2週続けて、飛鳥へ行ってきました。
今日は、先週と比べると曇りがちで、ちょっと風も冷たい感じ。
とはいえ、陽当たりの良い場所ではすでに、桜も2分から3分咲き。飛鳥通いを始めてから、ようやく‘飛鳥の桜’を見ることができました♪
写真は、豊浦展望台の桜と、そこから見た耳成山です(小っちゃいですけど/汗)。
今日の目的はもちろん、甘樫丘で発掘調査中だった、蘇我邸宅跡の一部ではないかと予想される遺跡の見学会。
昨年2月の見学会は、都合が悪くて見に行けず、悔しい思いをしましたが、今度こそ!と思ってしっかりと見てきました。
でも、昨年はやたらと新聞などで大騒ぎしたせいか、ものすごい行列だったとあとから聞きましたが、今年はその教訓(?)もあってか、一般への報道発表も見学会の直前、しかもさほど大々的ではなかったこともあり、今日の見学会は、わりと余裕を持って見て回れましたね。
2005年の調査で、その周辺に建物群が存在するということが発見され、昨年の本格的な調査では、実際にたくさんの建物跡が見つかったことで、すわ蘇我氏の邸宅か!?と大騒ぎになった甘樫丘東麓遺跡。
今回は、2005年に最初に調査した場所を、もう一度さらに広範囲にわたって掘り直し、たくさんある建物跡のそれぞれの年代特定と、年代によって建物の位置がどう変化しているかが見えてきた、という成果があったそうです。
昨年の異常な大騒ぎと比べれば、とても地味な成果に思えますけど、何層にもわたっていくつもの建物が存在する中を、ひとつひとつの地層や出土品から、大体30~50年単位で区切っていけるなんて、私みたいな素人からすれば、ひょえ~!?と思うような、すごい作業です。
蘇我邸が建てられたと思われる7世紀半ば、蘇我本宗家が滅んだあとの7世紀後半、そして天武・持統天皇時代に当たる7世紀末頃、それぞれの時期に建てられているものが、位置も形も違っているとのことで、今日配布されていたパンフレットには、昨年の調査区域と合わせて、時期ごとに建物も色分けし、とても見やすい一覧図が載ってました。
その中で、蘇我氏の邸宅と時期的に一致する建物は3つ。2つは、柱がたくさんあって、重い物を保管する倉庫か何かではないかと思われる建物、1つは、その倉庫を管理するために人がいたのではないかと思われる建物、だそうです。
保管した重い物・・・やはり蘇我となると、武器のイメージがありますが、米などの穀物かもしれないし、そうやって保管されていた現物が発見されていない以上、何を置いていたかはわからないとのこと。
私みたいなミーハーな妄想屋(爆)は、勝手に想像を膨らませちゃうのですが、現場でそれぞれに説明して下さった先生方は、さすが冷静に言葉を選びつつ、現在の調査状況と、そこから推測される範囲のことを、丁寧にわかりやすく、そして根気よく(苦笑)、たくさんの一般の人たちに教えて下さってましたね!
それに、ほぼ3年連続ともなれば、見学会の要領も良くなってるというか(笑)、パンフの配布、出土品の展示、先生が解説をするための大きな図面ボードとお客さん用のベンチ、などなど、とっても回りやすくなっていて、じっくりと説明を聞きながら見学することができました。
今後も少しずつ範囲をずらして調査を続けるとのことなので、実際に入鹿様の起居していた本邸が、いつか見つかればいいな~と、気長に楽しみに待ちたいと思います。
そして、もちろん今日も、見学会場へ行く前に入鹿様の首塚にお参りし、甘樫丘の展望台にも登り、いつもの休憩所の飛鳥庵で両槻会の皆様にもお目にかかり、楽しい休日となりました。
甘樫丘にいた時、ちょうど飛鳥庵に来られた風人さんからのメールが届いたので、展望台にいますよ~とお返事をしたら、わざわざ休憩所から出てきて手を振って下さったんですよね!(笑)私からは、ちゃんとそのお姿が小さ~~く見えましたので、1人では恥ずかしいと思いつつも、つい手を大きく振り返してみたんですが、あとで聞くと、さすがにそれは見えなかったようで・・・(爆)。
やっぱり、上から見下ろせば見えるものでも、下からでは見えにくいものなんでしょうかねぇ?それもまた、蘇我父子が丘の上に邸宅を置き、軍事的要塞としても活用した理由の1つなんでしょうか(苦笑)。
でも、中世以降の戦乱期では、あまり甘樫丘を山城として利用したとかは聞いたことがないような・・・?
