きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

NOBODY IS PARFECT

2016-09-08 | 友人
眠くて寝ようとしたところにG子から電話。

今日は会社でキレてしまったそうである。

私は「怒らないで生きるには」という本を読んだばかりだったので、(何やらともあれ怒ってはいけないんだけど。。。)と思ったが、はっきり言えなかった。キレた理由は正当化する言葉でしかないなと思う。

G子の話は娘さんのことになり、「あんなに苦労して育てたのに!」と言う。
「元夫にも裏切られ、娘にもこんな仕打ちをされた」と言う。

「あんなに苦労して育てたのに」「稼いだお金もあんなに使ったのに」
そう言うので、慎重に言葉を選びながら、「昔は私もそうだったんだよね」と言う話をした。

そう、私もずっとそういう風にkekeに言ってきた。
「こんなに頑張って育ててきたのに」と言ってきた。



この前、kekeと長い間話をしていて、やっぱり中学受験の頃の話になって「あの時、kekeが行きたい学校を受けさせればよかった」と言った。

「でもね、合格率も半分だったし、もしも落ちたらすごく傷つくと思ったんだよ。」

そういうとkekeは「そこは試練を与えるべきだったのでは」と言った。「自分で選んだことだから・・・挫折も必要だから。」

「そうだったんだね。」

するとkekeは言う。「でも今の自分があるのは、それがあったから・・・って考えることにした。」

「ポジティブになったんだな。」
「たまたま今は。」


私達は何か頑張ると、何か結果が出せるはずだと、どこかでそういう洗脳を受けてきてしまった。
こんなに頑張って育てたから、子供はこうなってくれるはずだと、(もちろん子供は自分の意思で進んで幸せになってほしいと表面的には願っているけれど)、どこかで理想を押し付けている所があるのだ。

その親子のしがらみ(プレッシャー)が苦しい時、子供は「頼みもしないので勝手に生みやがって、こんなに自分を苦しめて」と思うのかもしれない。


それから、もっとさばけて言ってしまえば、頑張った「結果」なんて無いのだ。

何を持って「いい結果」と呼ぶのか。

ちゃんと仕事をもって自立することか?
結婚して連れ合いと人生を歩むことか?
子供を2~3人生んで育てることか??
親孝行してもらえること?

そういう理想の結果(概念)がある限り、それを満たさない人を、私達は心のどこかでケイベツしているものなのだ。何よりもそれが一番罪作りなのではないかと思う。

kekeは仕事はしてないが、一方的な価値観や暴言で人を傷つけることも無い。
それは同じぐらい真っ当なことなんだよ。

仕事をしてるとか、結婚してるとか、子供がいるとか、そういうのと同じぐらいたいしたことなんだよ!
そう私は思う。


これは神様からの試練かもしれない。
G子が怒らなくなって、誰とも喧嘩にならなくなった時まで試されているのかもしれない。

口を開けばG子は「sakeちゃんがうらやましい、正社員だし、子供も一緒にいるetc・・・」と言うが、職場も車も明日はちゃんとあるか分からないし、kekeだってずっと一緒とは限らない。

幸せってそういうもので計るものじゃないのでは。
(と言いたいがまた喧嘩になるので言えず)

布袋さんの歌ではないが、NOBODY IS PARFECT 誰だってそうだろ?
ですよ。

渋皮煮からおなかの話まで

2016-09-07 | ぶきっちょさんの家事一般
まだ写真を撮っていませんが、栗の渋皮煮の方はおいしいです。

ビンに入れて、会社で毎日1~2個食べてます。^^
手前味噌ですが、うまくおいしくできました。


そして今回登場したのが、こちら!

「栗くりぼうずⅡ」という名前の栗の皮むき器です。(^_^;)

去年は渋皮煮を作るのに、包丁でえっちらおっちら剥いてましたが、栗の皮が硬くて時間がかかりました。
もちろんこれも1個1個剥くことには変わりが無いので時間は掛かりますが・・包丁に比べたら全然早い。しかも手が危なくない。
下の固い皮の所をこれで少し剥いて、栗の頭(先っぽ)まで皮を指ではがすようにして剥いてます。

去年は1度渋皮煮を作って「もういいわ~」と思いましたが、今年は栗ぼうずがあるので、もう一度ぐらい作っても良いかも・・ぐらいの気持でとどまりました。(^_^;)

でも栗ご飯や、渋皮も剥いて作る甘露煮までは「面倒くさいからもう今年はいいや~」って感じですかね。

うんうん・・この渋皮煮の甘さにいやされます~♪(^o^)


