3年ぶりに千歳船橋にある施設を訪問しました。今回は、近くに稲荷森稲荷神社があるということで寄ってみました。
稲荷森稲荷神社の由緒
神社のHPより
稲荷森稲荷神社草創の記録は残っておらず、残念ながら不明です。当神社は古くは「菅刈社」と呼ばれておりました。
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には、「菅刈社」とあり、「地名を冠するのだから、古い由緒ある社であろう」と記されています。因みに当地は「菅刈庄」といわれていました。
明治時代、土地の古老たちは、
「奥州へ落ち延びた源義経を追って静御前がやってきて、当神社で一夜を明かした」
と、言い伝えていました。
また、当神社は、昭和20年代初めまで鬱蒼とした森でした。雨が降っても神社の境内に入ると傘はいらない、といわれるほどでした。稲荷森(とうかんもり、土地の人々はこのように呼び習わしておりました。)といわれる所以でしょう。現在の神社名は、これによっております。
神社の前を往来する人々、馬方達はしばしばこの森を雨宿りや休憩に利用していたようです。江戸時代の馬方達が奉納した木彫が旧拝殿(元の御神庫、拝殿向って右、瓦葺の建物)に現在も残っています。
前の社務所は、戦争後の物資の乏しい時代に、境内の樹木を伐採し、それを製材して建てられました。また、残された大木も大気汚染などにより次々に枯れ、今では往時の森の姿は想像も出来ません。
と書かれています。
ただ、その後に植えられたものだと思いますが、結構大木になったイチョウと欅がありました。こちらはイチョウの木です。
鳥居
本殿です。
ここに祀れているのは「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」だそうです。これが何故「いなり」といわれるのかも神社のHPにありました。
「山城国風土記」逸文の「伊奈利社」の条に、 秦中家忌寸(はたのなかついえのいみき)達の遠い祖先に伊侶具(いろぐ)という人がおりました。稲をたくさん蓄えてたいへん裕福でした。裕福のあまり奢りたかぶって、丸い餅を弓の的にしました。すると、的の丸い餅は白い鳥となって飛び去り、稲荷山の峰に行き、白い鳥は稲となりました。
白い鳥が稲になったというのを、原文は「伊禰奈利生(いねなりお)ひき」とかいてあります。このことから、「いねなり」から「いなり」という神社の名になった。
と書かれています。また、この神様は翁の姿で稲を荷なって現れたと申します。それで「稲荷(いなり)」という、ともいわれています。
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