趣味の日記

観劇・歴史・小説・漫画などなど、思いつくままの語り日記

飛鳥と道長 その2

2008-03-25 23:58:39 | Weblog
講師をして下さったのは、大学で平安文学を研究しておられる先生。
わざわざこの講演会のために、飛鳥に関する記述を引っ張り出してきて下さいました(笑)。
元の史料となったのが、道長の高野山参詣に随行した、源長経の記録。漢文で書かれているそうですが、とてもわかりやすく解説&説明下さって、とても楽しく面白いお話でした。
道長が出家してのち、身内や随員と一緒に高野参りへ向かうのですが、その途中にあちこちのお寺へ立ち寄っては、饗応を受け、宝物を見せてもらい、贅沢に旅をしていた様子がうかがわれます。
中でも面白かったのは、元興寺(現・飛鳥寺)での宝物のお話?(笑)その正体不明のお宝が、気になりますね~。
それと、個人的にものすごく興味を引かれたのが、山田寺でのお話。
山田寺がのちに興福寺の焼き討ちに遭い、仏像が持ち去られたりしてるのは、教科書にもよく載っている‘興福寺の山田寺仏頭’などで聞いた話ですが、道長の時代、すでに廃れ始めている山田寺に、実は興福寺の僧が入って差配している、という事実。
先生のお話でも、道長がわざわざ山田寺に立ち寄ったのも、藤原氏の氏寺でもある興福寺、その僧が誘致したのではないか、という風に仰ってましたね。
山田寺、それに飛鳥寺(元興寺)のあたりは、鎌倉室町期には興福寺の勢力圏。同じ藤原ゆかりでも、多武峰(談山神社があるところ)とはよく争ってますし、特に南北朝期に入ると、吉野の南朝方と北朝方の興福寺勢力とで、境界地帯の入り乱れ状態のはず。
道長の時代はまだ、僧兵なんて存在はまだ出てきてなかったでしょうけど、その寺社勢力の闘争の原点というか、いかにして興福寺が幅を広げていったか、というような一端が見えて、すごく面白い発見でした。

道長といえば、今回の講演とはまったく関係ないのですけど、甥っ子の伊周と政権争いをした結果、伊周とその弟の隆家を大宰府に追放しましたが、伊周はのちに許されて都へ戻ってきています。でも隆家の方が実は、大宰府では結構な活躍をしてるんですよね。
大陸から異民族の侵攻があり(刀伊の入寇、いわゆる後の時代の倭寇みたいなもので、海賊の侵略ですね)、それを撃退したのが隆家率いる大宰府の守備軍。
お貴族のお坊ちゃま育ちにしてはよくやるじゃん!って感じですが(爆)、その隆家の子孫が、のちのち元寇や南北朝時代の南朝方として活躍した菊池氏につながるんですから、面白いものです。
でも、意外と藤原氏から中世の武家へと変化していった家系は、多いんですよね。奥州藤原だって、ちゃんと藤原北家に連なる家柄だし。
武家が源氏と平氏だけと思ったら、大間違い。それに源氏だって、有名な清和天皇の子孫である清和源氏だけじゃなく、宇多源氏だの嵯峨源氏だの村上源氏だの、系統はいくつもあるし。
平氏は、まぁ桓武平氏がメインですけどね。

講演会に話を戻せば、その道長の随員になっていた武官、平維時は、平将門を討った平貞盛の孫ですけど、子孫は鎌倉北条氏につながってるんですね。
有名な平清盛は、維時の従兄弟の系統からつながってます。
道長の周囲から、そういった武官の名前がちらほらと出てきているのも、鎌倉室町好きの身には、ちょっとトキメキを覚えるものがありました(笑)。
先生の面白可笑しい語り口と、内容の濃さのおかげで、歩いた上にお弁当後の講演で眠くなりはしないかという心配は、あっさりと覆されました。
盛り上がってやや時間オーバーとなりましたけど、正直、ちょっと休憩を挟んだら、もっと聴いていたいくらいのお話でしたね。

無事に講演も終わり、簡単なメンバー紹介&ミーティング(?)だけで、あとは会場の後片付けをして、一応の解散となったわけですが、そのまままた歩いて駅へと戻る道すがらも、おしゃべりをしつつ、また、打ち上げ宴会にもお誘いいただき、楽しい交流の一日となりました。
2ヶ月に1回のイベントですが、やはりこういった機会を大切にして、どんどんいろんな飛鳥の姿が見られたらいいなぁと思います♪


