赤襟の清ちゃんと、三毛猫のたま (20)
小原庄助のモデル
「へぇぇ・・・小原庄助さんは、実在していたのですか!」
磐梯山を見上げていた清子が、豆奴を振り返る。
深い眠りの中に居たたまも、豆奴の懐で目をさます。
『清子の胸の匂いもいいが、たまには年増の胸もいいもんだ。
なんでぇ、何かと思えば呑んべェの話かよ。そんなもの、おいらはまったく興味ねぇぞ』
フニャァと大きな欠伸をする。
(最初から、お前さまは仲間に入っておりませぬ。いいから黙って寝ておいで。
この、やんちゃ坊主)
うふふと清子が、たまの黒い鼻先をツンツンとつつく。
「全国に知られている会津磐梯山の元歌は、玄如節(げんじょぶし)。
玄如というのは、天寧寺のお坊さんのことです。
玄如は会津でも評判の美男子。
水をくみに寺から山すそまで降りてきた玄如を、一目見ようと女性達が集まる。
でも霧が濃くなり、玄如の姿を隠してしまいます。
昭和10年。小唄勝太郎がレコードを出します。
このとき。「おはら庄助さん なんで身上つぶした・・・」のおはやしがつきました。
それが全国的に広まり、有名な民謡になりました。
有名人でありながら、実体がよく分からない不思議な人物、
それが会津の小原庄助さんです」
「実態はわからないのですか・・・ふぅ~ん。
では、歌の中で作られた架空の人物なのですか、小原庄助さんという人物は?」
「何人か、モデルの言い伝えがあります。
最初に登場する庄助さんは、唄の中の飲みっぷりががぴったりの人。
江戸時代。ご城下にあった「丸正」という屋号の商人が材木で大儲けします。
東山温泉で連夜、豪遊をしています。
『小判釣り』というお座敷の遊びをしたと言うから、豪快です。
唄の文句のように、身上をつぶすほど遊んだらしいのですが、
それで身上をつぶしたかどうかは、記録に残っていません」
「身上を潰さなかったのなら、小原庄助ではありませんねぇ。うふふ」
「その次の庄助さんの先祖は、会津藩の藩祖といわれる保科正之公とともに、
信州の高遠から会津にやってきたお人です。
この方が会津へ赴任したのは、1643年のこと。
それから200年あまりの時が下り、幕末に小原庄助なる人物が登場します。
苗字帯刀を許された郷頭という身分で、戊辰戦役の際、西軍と壮絶な戦いを繰りひろげます。
勇猛果敢に戦った末、戦死したと伝わっています。
お墓は会津若松市内の秀安寺に、残っています。
まさに同名の、小原庄助さんそのものです。
ですが果たしてこの人物が、唄の中の庄助さんかどうかは、
いまだに解明されていません」
「あら。同名の方が居たのですか。でもそのお方とは違うようですねぇ。
大酒のみでもないし、朝からお風呂に入っていませんねぇ・・・」
「もうひとり、庄助さんがいます。会津漆器の塗り師で、久五郎なる人物。
彼はめっぽう酒が強かったようで、晩年、会津から少し離れた白河の友人宅で
客死したと言われています。
その方のお墓は、白河市の皇徳寺に、今も残されています。
墓石のカタチは猪口と徳利。戒名は『米汁呑了信士』。
庄助さんのイメージに、ぴったりでしょう。
時世の句が、『朝によし昼なおよし晩によし飯前飯後その間もよし』
と結局、何時呑んでも酒は旨いと詠っています。
お墓の石を削って飲むと、下戸でも酒が飲めるようになったと
いう言い伝えがあるほどの、大酒豪です」
「あら。さすがは酒豪のお国。
3人目がいちばん、小原庄助さんに近いかしら。
でも久五郎さんでは、お名前が違います・・・
結局、どなたが小原庄助さんなのか、決め手に欠けますねぇ」
「諸説がありどれが本物か、決め手はありません。
でもね。どの庄助さんが本物であれ、庶民のなかに人物のイメージが
歌を通して出来あがっているのは事実。
こよなく酒を愛し、おおらかに人を愛し、誰からも好かれる好人物、
それが歌に出てくる小原庄助さんです。
身上をつぶしたからといって、暗いイメージは全くありません。
人を信じてやまない愛すべき飲兵衛、それが会津の小原庄助さんなのです。
