アイラブ桐生・第三部
(30)第1章 軍需の街・コザ(3)
「沖縄の地上戦」
「おバァ、かえったよ」
コザ市の中の町から南に下って
東シナ海が見下ろせる丘陵地帯にある北谷(ちゃたん)村に
おばあと暮らす由香の自宅があります。
(現在は、北谷町です)
北谷は沖縄本島の南部にある農村です。
本島で、もっともくびれた形をしている部分にあります。
ここは、東と西の海岸までの幅が約10キロという、きわめて細い地形になっています。
西海岸の美浜地区には、若者や米兵たちに人気のスポットがあり、
娯楽場や店舗施設などがたくさん立ち並んでいます。
沖縄戦の激戦地のひとつとされたここ北谷は、
今では村の面積の半分近くを、嘉手納基地と陸軍貯油施設で占められています。
さらに2つの米軍キャンプが存在していることも重なって、
沖縄でもいちにを争う、米軍の施設の密集地帯になってしまいました。
そのために、婦女暴行や殺人事件などの重大な凶悪事件が多発するという
たいへん危険な地域のひとつになりました。
「私の命の恩人だから、しばらく置いてあげてね」
あがりなよ、と促しながら優花は、おバァを探しに座敷の奥へ消えました。
開けはなされた部屋に人影は見当たりません。
どうせまた、近所で野良仕事だろう・・
と自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、優花が戻ってきました。
その間に着替えるからと、もう一度、別の部屋へ消えていきます。
そうは言われても、行き場がないために、とりあえず縁側へ腰をおろしました。
まっ白い塀に沿ってハイビスカスの赤い花が
強い日差しによく映えていました。
壁の白い色が、目にしみるようにキラキラと輝いています。
内地でよく見かける、コンクリート・ブロックとは色も材質も違うようです
「サンゴを砕いた砂さ」
廊下へ戻ってきた優花が、指をさしながら教えてくれました。
「ここは台風の、通り道だからね。
壊れたら、またサンゴを砕いて作り直んだ。
サンゴの砂だから、壊れやすいけど、作りなおすのも簡単さ。
台風が来ると風の力もすごいけど、雨もすごく降る。
天が抜けたかと思うほど、激しく降るんだよ。」
「それだけじゃないさ。
大砲の弾も、鉄砲の弾もたくさん降ってくるさぁ」
いつの間に来たのか、しわだらけの顔に
猫背のせいで、とても小さく見えるおバァがそこに立っていました。
お友達だちかい、そんな日差しの強いところに座らないで座敷に上がれと手招きをします。
おバァ、私の命の恩人・・・と由香が言いかけると
「それは、さっき聞いたさぁ
わたしは、背が低いからといつも言ってあるのに、
この子は、下を見ないで、上ばかりを見て歩くんだ。
おバァが台所で、座っていたら、居ない、居ないと
確認もしないでいってしまうのさ。
このそそっかしさと、早合点は、一体だれに似たんだろうね~」
そう言ってうちわを振りながらおバァは、細い眼をさらに細くして笑います。
それは・・・・地形が変わるほどの艦砲射撃と、那覇市街を壊滅しつくした、
米軍の大空襲から始まったそうです。
太平洋戦争の末期、沖縄では熾烈を極めた地上戦が展開されました。
沖縄戦における全戦没者は、20~24万人とされています。
日本側の死者・行方不明者の合計は、18万8136人で
そのうち沖縄県の出身者は、12万2228人にのぼります。
そのうちの9万4000人が民間人だった・・という記録が残っています。
終戦後に亡くなった人たちも含めると、
実際の数字は、はるかにこれを上回ります。
1945年4月1日、守備陣の薄い本島中西部に上陸した米軍は、
まず、沖縄を南北に分断する作戦に出ました。
ここから沖縄全島を舞台にした、壮絶な制圧と抵抗の戦闘がはじまりました。
水際の迎撃作戦を選択せずに、徹底抗戦の野戦を選択した日本軍との
全面衝突が、沖縄の全ての土地で繰り返されました。
この徹底抗戦は、6月25日に大本営の指揮命令系統が崩壊するまで続きました。
戦闘に参加した軍人ばかりか、全島で住民をまきこんだ幾多の地上戦は
集団自決をはじめとする、幾多の悲劇を産んでいます。
しかし、おバァは、語ります。
「死んだ者はさぞ悔しかろうが、
沖縄の本当の地獄は、実は戦争が終わった終戦直後から、