あまりに目立ちすぎ、孤立しすぎるので、却って立てこもるには不向きだったとも考えられますが・・・。
なんて、また話がそっちへ行ってますね。失礼しました(爆)。
今日は、先週と比べると曇りがちで、ちょっと風も冷たい感じ。
とはいえ、陽当たりの良い場所ではすでに、桜も2分から3分咲き。飛鳥通いを始めてから、ようやく‘飛鳥の桜’を見ることができました♪
写真は、豊浦展望台の桜と、そこから見た耳成山です(小っちゃいですけど/汗)。
今日の目的はもちろん、甘樫丘で発掘調査中だった、蘇我邸宅跡の一部ではないかと予想される遺跡の見学会。
昨年2月の見学会は、都合が悪くて見に行けず、悔しい思いをしましたが、今度こそ!と思ってしっかりと見てきました。
でも、昨年はやたらと新聞などで大騒ぎしたせいか、ものすごい行列だったとあとから聞きましたが、今年はその教訓(?)もあってか、一般への報道発表も見学会の直前、しかもさほど大々的ではなかったこともあり、今日の見学会は、わりと余裕を持って見て回れましたね。
2005年の調査で、その周辺に建物群が存在するということが発見され、昨年の本格的な調査では、実際にたくさんの建物跡が見つかったことで、すわ蘇我氏の邸宅か!?と大騒ぎになった甘樫丘東麓遺跡。
今回は、2005年に最初に調査した場所を、もう一度さらに広範囲にわたって掘り直し、たくさんある建物跡のそれぞれの年代特定と、年代によって建物の位置がどう変化しているかが見えてきた、という成果があったそうです。
昨年の異常な大騒ぎと比べれば、とても地味な成果に思えますけど、何層にもわたっていくつもの建物が存在する中を、ひとつひとつの地層や出土品から、大体30~50年単位で区切っていけるなんて、私みたいな素人からすれば、ひょえ~!?と思うような、すごい作業です。
蘇我邸が建てられたと思われる7世紀半ば、蘇我本宗家が滅んだあとの7世紀後半、そして天武・持統天皇時代に当たる7世紀末頃、それぞれの時期に建てられているものが、位置も形も違っているとのことで、今日配布されていたパンフレットには、昨年の調査区域と合わせて、時期ごとに建物も色分けし、とても見やすい一覧図が載ってました。
その中で、蘇我氏の邸宅と時期的に一致する建物は3つ。2つは、柱がたくさんあって、重い物を保管する倉庫か何かではないかと思われる建物、1つは、その倉庫を管理するために人がいたのではないかと思われる建物、だそうです。
保管した重い物・・・やはり蘇我となると、武器のイメージがありますが、米などの穀物かもしれないし、そうやって保管されていた現物が発見されていない以上、何を置いていたかはわからないとのこと。
私みたいなミーハーな妄想屋(爆)は、勝手に想像を膨らませちゃうのですが、現場でそれぞれに説明して下さった先生方は、さすが冷静に言葉を選びつつ、現在の調査状況と、そこから推測される範囲のことを、丁寧にわかりやすく、そして根気よく(苦笑)、たくさんの一般の人たちに教えて下さってましたね!
それに、ほぼ3年連続ともなれば、見学会の要領も良くなってるというか(笑)、パンフの配布、出土品の展示、先生が解説をするための大きな図面ボードとお客さん用のベンチ、などなど、とっても回りやすくなっていて、じっくりと説明を聞きながら見学することができました。
今後も少しずつ範囲をずらして調査を続けるとのことなので、実際に入鹿様の起居していた本邸が、いつか見つかればいいな~と、気長に楽しみに待ちたいと思います。
そして、もちろん今日も、見学会場へ行く前に入鹿様の首塚にお参りし、甘樫丘の展望台にも登り、いつもの休憩所の飛鳥庵で両槻会の皆様にもお目にかかり、楽しい休日となりました。
甘樫丘にいた時、ちょうど飛鳥庵に来られた風人さんからのメールが届いたので、展望台にいますよ~とお返事をしたら、わざわざ休憩所から出てきて手を振って下さったんですよね!(笑)私からは、ちゃんとそのお姿が小さ~~く見えましたので、1人では恥ずかしいと思いつつも、つい手を大きく振り返してみたんですが、あとで聞くと、さすがにそれは見えなかったようで・・・(爆)。
やっぱり、上から見下ろせば見えるものでも、下からでは見えにくいものなんでしょうかねぇ?それもまた、蘇我父子が丘の上に邸宅を置き、軍事的要塞としても活用した理由の1つなんでしょうか(苦笑)。
でも、中世以降の戦乱期では、あまり甘樫丘を山城として利用したとかは聞いたことがないような・・・?
あまりに目立ちすぎ、孤立しすぎるので、却って立てこもるには不向きだったとも考えられますが・・・。
なんて、また話がそっちへ行ってますね。失礼しました(爆)。