、ウチが納得をして決めたことどす。
 名前を継ぐあんたに、何の責任もない」


 そんなところへ座っていたら風邪をひきますえと、佳つ乃(かつの)が立ち上がる。
動こうとしないサラを迎えるために、廊下まで歩いて行く。
だがサラは廊下にひしっと頭をこすりつけたまま、立ち上がろうとしない。
「風邪ひきますえ」とふたたび佳つ乃(かつの)が優しくささやきかける。
それでもサラは駄々っ子のように、ただただ首を左右に振るだけだ。
立ち上がろうとしないサラの肩へ、佳つ乃(かつの)が指を置く。


 「阿保やなぁ、あんたも。
 元気が取り柄のおちょぼが、おめでたい正月から、目を腫らすほど泣いてどうすんの。
 そんな顔で京都へ戻ったらあかんえ、お前って子は。
 泣いてなんか居る場合やあらへん。本当にたいへんなんは、これから先どす。
 問題の入り口で泣いているようでは、これから先なんか生きていけません。
 さぁ。お化粧を直してあげるから、明るいほうへおいで。
 知りたいんだろう、あたしの白粉(おしろい)の方法を」



 「姐さんの、化粧・・・・」サラが、思わず顔を上げる。



 「佳つ乃(かつの)になりたいのなら、あたしの白粉を盗む必要があるやろう。
 全部教えてあげます。さぁおいで、明るいほうへ、サラ」


 「死ぬ覚悟で姐さんに謝りに来たのに、ええんですか、ホンマに・・・」



 「ウチ自身が決めたことや。
 遅かれ早かれ、引退は、こころに決めていたことどす。
 あんたのおかげで、ウチは、清水の舞台からようやく飛ぶことができました。
 感謝するのは、ウチのほうや。
 けどなぁ、芸もろくに出来んおちょぼにまさか、祇園から追い出されるとは、
 夢にも思わんかったわなぁ。
 びっくりしましたでぇ。突然、引退しろと言い出されたときは」


 「すんませんホンマに。でも、ほんまにええんですか。
 ウチのような問題の多い帰国子女が、佳つ乃(かつの)姐さんの名前を継いでも。
 だいいちウチ、それほど別嬪やおまへん・・・
 なんや、今頃になってから責任の重大さに、胸がドキドキしてきました」


 「ええもなにも、全部もう、決まったことどす。
 心配あらへん。あんたはこころの中が、とびっきりの別嬪や。
 化粧次第で女は変わるもんどす。
 全部教えてあげるから、安心して明るいほうへおいで。
 あ・・・すんまへんが、大作さんは席を外してや。
 女が生まれ変る瞬間は、秘密どす。
 理事長さんのお部屋へ行って、サラのお化粧をするために、
 あと1時間ほどかかると伝えてください。
 ウチの大事な妹が、佳つ乃(かつの)に生まれ変ります。
 そう伝えてくれれば、理事長はんは、すべてを理解してくれると思います」

 
第135話につづく

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おちょぼ 第133話 引退しておくれやす

2015-03-12 11:13:11 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。


おちょぼ 第133話 引退しておくれやす




 「佳つ乃(かつの)姐さん、お願いどすから引退をしておくれやす。
 ウチ。姐さんの名前に泥なんぞ塗りません。
 必死に頑張りぬいてみせます。
 きっと姐さん以上の芸妓に、必ず育って見せますぅ。
 サラの、たった一度のお願いどす。
 姐さんの佳つ乃(かつの)の名前を、ウチに譲ってください」


 「サラ。血迷ったか、
 舞妓としてデビューもしておらんくせに、祇園のトップの名前を譲ってくれと
 無理難題を言うにも、限度がある。
 いくらお前の頼みとはいえ、とうてい叶う願い事ではないわ!」