さらにまた始まったのさ・・」
熾烈を極めた沖縄戦いの集結とともに、
軍人たちの捕虜とは別に、島民を収容するための強制収容所が作られました。
本島で11か所、周辺の島もふくめると、合計16か所に収容所が設置をされました。
本島の南部に、本土攻撃用の基地を建設するために、無人化政策が強行されます。
宜野座地区の収容所には、生存島民の2/3にあたる
20万人以上が押しこまれました。
多くの場合、収容所は集落単位で管理されます。
またそれぞれにアメリカ軍の憲兵が配置され、完全武装のもとで監視されました。
収容所の内部の管理は自治体形式がとられ、物資配給や労務の供出など
実務は自力によってすすめられました。
しかし決して万全な状態ではなく、飢えや負傷、マラリヤなどが蔓延をして
老人や子供たちが次々と亡くなったことも、また事実です。
また、米軍による占領支配の地域では、
兵隊たちによる住民への暴行や、強盗行為などの犯罪が多発発生をしています
無抵抗の住民を、背後から射殺するなどの蛮行も確認されています。
住民女性への拉致や暴行、強姦なども数多くありました。
まさに生き残っても、地獄といえる状態が沖縄では長い期間にわたって続きました。
「おバァのはなしは、長い」
優花がそう笑いながら、立ち上がります。
「生きていくためだもの
手段なんかを、えらんでいる場合じゃないよ。
お母さんは、アメリカ本国に行ってしまったままだ・・・
もう、沖縄何かに戻ってくるもんか」
そう言うと、すこし遊びに行こうと駄々をこねはじめます。
「迷惑をかけるね~
優花も、あんたがついていてくれれば大丈夫さ。
悪いが、孫の面倒をみておくれ。
なにか、美味しいものでも作っておくさぁ」
おバァは、笑いながら出掛ける二人を見送ってくれました。
坂道を下って、優花と二人で夕焼けの海岸をめざします。
もしかして君は混血かいと聞くと、優花はくりくりした目を近づけてきます。
「そうだよ、おとうは黒人さ。
黒人専用のAサインバーで二人は出会ったんだって。
私を産むとすぐ、おかぁは追いかけるようにアメリカ本国へ行っちゃった。
おばぁが、そう私に話してくれたさ。
居るんだよ、この島には
あたいみたいにして生まれてきた子供が、たくさんいるさ。
ちっとも、珍しくなんかあるものか、
そういう町さ、沖縄は」
本土とはまったく隔絶された、想像を越える占領地・沖縄の現実です。
終戦からすでに20年余沖縄は、本土とはまったく異なる戦後の道を歩いてきました。
いま目の前にいる優花は、占領支配にあえぐ沖縄の歴史の生き証人のひとりです。
「そんな、特別な目でみないでさ。
あたしにだって、日本人としての誇りはあるよ。
すこしだけ、黒い血がまじっているというだけで差別はされているけれど・・・・
私のかあさんだって、望んだ道じゃ無いと思うけど、
ほかに生きる道がなければ、それも仕方のないことさ。
いまごろは、どこにいるんだろう。
生きているのか、死んだのか
それすら私には、分からない。
どうすれば、いいと思う、
ねぇ、群馬。」
目の前にはすでに陽が落ちて、暗くなった東シナ海が広がっています。
これでもこの子は、まだ、たった15歳になったばかりです。
15歳の春を迎えたばかりのこの幼い少女は、おばぁには内緒で、
Aサインバーを渡り歩きながらストリップで、小銭を稼いでいます。
「働かなければ、食えないさ」
そう言いながら、実ははにかんでいます。
内地に暮らしている、恵まれた15歳たちとは大違いです。
日本からもアメリカからも見放されて、軍事政権下で無権利状態で支配されている
沖縄では、15歳にしてこんな少女も育っています。
伸びやかでしなやかな手足を広げて、無邪気に水遊びをしている
15歳を見つめているうちになぜか涙がこぼれてきました。
思わず、熱いものがこみあげてきました。
人が生きるということの意味は、一体なんだろう・・
自由どころか、最初から過酷な運命を背負って生き続けている人たちが、
ここには、この占領支配下の沖縄には、限りなく存在をしているのです・・・・
それは初めて、異国で流したくやし涙でした。
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http://saradakann.xsrv.jp/