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飛鳥と道長 その1

2008-03-25 23:50:12 | Weblog
目の覚めるような快晴の中、春一杯の飛鳥へ、行ってきました♪
私にしては珍しく、寝坊もせずにちゃんと自力で目が覚め、予定通りの電車に乗って出発。
そして橿原神宮の駅に着いたのが、ちょうど10時頃。うん、予定通りです。
入鹿様へのお供え用のお花と、昼食を調達しましたが、さてバスの時間には中途半端。体力的にはタクシーを使うというテも考えましたが、財政状況もあり(苦笑)、時間も若干余裕があるということで、歩いて行くことにしました。
普通に歩けば、明日香村までは30分もかからないはず。良いお天気でしたし、てくてく歩いていると、ポカポカ陽気のおかげで暑いくらいでした。
橿原の街中から、周りの風景がだんだんと畑や野山に変わっていくのを見ると、ものすごくほっこりしますね。菜の花だけでなく、タンポポやハコベやぺんぺん草やオオイヌノフグリや、そのほか小さいお花で一杯の畑や畦を見るだけで嬉しい。
ニッコニッコと笑いながら1人で歩く私は、ハタから見たらかなりアブない人だったかも(爆)。

春を堪能しながら、無事に入鹿様の首塚に到着。1月の定例会以来、2ヶ月ぶりのお参りです。
お彼岸時期ということもあったせいか、お寺のほうできちんと仏花のお供えもされてあったんですが、さらに加えて私が持ってきたスターチスと小菊も、一緒に花立てにぎゅうぎゅうと突っ込み(苦笑)、より華やかになったところで、ちゃんとお花にお水を掛け、手を合わせてお参り。
かろうじてまだほかに人のいなかったおかげで、じっくりとお参りすることができました。
そして恒例のお参り記録撮影をして、時計を見れば、定例会集合まであと15分。集合場所は飛鳥資料館前。ピッタリ間に合う頃合です。

てくてくと資料館まで歩く道のりも、春一杯の飛鳥の風景。そして、時間通りに無事到着。
既にいらしてた事務局員の皆様にご挨拶しているうちに、ぞくぞくとその日ご参加の皆様も集まり、さぁいよいよ定例会の始まりです。
今回のテーマは「道長の見た飛鳥」。
平安時代、藤原氏の栄華を極めたあの藤原道長が、高野山参りの途中で飛鳥に立ち寄った、その時の記録から当時の飛鳥の様子をひも解いてみよう、というものです。
講演会そのものは午後からですが、その前に、道長も通ったであろう道のりを、私たちもちょっと散策してみましょうということで、まず向かった先が、山田寺跡。
そう、あの蘇我石川麻呂が創建し、そして謀反の罪を着せられて自害した場所です。
「飛鳥夕映え」で、鞍作様の幼馴染み兼親友だった麻呂君が、その後ここで最期を迎えたと思うと、別な思い入れも湧いてきますが、まぁそれはまず置いといて(苦笑)。
石川麻呂の死により、山田寺の建設は一時中断されますが、石川麻呂の孫でもある持統天皇の時代に、無事に完成されます。
その後、都は藤原京、さらに平城京、そして平安京へと移って行き、藤原氏の隆盛と共に興福寺などの勢力が増して、山田寺もだんだん廃れていったようですが、とりあえず道長の時代には、まだ存続はしていたようです。

飛鳥資料館から、山田寺跡へは歩いてすぐ。
以前に行った時は、真夏とか秋口とかだったせいで、夏草に覆われて茫々だった広場が、さすがにまだ春先、地面がまだ剥き出しで、一望して見やすいことこの上なし(笑)。
ぐるりと囲んだ回廊跡、お堂の建っていた礎石など、全体像が綺麗に見えましたね。
しかも、ちゃんと解説付き!(爆)ひとつひとつ、丁寧に説明しながら案内して下さったので、頭の中だけではなかなか組み立てにくかった山田寺の姿が、立体的になって見えたのが嬉しかったですね。

そしてそこから、今度は土筆のニョキニョキ生えた小道を抜けて、飛鳥寺へ。
平安時代には、元興寺と呼ばれてたそうですが、その境内を通り抜けさせてもらい(笑)、再び首塚の脇を通って、遊歩道から川原寺と橘寺の方へと向かいます。
1人ではなかなか通りづらい細い脇道や農道なども、両槻会の事務局員さんたちはさすがよくご存知で、こういう風に通り抜けできるのか!とか、こんなところにも神社や遺跡が!とか、目からウロコが落ちる落ちる・・・。
そうしてとうとう、川原寺跡へ到着。その広場で、自由休憩&昼食となりました。
さすがに歩いてきて暑くなってたので、木陰を見つけて休憩。一緒にご参加の方々と、おしゃべりしながらの昼食。
ゆったりのんびりできたところで、さぁ今度こそ本番の講演会に向けて、バスで飛鳥資料館へ戻りました。







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