 サラが、これ以上は下げようがないほど畳に、頭をこすりつける。
駒子は言葉を失ったまま、ただ茫然と口を開けている。
似顔絵師は、突然巻き起こった途方もない話の展開に、頭の中を整理するため、
冷静を取り戻すことに必死だ。
そんな中。理事長が、顔を真っ赤にして立ち上がる。



 「何を言っておるのか、わかっておるのかサラ。
 佳つ乃(かつの)といえば、祇園甲部で人気のいちにを争う芸妓だ。
 トップに立つ芸妓を失うという事は、その日から贔屓の客が激減することを意味する。
 一部どころか、祇園全体がピンチに陥ることは、火を見るよりも明らかだ。
 舞妓の修行中のお前が、佳つ乃(かつの)の損失をカバーできるとでも思っておるのか。
 思い上がりもはなはだしい。まったくもって話にならん。
 佳つ乃(かつの)の意見を聞かずとも、俺がこの場で却下する。
 せっかくの祝いの膳だというのに、お前のたわごとで雰囲気がぶち壊しになった。
 正月早々、めでたい席を、混乱させた責任は重いぞ。
 わかっているんだろうな。駆け出しとはいえ、そのくらいのことは」


 しかしサラは反論をしょうとしない。
「お願いします」を繰り返すだけで、頭を畳にこすりつけたままピクリとも動かない。


 「よろしおす。よろこんで佳つ乃(かつの)の名前を譲ります」


 佳つ乃(かつの)の涼しい目が、理事長の真っ赤な顔を見上げる。




 「ゆ、譲る・・・・お前まで、何てことを言い出すんだ!
 お前もサラも、いったいなにを血迷っておる。
 譲るも何も、お前の名前が消えてしまえば、祇園甲部の勢いに急ブレーキがかかる・・・
 そうなることは、当のお前が一番よく理解しているはずだ。
 今のお前は、高嶺に咲く絶頂期の華だ。
 女としても美しさのてっぺんに居る。
 いま引退するなんて、とんでもない話だ。
 置屋の女将が許しても、祇園を応援するおおきに財団の理事長として
 おまえさんの引退だけは、石にかじりついても、絶対に阻止をしてみせる!」


 「理事長はん。祇園をささえておるのは、ウチだけやおへん。
 100人ちかい芸妓さんと、10人を超える舞妓がおます。
 ウチひとりが欠けたところで、それほど事態が急変するとは思えまへん。
 ただし。名前を譲るからには、ウチにもひとつだけ、条件がおます」



 「ほ、本気か、佳つ乃(かつの)。
 お前は祇園を代表する芸妓として、絶頂期のど真ん中におるんだぞ。
 いま引退する必要なんか、ないだろう。
 結婚することは出来ないが、内縁関係なら別に問題は無い。
 事情を隠したまま、似顔絵師と仮りの所帯くらいなら、持つことが出来る。
 あと5年とは言わん、せめて3年は頑張ってくれ。
 絶頂期のいま。評判の高いお前さんを引退させるのは、あまりにも惜しすぎる」


 「理事長はん。
 サラを責めんといてください、サラに罪はありません。
 名前を譲ると決めたのは、ウチ自身が、たったいま決めたことどす」



 「本気で引退するのか、お前は。絶頂期のこの時期に・・・
 分かった。
 で、条件と言うのはなんだ、名前を譲るための条件と言うのは・・・」



 「サラ。あんた死ぬ気で、この先の3か月間、舞いの稽古に励みなさい。
 お師匠さんの許可が出て、置屋のお母さんが舞妓としての店出しを認めてくれたら、
 あんたの望み通り、ウチは名前を譲ります。
 ただし。正式に譲るのは、4月の『都をどり』が終ってからどす。
 舞妓の佳つ乃(かつの)と、芸妓の佳つ乃(かつの)が、
 都をどりの舞台をつとめます。
 無事につとめおえた千秋楽の日、あたらしい佳つ乃(かつの)を誕生させます。
 サラ。これがあんたに名前を譲るための、ウチからの条件や。
 舞ってくれるんやろな。ウチの名前を譲るかどうかをきめるための、都をどりを。
 死ぬ気で、舞台を頑張りぬくんやで。
 それがでけたら、ウチは喜んであんたに、佳つ乃(かつの)の名前を譲ります」