(30)第1章 軍需の街・コザ(3)
「沖縄の地上戦」
「おバァ、かえったよ」
コザ市の中の町から南に下って
東シナ海が見下ろせる丘陵地帯にある北谷(ちゃたん)村に
おばあと暮らす由香の自宅があります。
(現在は、北谷町です)
北谷は沖縄本島の南部にある農村です。
本島で、もっともくびれた形をしている部分にあります。
ここは、東と西の海岸までの幅が約10キロという、きわめて細い地形になっています。
西海岸の美浜地区には、若者や米兵たちに人気のスポットがあり、
娯楽場や店舗施設などがたくさん立ち並んでいます。
沖縄戦の激戦地のひとつとされたここ北谷は、
今では村の面積の半分近くを、嘉手納基地と陸軍貯油施設で占められています。
さらに2つの米軍キャンプが存在していることも重なって、
沖縄でもいちにを争う、米軍の施設の密集地帯になってしまいました。
そのために、婦女暴行や殺人事件などの重大な凶悪事件が多発するという
たいへん危険な地域のひとつになりました。
「私の命の恩人だから、しばらく置いてあげてね」
あがりなよ、と促しながら優花は、おバァを探しに座敷の奥へ消えました。
開けはなされた部屋に人影は見当たりません。
どうせまた、近所で野良仕事だろう・・
と自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、優花が戻ってきました。
その間に着替えるからと、もう一度、別の部屋へ消えていきます。
そうは言われても、行き場がないために、とりあえず縁側へ腰をおろしました。
まっ白い塀に沿ってハイビスカスの赤い花が
強い日差しによく映えていました。
壁の白い色が、目にしみるようにキラキラと輝いています。
内地でよく見かける、コンクリート・ブロックとは色も材質も違うようです
「サンゴを砕いた砂さ」
廊下へ戻ってきた優花が、指をさしながら教えてくれました。
「ここは台風の、通り道だからね。
壊れたら、またサンゴを砕いて作り直んだ。
サンゴの砂だから、壊れやすいけど、作りなおすのも簡単さ。
台風が来ると風の力もすごいけど、雨もすごく降る。
天が抜けたかと思うほど、激しく降るんだよ。」
「それだけじゃないさ。
大砲の弾も、鉄砲の弾もたくさん降ってくるさぁ」
いつの間に来たのか、しわだらけの顔に
猫背のせいで、とても小さく見えるおバァがそこに立っていました。
お友達だちかい、そんな日差しの強いところに座らないで座敷に上がれと手招きをします。
おバァ、私の命の恩人・・・と由香が言いかけると
「それは、さっき聞いたさぁ
わたしは、背が低いからといつも言ってあるのに、
この子は、下を見ないで、上ばかりを見て歩くんだ。
おバァが台所で、座っていたら、居ない、居ないと
確認もしないでいってしまうのさ。
このそそっかしさと、早合点は、一体だれに似たんだろうね~」
そう言ってうちわを振りながらおバァは、細い眼をさらに細くして笑います。
それは・・・・地形が変わるほどの艦砲射撃と、那覇市街を壊滅しつくした、
米軍の大空襲から始まったそうです。
太平洋戦争の末期、沖縄では熾烈を極めた地上戦が展開されました。
沖縄戦における全戦没者は、20~24万人とされています。
日本側の死者・行方不明者の合計は、18万8136人で
そのうち沖縄県の出身者は、12万2228人にのぼります。
そのうちの9万4000人が民間人だった・・という記録が残っています。
終戦後に亡くなった人たちも含めると、
実際の数字は、はるかにこれを上回ります。
1945年4月1日、守備陣の薄い本島中西部に上陸した米軍は、
まず、沖縄を南北に分断する作戦に出ました。
ここから沖縄全島を舞台にした、壮絶な制圧と抵抗の戦闘がはじまりました。
水際の迎撃作戦を選択せずに、徹底抗戦の野戦を選択した日本軍との
全面衝突が、沖縄の全ての土地で繰り返されました。
この徹底抗戦は、6月25日に大本営の指揮命令系統が崩壊するまで続きました。
戦闘に参加した軍人ばかりか、全島で住民をまきこんだ幾多の地上戦は
集団自決をはじめとする、幾多の悲劇を産んでいます。
しかし、おバァは、語ります。
「死んだ者はさぞ悔しかろうが、
沖縄の本当の地獄は、実は戦争が終わった終戦直後から、