良い水、良い米、良い技、そして酒を愛する良い飲み手がいて、
初めて良いお酒が生まれるのです。
美味しい酒を育てる飲み手側の代表が、まさに会津の小原庄助さん。
会津の酒がいまこうして脈々と在るのも、やはり小原庄助さんがいたからこそ。
そしてその心意気は、いまもこうして会津の地に息づいています」
「そうだよねぇ。未来があったというのに
あえて、好き好んで身上をつぶしたのは、小春の方だものねぇ」
春奴母さんが、2人の背後でポツリとつぶやく。
『粋な歌さ、磐梯山は。まるで、小春の人生そのものなんだ』
と笑って見せる。
「会津地方で歌い継いでいる正調の会津磐梯山は、162番まである、
とても長い唄です。
あいだにときどきに都都逸(どどいつ)なども織り込まれている。
粋で艶っぽくて、セクシーだよ。
♪ 色で泣かされ 味でも泣かせ
罪なものじゃよ エーまた唐辛子
なんてのもあるし、そうかと思えば、
♪ 浅い川なら 腰までまくり
深くなるほど エーまた帯を解く
♪ 俺と行かぬか あの山越えて
落ち葉布団で エーまた寝てみたい
なんて一節もある。
いまでは忘れられてしまった若い男女の出会いの場が、
地方の盆踊りの中に、まだ有った頃の歌さ。
とはいえ清子にまだ、男女のことは全然わからないと思いますがねぇ・・・・」
春奴母さんと豆奴姉さんが、顔を見合わせて笑いはじめる。
『そうだよなぁ。オイラも、難しすぎてよくはわからねぇもの・・・』
と、たまも、小首をかしげている。
(21)へ、つづく
落合順平 作品館はこちら
小原庄助のモデル
「へぇぇ・・・小原庄助さんは、実在していたのですか!」
磐梯山を見上げていた清子が、豆奴を振り返る。
深い眠りの中に居たたまも、豆奴の懐で目をさます。
『清子の胸の匂いもいいが、たまには年増の胸もいいもんだ。
なんでぇ、何かと思えば呑んべェの話かよ。そんなもの、おいらはまったく興味ねぇぞ』
フニャァと大きな欠伸をする。
(最初から、お前さまは仲間に入っておりませぬ。いいから黙って寝ておいで。
この、やんちゃ坊主)
うふふと清子が、たまの黒い鼻先をツンツンとつつく。
「全国に知られている会津磐梯山の元歌は、玄如節(げんじょぶし)。
玄如というのは、天寧寺のお坊さんのことです。
玄如は会津でも評判の美男子。
水をくみに寺から山すそまで降りてきた玄如を、一目見ようと女性達が集まる。
でも霧が濃くなり、玄如の姿を隠してしまいます。
昭和10年。小唄勝太郎がレコードを出します。
このとき。「おはら庄助さん なんで身上つぶした・・・」のおはやしがつきました。
それが全国的に広まり、有名な民謡になりました。
有名人でありながら、実体がよく分からない不思議な人物、
それが会津の小原庄助さんです」
「実態はわからないのですか・・・ふぅ~ん。
では、歌の中で作られた架空の人物なのですか、小原庄助さんという人物は?」
「何人か、モデルの言い伝えがあります。
最初に登場する庄助さんは、唄の中の飲みっぷりががぴったりの人。
江戸時代。ご城下にあった「丸正」という屋号の商人が材木で大儲けします。
東山温泉で連夜、豪遊をしています。
『小判釣り』というお座敷の遊びをしたと言うから、豪快です。
唄の文句のように、身上をつぶすほど遊んだらしいのですが、
それで身上をつぶしたかどうかは、記録に残っていません」
「身上を潰さなかったのなら、小原庄助ではありませんねぇ。うふふ」
「その次の庄助さんの先祖は、会津藩の藩祖といわれる保科正之公とともに、
信州の高遠から会津にやってきたお人です。
この方が会津へ赴任したのは、1643年のこと。
それから200年あまりの時が下り、幕末に小原庄助なる人物が登場します。
苗字帯刀を許された郷頭という身分で、戊辰戦役の際、西軍と壮絶な戦いを繰りひろげます。
勇猛果敢に戦った末、戦死したと伝わっています。
お墓は会津若松市内の秀安寺に、残っています。