 佳つ乃(かつの)の涼しい瞳が、畳に張り付いたままブルブルと振るえている
サラの背中を静かに見つめる。

 

第134話につづく

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おちょぼ 第132話 佳つ乃(かつの)の名前が欲しい

2015-03-11 12:58:32 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第132話 佳つ乃(かつの)の名前が欲しい





 元旦。午前8時ちょうど。
おおきに財団理事長から、特別な膳の用意が整ったと連絡が入った。
「総料理長が自ら手掛けた、正月用のおまかせ会席だ。
5人揃って正月を祝おうではないか。山奥だというのに、縁起物の鯛赤飯まで付いておる」
と朝からすっかり上機嫌だ。


 似顔絵師がインタネットで見かけた、積善館のおせち料理を思い出す。
重箱の中にぎっしりと、贅を尽くした素材が並んでいた。
(料理長自ら手がけた膳とは、朝から、豪勢なことだ・・・
さすが、贅を誇る最上層の佳松亭に泊まっているだけのことはある)


 佳つ乃(かつの)は、いつ呼ばれてもいいように、正月用にあつらえた
色留袖に着替えている。
留袖は既婚女性が着用するものの中では、格式が最も高いとされている。
振袖の袖を落としたものを留袖と呼ぶ。全体が黒のものを黒留袖と言う。
他の色で染めてあるものを色留袖と言い、身内の結婚式に出席する際に着用する。
黒留袖は既婚者のみの着用だが、色留袖は未婚者でも着用ができる。



 江戸時代。女性が18歳になった時や結婚した時、女性がそれまで着ていた
振袖の袖を切り、短く止めるしきたりが有った。
この風習が「留袖」の原点だ。
江戸時代の女性は好きな相手がいると振袖を着て、袖を振って愛情を表現した。、
結婚するとその必要がなくなるため、袖を留めた。
切り落とした振袖の袖は保存しておき、第1子が産まれたときの産着として
着用させるという習わしがあった。


 「ほう。正月から、見事に花が咲いたのう。
 実に初々しい。まるで匂うようじゃ、お前さんの色留袖姿は・・・
 おちょぼや芸者見習いとは、さすがに、役者の格が違うのう」



 理事長が、極限まで目を細めて笑う。
色留袖姿の佳つ乃(かつの)を、いそいそと出迎える。
膳の前にはすでに、真新しい着物に着替えたサラと芸者見習いの駒子が
姿勢をただして待っている。


 「普段はタメ口をきいたり、甘えた口調などを交わしていても、
 年が改まった正月ともなれば、きっちりと改まった挨拶をしたいものじや。
 正装して正座し、三つ指をつくくらいの気持ちで正月を迎える。
 『あけましておめでとうございます』と、気持ちよく挨拶をする。
 これが日本の伝統じゃ。
 その点やはり、佳つ乃(かつの)はしっかりと心得ておるのう。
 ワシから見ても、すべてにおいて完璧じゃ」



 「ウチのほうこそ、昨年中は、理事長はんにはなにかとお世話になりました。
 支えていただいたおかげで、無事にお座敷を勤めあげることが出来ました。
 祇園の活性化のためにも、いいとも財団がますますご活躍されることを、
 こころから期待しております。
 また、こんな風にして似顔絵師さんと知り合えたのも、理事長はんのおかげどす。
 今年は彼の夢が実現するよう、ウチもしっかり応援したいと思います。
 機会が有りましたら彼のご家族に、ご挨拶させていただきたいと、
 実は密かに願っております」


 「お前さんの恋路の世話まではしておらんぞ・・・ワシは。
 まぁええ。どうだ、聞いたかサラ。
 新年の挨拶と言うものは、最初に、昨年中に世話になった人へ感謝の言葉を伝える。
 新年の話題に、さりげなく触れることも大切じゃ。
 彼の夢が実現することを願っていると言ったが、それは結婚したいという
 お前さんからの、逆告白になるのかな?」