そして私は、禁酒日を週に2日ぐらいを目安にやっているのですが(まだ続いている)、その休肝日に、渋皮煮の煮汁を飲むことにしました。

なにしろ砂糖(きび砂糖)もたくさん入っているし、もしかしたら栗の栄養も入っているかもしれない(あくまでも独りよがりな想像なので賢い方は真似しないように!)ので、この渋皮煮の煮汁が捨てるのがもったいなかった。

そこで・・・炭酸で割って飲んだのです。

味は・・・おいしいです!(あくまで私の味覚)

もったいないので、しばらくこの渋皮ジュースを飲み続けようと思います。
(今日も朝の寝起きに飲みました。)

これもまた手前味噌ですが、人工的でないどこか優しい甘みに癒されるのでした。(^_^;)
・・・なんて、捨てるのがもったいないから飲んでいるんですけどね!


ちなみに、2日前にイワシの南蛮漬け(揚げてから南蛮酢に入れてひたす)を作った、その漬け汁ももったいないと思い、今日の朝もイワシを揚げて、その漬け汁につけてあります。

・・・・夜に食べる予定ですが、お酢ものなので、たぶんおなかは大丈夫でしょう。


お腹の続きで、昨日の夜、その前の日に買ったムキエビ。
触るとちょっとヌルッとしてて「食べて大丈夫かなぁ」と心配だったのですが、そのヌルっとしたのを水で洗い流して、チャーハンにして食べました。
チャーハンでフライパンでいためている間もあまい良いエビの匂いではなかったような気がしてとても不安だったのですが、できたチャーハンはおいしかったので(エビも味は異常なかった)、全部食べてしまいました。
(さてどうなるか・・)と思いましたが、今現在、おなかは無事です。

でもこれも賢い方は真似しないように!・・・です。

昨日作った栗ご飯

2016-09-05 | ぶきっちょさんの家事一般
週末に栗ご飯を作りました。

右が栗ご飯。
左は餃子。

写真はないけれど、「栗の渋皮煮」今年も作りました。(^_^;)少しだけどね。

栗ご飯は古い本を捨ててしまって、分量が分からなかった。
栗は少しゆでて、それを入れただけ(酒・塩は少しいれた)なので、甘くも無く、イモみたいでした。(だしで炊いたのに)
・・・渋皮煮の方がおいしかった。限りなくサツマイモのご飯みたいだった。

ご飯が味付けだったので、餃子と合わせました。

今日は銀行振り込みの口座の登録を間違えたり、生命保険会社からの書類を(ただの契約のお知らせだったので)社長の机に置かなかったので社長が探したあげくに、生保のレディさんに文句を言っていたり・・・今日もいろいろ失敗が重なりました。
でもどうにか1日を過してきました。

明日はどんな一日になるでしょう。

帰ってきてkekeがお皿を洗ってくれていたことに救われました。


先週、私がどよ~んと落ち込んでいた日に、kekeが話相手をしてくれました。
本当に落ち込んでウツのような心境のような時は、3日間何もしないでいると良いそうです。そこまで何もしないでいると、何かしたくなるので、その時に動き出すと良いそうです。

私は「ああなったらどうしよう」「こうなったらどうしよう」と考えるクセがあるので、kekeは「そうなったら考えればいいのでは。」と言います。

いつしか子供から慰められる立場になりました。
不思議です。


これは先週のお弁当。いつだったかな。

ハンバーグと回鍋肉というゴウジャスな弁当でした。



「怒らないで生きるには」/アルボムッレ・スマナサーラさん&しりあがり寿さん

2016-09-04 | 読んだ本
「怒らないで生きるには」/アルボムッレ・スマナサーラさん&しりあがり寿さん

これは図書館でたまたま手に取った本です。返却棚にありました。
これは衝撃的な本で、今まで何冊も感想を書いてきましたが、これはいろんな方にぜひぜひ読んでいただきたい、そして感想をうかがいたいと思う本である。

まず衝撃的なのが、冒頭のマンガ。

1人の女の子がほしかったケーキが売切れてしまって、お母さんに怒る。そこからお母さんが店の主に怒り、主がバイトの女の子に怒り・・・・次々に怒りが連鎖していって、ネットのたくさんの悪口や、怒りの政治デモ、最後には国同士が怒りあい戦争に至る・・・という内容である。

「怒らないで生きるには」


後半は、このマンガを描いた、しりあがりさんが、こちらのアルボムッレさんに「怒ることって何ですか?」「どうすれば怒らないでいられますか?」という質問をしていき、アルボムッレさんがそれに回答するという形式を取っている。あっという間(というと大袈裟ですが)に読めてしまう本である。