まさに同名の、小原庄助さんそのものです。
ですが果たしてこの人物が、唄の中の庄助さんかどうかは、
いまだに解明されていません」
「あら。同名の方が居たのですか。でもそのお方とは違うようですねぇ。
大酒のみでもないし、朝からお風呂に入っていませんねぇ・・・」
「もうひとり、庄助さんがいます。会津漆器の塗り師で、久五郎なる人物。
彼はめっぽう酒が強かったようで、晩年、会津から少し離れた白河の友人宅で
客死したと言われています。
その方のお墓は、白河市の皇徳寺に、今も残されています。
墓石のカタチは猪口と徳利。戒名は『米汁呑了信士』。
庄助さんのイメージに、ぴったりでしょう。
時世の句が、『朝によし昼なおよし晩によし飯前飯後その間もよし』
と結局、何時呑んでも酒は旨いと詠っています。
お墓の石を削って飲むと、下戸でも酒が飲めるようになったと
いう言い伝えがあるほどの、大酒豪です」
「あら。さすがは酒豪のお国。
3人目がいちばん、小原庄助さんに近いかしら。
でも久五郎さんでは、お名前が違います・・・
結局、どなたが小原庄助さんなのか、決め手に欠けますねぇ」
「諸説がありどれが本物か、決め手はありません。
でもね。どの庄助さんが本物であれ、庶民のなかに人物のイメージが
歌を通して出来あがっているのは事実。
こよなく酒を愛し、おおらかに人を愛し、誰からも好かれる好人物、
それが歌に出てくる小原庄助さんです。
身上をつぶしたからといって、暗いイメージは全くありません。
人を信じてやまない愛すべき飲兵衛、それが会津の小原庄助さんなのです。
良い水、良い米、良い技、そして酒を愛する良い飲み手がいて、
初めて良いお酒が生まれるのです。
美味しい酒を育てる飲み手側の代表が、まさに会津の小原庄助さん。
会津の酒がいまこうして脈々と在るのも、やはり小原庄助さんがいたからこそ。
そしてその心意気は、いまもこうして会津の地に息づいています」
「そうだよねぇ。未来があったというのに
あえて、好き好んで身上をつぶしたのは、小春の方だものねぇ」
春奴母さんが、2人の背後でポツリとつぶやく。
『粋な歌さ、磐梯山は。まるで、小春の人生そのものなんだ』
と笑って見せる。
「会津地方で歌い継いでいる正調の会津磐梯山は、162番まである、
とても長い唄です。
あいだにときどきに都都逸(どどいつ)なども織り込まれている。
粋で艶っぽくて、セクシーだよ。
♪ 色で泣かされ 味でも泣かせ
罪なものじゃよ エーまた唐辛子
なんてのもあるし、そうかと思えば、
♪ 浅い川なら 腰までまくり
深くなるほど エーまた帯を解く
♪ 俺と行かぬか あの山越えて
落ち葉布団で エーまた寝てみたい
なんて一節もある。
いまでは忘れられてしまった若い男女の出会いの場が、
地方の盆踊りの中に、まだ有った頃の歌さ。
とはいえ清子にまだ、男女のことは全然わからないと思いますがねぇ・・・・」
春奴母さんと豆奴姉さんが、顔を見合わせて笑いはじめる。
『そうだよなぁ。オイラも、難しすぎてよくはわからねぇもの・・・』
と、たまも、小首をかしげている。
(21)へ、つづく
落合順平 作品館はこちら
『夫婦喧嘩と北風は宵のくち』ということわざが有りますが
群馬の北風は、1日中吹きっぱなしです。
カミさんと娘が実家へ遊びに行き、誰もいない静かな1日を
過ごしておりますが、結局、箱根駅伝と昼寝で終わり。
正月休みも、あともう1日。
明日は恒例にしている、厄除け参りに行ってきたいと
思います。
何組も出来る訳でもないでしょぅから
来年もご招待・・多分相当の腕前でお仲間
さんたちと合わせられるゴルフなんですね
奥さんにプラス1打でしたか・・
残念ですが、次は頑張りましょう
話のなかで 信州の高遠から会津へ
いろんな所から信州PRありがとうございます
小原庄助さん・・私はお酒は弱いので
とてもそのような飲み方できませんが
友人の中には一升酒が何人もいます
そんなに飲める人って羨ましい時も
ありますね・・