 「ではお祖父ちゃん。
 ウチからも、是非とも聞いていただきたい、たっての希望が有るんどすが、
 ここでご披露してもええどすか?」


 「ほう、舞妓にもなっておらんおちょぼのくせに、たっての望みが有るとな。
 面白い。なんじゃ、遠慮しないで言うてみい。
 事と次第によっては、ワシがお前の願いのために、ひと肌を脱いでもよいぞ」



 「ほんまですか、お祖父ちゃん!」


 「目出度い年の明けじゃ。なんでも良い。願い事が有るなら言うてみい。
 可愛い孫のお前の願いなら、たとえ火の中であろうと、水の中だろうと聞いてやる。
 清水の舞台から飛び降りろと言えば、パラシュートを着けてでも飛んでやる」


 「ほな、安心してご披露します。
 願いと言うのは、ただひとつどす。
 ウチがこの春、舞妓になって店出しをするとき、ぜひともお姐さんの名前、
 佳つ乃(かつの)の名前を、襲名したいと思います」



 「何!、佳つ乃(かつの)の名前を襲名したいだと!
 冗談も休み休み言え!。
 サラ。それが、どういうことを意味するのか、わかっているんだろうな。
 無茶を言い出すにもほどが有る。
 何の事だか、ワシにはまったくもって、訳が分からん!」



第133話につづく

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おちょぼ 第131話 元日の朝

2015-03-10 11:19:00 | 現代小説
「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第131話 元日の朝




 理事長たちと呑みなおした後、午前2時に一行が店を出る。
前夜から舞い始めた四万の雪は、衰える気配をいっこうに見せない。
強い風に乗り乱舞し始めた雪が、歩き始めた一行を四方向から激しく襲う。
積善館前の赤い橋へたどり着いたころは、理事長と駒子も、
似顔絵師と佳つ乃(かつの)も、叩きつける雪粒のために、全身が
白い塊になっていた。


 玄関で雪を振り払い、急ぎ足で部屋へ戻った佳つ乃(かつの)が、
いきなり炬燵の中へ潜り込む。
「新年早々。とんだ雪の洗礼どすなぁ・・・身体の芯まで冷えてしまいました」
と炬燵から顔だけだして、苦笑いをする。 
雪で冷え切った指先は炬燵に入っただけでは、何時まで待っても暖かくならない。
しびれを切らした似顔絵師が、「埒があかないな、岩風呂へ行こうか」
と佳つ乃(かつの)を誘う。
「ええどすなぁ。」と応えて、佳つ乃(かつの)も炬燵から足を出す。



 午前3時。勢いを増した雪が、風と共に吹き荒れている。
曲がりくねった長い廊下と、急な階段に、人の気配はまったくない。
さっきまで灯のついていた部屋も、今はすっかり寝静まっている。
ミシッと鳴る階段の音に、似顔絵師が思わず、シッと唇に手を当てる。


 「大丈夫どす、誰も起きておりません。こんな真夜中に・・・」



 うふふと佳つ乃(かつの)が周囲をあらためて見回す。
「やっぱり誰もおりませんなぁ。こんな時間に風呂へ行くのは、ウチ等だけどす」
と似顔絵師の背中へ貼りついてくる。


 佳つ乃(かつの)は祇園に生まれたその瞬間から、芸妓になることを
周囲から運命づけられ、育てられてきた女の子だ。
母は、祇園でも3本の指に入る売れっ子芸妓。
バー「S」のオーナーが養父として、幼いころの面倒を見た。
小学校の卒業とともにその後の面倒見たのは、いまの置屋の女将。
中学へ通う3年の間に、舞の名手としての素質が、順調に開花した。
舞妓として15歳でデビューしたあと、売れっ子への階段を一気に駆け上がる。
舞の上手な新星として名を馳せた後、19歳で襟替えをする。
その後の10年あまりで、佳つ乃(かつの)は、花街を代表する屈指の芸妓に成長する。