さらにまた始まったのさ・・」
熾烈を極めた沖縄戦いの集結とともに、
軍人たちの捕虜とは別に、島民を収容するための強制収容所が作られました。
本島で11か所、周辺の島もふくめると、合計16か所に収容所が設置をされました。
本島の南部に、本土攻撃用の基地を建設するために、無人化政策が強行されます。
宜野座地区の収容所には、生存島民の2/3にあたる
20万人以上が押しこまれました。
多くの場合、収容所は集落単位で管理されます。
またそれぞれにアメリカ軍の憲兵が配置され、完全武装のもとで監視されました。
収容所の内部の管理は自治体形式がとられ、物資配給や労務の供出など
実務は自力によってすすめられました。
しかし決して万全な状態ではなく、飢えや負傷、マラリヤなどが蔓延をして
老人や子供たちが次々と亡くなったことも、また事実です。
また、米軍による占領支配の地域では、
兵隊たちによる住民への暴行や、強盗行為などの犯罪が多発発生をしています
無抵抗の住民を、背後から射殺するなどの蛮行も確認されています。
住民女性への拉致や暴行、強姦なども数多くありました。
まさに生き残っても、地獄といえる状態が沖縄では長い期間にわたって続きました。
「おバァのはなしは、長い」
優花がそう笑いながら、立ち上がります。
「生きていくためだもの
手段なんかを、えらんでいる場合じゃないよ。
お母さんは、アメリカ本国に行ってしまったままだ・・・
もう、沖縄何かに戻ってくるもんか」
そう言うと、すこし遊びに行こうと駄々をこねはじめます。
「迷惑をかけるね~
優花も、あんたがついていてくれれば大丈夫さ。
悪いが、孫の面倒をみておくれ。
なにか、美味しいものでも作っておくさぁ」
おバァは、笑いながら出掛ける二人を見送ってくれました。
坂道を下って、優花と二人で夕焼けの海岸をめざします。
もしかして君は混血かいと聞くと、優花はくりくりした目を近づけてきます。
「そうだよ、おとうは黒人さ。
黒人専用のAサインバーで二人は出会ったんだって。
私を産むとすぐ、おかぁは追いかけるようにアメリカ本国へ行っちゃった。
おばぁが、そう私に話してくれたさ。
居るんだよ、この島には
あたいみたいにして生まれてきた子供が、たくさんいるさ。
ちっとも、珍しくなんかあるものか、
そういう町さ、沖縄は」
本土とはまったく隔絶された、想像を越える占領地・沖縄の現実です。
終戦からすでに20年余沖縄は、本土とはまったく異なる戦後の道を歩いてきました。
いま目の前にいる優花は、占領支配にあえぐ沖縄の歴史の生き証人のひとりです。
「そんな、特別な目でみないでさ。
あたしにだって、日本人としての誇りはあるよ。
すこしだけ、黒い血がまじっているというだけで差別はされているけれど・・・・
私のかあさんだって、望んだ道じゃ無いと思うけど、
ほかに生きる道がなければ、それも仕方のないことさ。
いまごろは、どこにいるんだろう。
生きているのか、死んだのか
それすら私には、分からない。
どうすれば、いいと思う、
ねぇ、群馬。」
目の前にはすでに陽が落ちて、暗くなった東シナ海が広がっています。
これでもこの子は、まだ、たった15歳になったばかりです。
15歳の春を迎えたばかりのこの幼い少女は、おばぁには内緒で、
Aサインバーを渡り歩きながらストリップで、小銭を稼いでいます。
「働かなければ、食えないさ」
そう言いながら、実ははにかんでいます。
内地に暮らしている、恵まれた15歳たちとは大違いです。
日本からもアメリカからも見放されて、軍事政権下で無権利状態で支配されている
沖縄では、15歳にしてこんな少女も育っています。
伸びやかでしなやかな手足を広げて、無邪気に水遊びをしている
15歳を見つめているうちになぜか涙がこぼれてきました。
思わず、熱いものがこみあげてきました。
人が生きるということの意味は、一体なんだろう・・
自由どころか、最初から過酷な運命を背負って生き続けている人たちが、
ここには、この占領支配下の沖縄には、限りなく存在をしているのです・・・・
それは初めて、異国で流したくやし涙でした。
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