こちらのアルボムッレさんはスリランカの上座仏教長老という偉い方のようである。
「怒らなければならない事は何も無い!」と断言している人である。例えば、子供を殺された親御さんについても、「それでも怒ることはない」と言い、アメリカの9.11テロで息子を殺された母親で、テロへの報復に反対する活動をしていた人がいることを評価している。自分の息子は殺されてしまったが、テロへの報復の侵攻は自分と同じ悲しみを更に増やすことになると考えたのだろう。

正義なんて状況によって幾らでも変化する。
正義のための怒りや報復は(どのような場合でも)間違っている。

その考えが1冊に渡って語られているのである。

私は個人的に、自分が幼稚園時代にクラス中から嫌われていたので、最近よくある学校のイジメ事件が大嫌いだ。よってたかってグループで、1人の人間を追い詰めるような人間は二度とシャバに出られなくてもいいと思っていた。でも、そういう彼らでもやはりどこかで「事情」はあるに違いない。

幼稚園時代にいじめられたことや、家から出て行った元夫など、「こんなの許せない!」と思っていた人間が、今までの人生で何人かいたのだが、彼が加害者で自分が被害者なのかはもはや言い切れない。というのは、自分だって言い逃れのできない加害者になることもあるからと身にしみて分かったのだ。

もちろん法や罰則は必要である。
でもその上で、それが終わった時みんなで過去の事を問わない、上から目線にならない、「またもう1度やりなおそう」と言う気持で受け入れることは大切なことだと考えた。

そして冒頭のマンガでは、バイトの女の子が家に帰ってきて同棲している彼氏が仕事を探さないことに逆切れして怒っている場面が書いてある。その様子が、息子が働かないことに怒っている過去の自分とそっくりで恥ずかしいを通り越して悲しくなってきた。

私は数年前までこうして、息子を怒鳴り続けてきた。
働くこと、仕事を探すことが正論だとばかりに、上から怒鳴りつけてきたのだ。(過去のブログを見ればご覧の通りである)
自分は正しいことを言っている。間違っているのはkekeだ。
どんなに怒っても正しいと思ってきた。

でも、ちっとも正しくなかった。


この本では「怒ること」と単純に書かれているが、私はそれだけでなく「正論を通すこと」全てに該当すると思う。
スポーツや成績で勝ち負けや順位ができるのは当たり前。それがないと人は成長できないから。
でも負けても、「あ、これでは負けたけれど、他の面では否定しない」と言う考え方は大切である。仕事をしてないという一面があっても、そこでその人全てを否定することは浅はかなのである。むしろそこでその人全てを否定できる方が疎かなのではなかろうか。

このお坊さんは、今のアメリカのテロ報復や核兵器の維持をはっきり否定している。正義と言う報復は間違っているというのである。

私は中国や韓国が好きでないので、中国産のものはなるべく買わないし、韓国の音楽やドラマは見なかった。(皮肉にも仲の良い友達は好きな人が多いけれども)
でも、政治的な問題で全てを否定するのも正しいとは言えない。彼らは彼らの事情もあるのだろう。

本当の世界平和になるためには「怒る」とか「正義でやりかえす」とか「正しさを主張する」と言う方法では無いのかもしれない。私は割りと安倍さんよりなので、尖閣諸島も竹島も自己主張していいのではないかと考えていた。

でもその考え方は「世界平和」と言う意味では遠ざかってしまうのかもしれない。憲法9条を守るという考え方に一律の不安を持ってきたが、どこかの国がどこかの民族がそれを本当に正しいと思うのなら、体を張って命をかけて、それを世界にアピールするという考え方もあるかもしれないなぁ、と思う。
自分達は何もなくなってしまうけれど、もしかしたらその事で、それから後の世界の考え方は変わるかもしれないね。
「自分はこれを欲しい」と言う気持を持ち続けたままで、人に何かをアピールするのは説得力が欠けている。

そんなことを思った本でした!

amazonでの感想はこちらにあります。

ちなみにこの本を読んで、身近のある人のあの普段の怒りようはどうだろう?と言う思いがフツフツ沸いてきた。
でも、その人も怒らなければいられない事情があるのだろう。

私達ができることは、それを受け入れつつも、自分をほがらかにして、ほがらかな気持を周りにも伝染させて、いつかあの人がもっとほがらかな人に変われるように・・・時間を掛けて願っていくことだと思う。(少しイヤミ?)