 31歳になった佳つ乃(かつの)は、誰が見ても絶頂の頂点に居る。
佳つ乃(かつの)を指名する客は、あとを絶たない。
指名する数そのものが、祇園の稼ぎ頭を意味する。
トップクラス芸妓の引退は、そのまま花街の未来を左右することになる。
辞めたくても辞められない重圧が、佳つ乃(かつの)の気持を重く支配している。



 (絶頂期にようやくのことでたどり着いているいま、ウチの事情だけで、
 芸妓を辞めるわけにはいかんのどす。
 お世話になったおおくのひとに、迷惑をかけすぎますさかい、
 少なくても、せめてあと3年。
 女としての盛りが色あせないうちは、芸妓を廃業するわけにはいきまへん。
 悩ましいことどすが、これがウチの運命どす・・・)
 女ざかりをあんたに捧げられないのは、不本意どすが、堪忍しておくれやす)


 悩ましい年が明けましたなぁ、と付け加えた小さなひと言の中に、
佳つ乃(かつの)の悔しさが、垣間見える。
似顔絵師もまたそのことを、赤い橋の上で心の底から実感していた。



 祇園は、きわめて特殊な町だ。
膨大な経費と長い時間をかけて、古典芸能と深い教養を身に着けた、
美しい女性たちを、計画的に生み出していく。
だが器量に恵まれ、深い教養と舞の技術を身に着け、細やかな心使いが出来る
3拍子揃った名芸妓は、そう簡単には誕生しない。

 かつての日本には、各地に、芸妓たちが活躍する花街が存在した。
だが時代とともに、多くの花街が衰退の道をたどった。
最終的に、ほとんどの花街が消滅した。
芸妓の芸を楽しみながら飲食するという文化は、過去のものになりつつある。
だが、ひとつだけ例外がある。京都の五花街だけはいまだに健在だ。
その秘密は、花街を支えるための京都独特のシステムに有る。


 祇園は、芸妓や舞妓たちを料亭で雇用するのではなく、置屋に置いている。
置屋は舞妓や芸妓たちを育て上げるために、ひたすら基礎教育の充実に力を注ぐ。
その昔、大阪のミナミにも置屋はあったが、置屋の経営が成り立たなくなってしまったため、
高級料亭に芸妓を置くことになった。
だがそのために、花街の衰退が結果的に早くなった。
料亭で芸妓を雇ってしまうと、芸を磨く必然性が消えてしまうためだ。
格式のある料亭に雇われている芸妓は、芸がなくても自然にお客がついてしまう。
安心は油断を招き、しのぎを削る競争相手の不在は、やがて自分の没落を招く。



 置屋の芸妓たちの場合、芸が下手ならお呼びはかからない。
競争原理を働かせることで芸妓たちに、芸を精進させるための必要性を作り出す。
花街における共通の知恵だったが、それを守りぬいたのは京都の五花街だけだ。
祇園のお茶屋が自ら料理をつくらず、仕出屋から料理を取るのもそのためだ。
仕出屋は、おいしい料理をお茶屋にタイムリーに提供できなければ、
祇園に存在する意義を失ってしまう。
そのために料理人たちは、日々懸命に、精進せざるをえなくなる。


 混浴の岩風呂の湯気の向こう側。
うすく見える白い裸体が、似顔絵師を小声で呼ぶ。


 「混浴いうのに、変どすなぁ。
 水面下の真ん中に、浴槽を分けように横たわる、大きな石が邪魔どす。
 乗り越えておこしやす。どなたも居りませんゆえ、いまが絶好のチャンスどす。
 ウチ。こう見えても、脱いだらけっこう凄いんどすぇ、うっふっふ」


 チャポンと水音を立てて備え付けの固形石鹸が、湯気の向こう側から飛んできた。



第132話につづく

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