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東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って 復興の現状と課題 その3 南三陸、気仙沼(K)

2013-06-12 | 被災地復興
南三陸
 あの防災庁舎やその周辺の低地は家の土台だけが残る空き地のままだが、復興商店街のさんさん商店街は半年前よりも店の数が増えていた。ちょうど中学生の体験学習で地元の海産物の売り子をやっていた。中学生は「楽しい」と言っていた。ヨーロッパ的なモダンなバス停もあった。プレハブなのだろうがこういうプレハブはおもしろい。
 周辺には商店ができてきていた。少しずつ元の生活に戻ってきているのだろうか。
 
 

気仙沼鹿折

 第18共徳丸。全長約60メートル、総トン数330トンの大型巻き網漁船は、震災から2年が経過しても津波で流れ着いた場所にある。船が打ち上げられた気仙沼市鹿折(ししおり)地区は、津波に襲われたうえに震災当夜には大火災が発生して、一帯が焼けつくされた所だ。この共徳丸、この「震災の象徴」をどう扱うか、市民の間で戸惑いが広がっているという。いずれにしても大きな漁船だ。それが、街中の交差点のところにある。遠くからもそれとわかる。周辺は家の土台だけが残る広大な空き地と化している。
  

東日本大震災から2年3か月 福島、宮城、岩手を回って 復興の現状と課題 その2 東松島、石巻(K)

2013-06-12 | 被災地復興
 2日目は東松島を通って石巻。

 東松島市。奥松島の手前の東名を見た。岬に作られた新興住宅地が津波でさらわれ、元は一面の田や畑だったようだが、何かの建物も海に浸かり、舗装道路まで海に没したままだ。地震によって地盤が沈下し一面が海になっていた。
 
震災前の東名駅付近(インターネット航空写真より)  震災後の東名駅付近(インターネット航空写真より)
上の写真の橋を下のほうに渡って、写真の右手の方(湿ったような土の色の部分)を見た。そこは一面の海になっていた。それが、下の写真。


浸水したままの建物

殉職した消防団員を含む約150名の方の慰霊碑があった。津波の犠牲者には高齢者が多い。


 
 石巻は昨年4月と10月に来ているが、日和山から見下ろす海沿いの元住宅地は、ガレキこそなくなっているものの今も家がない。


 日和山公園で聞いた地元の人の話によると、山の下の元住宅地(1300戸)は公園や工場になるという。工場を建てる場合でも何十人か登れる避難所の設置が義務付けられる。
 被災者の住宅の現状は、自力で家を建てる人には補助が出るが、建てられない人には高台に市営住宅を建設中で、仮設住まいからに移ることになっている。家賃は所得に応じて、となっていると言う。被災によって一戸建てからアパート型の市営住宅になり、家賃も払うようになるという。復興は進んでいるものの、元のようにはならない。復旧にさえもならないのに、いままでよりもいいまちづくり=復興には到底ならない。住民が生活することへ焦点を当て、少なくとも元の水準に戻すことは復興の最低の目標ではないのだろうか。

 ほかの人からも話を聞いた。実際に津波から助かった人だ。その人は津波が来るとき、車に乗って逃げようとした。しかし、車が渋滞して動けなくなった。このとき、この人は免許も財布も置いたままで車から出て、走って山に登って助かった。後ろにいた車に乗ったままの人たちは津波で海にもっていかれてしまった。思い切って逃げたことが一命を取り留めたという。

石巻市大川小学校
 全校児童108人のうち74人が死亡・行方不明、学校にいた教職員11人のうち助かったのは一人だけという惨事になった大川小学校。津波が来るまでの51分間になんで裏山に逃げなかったのか、なぜ、新北上大橋のたもとをめざしたのか、など多くの課題を残した。学校のすぐ裏には山があり、校庭からは急な斜面になっているが、体育館の裏からは子どもでも登れそうな斜面になっている。
 学校のある石巻市釜谷地区の死者・行方不明は地区人口の4割にあたる497人、北上川河口地区の長面地区は人口の2割、尾崎地区は1割にも満たない。河口から4キロの釜谷地区では津波を意識しにくかった、という人もいる。