ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

弘明寺

2014年09月22日 21時25分40秒 | 訪問地周辺散策

大岡山の施設を訪問しました。手前に弘明寺という大きなお寺さんがあるというので寄ってみました。京急の駅です。坂を降りて行きます。降り切らない途中から入ってしまいました。こちらは楓関門というらしいです。。最初に出合ったのが梵鐘です。弘明寺は横浜最古の寺だそうです。

お寺さんの案内によると「今から1300年近く前、元正天皇の養老5年(721年)にインドの善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来、それから17年を経て聖武天皇の天平9年(737年)、天下に悪病流行の際、河内和泉の国の僧行基が勅命を奉じて、天下泰平祈願のため全国を巡錫(じゅんしゃく)し、当山の浄域に草庵を作り、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝する)の至誠を尽くして彫刻祈願されたのが、現在の御本尊十一面観世音菩薩様です。
嵯峨天皇の弘仁5年(814年)には、弘法大師が回国の際、一千座の護摩を焚いて庶民の除災招福を祈願したと言われています。
そして寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により瓦葺き本堂が建立されました。御本尊様の彫刻予想年代とこの本堂建立の年代がほぼ一致することから、この頃が実際の開山と思われています。
鎌倉時代には、「求明寺」と称されていたものを、観音経偈文(かんのんぎょうげもん)の中の「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」の「弘」の字をとり、「求」を改めて現在の弘明寺となりました。」と書かれていました 。次は本殿です。寛徳元年(1044年)3月10日、光慧上人により本堂が建立され、開山されました。現在の本堂は、明和3年(1766年)に智光上人により再建されたものだそうです。光慧上人が建立した時の古材である、チョーナ彫の床板などが使用されているそうです。昭和51年(1976年)に茅葺より銅板葺に改修された。間口6畳半、奥行き6間一尺ということだそうです。

結構お参りされている方が多くいらっしゃました。力石と思いましたが七ツ石です。善無畏(ぜんむい)三蔵法師が渡来の際、当山の霊域を感得し、陀羅尼(だらに)を書写して結界を立てた霊石。尾りょ石と刻してある「尾閭石」や大黒天の袋に似ているので名付けられた「福石」があるそうです。

境内の風景

こちらは聖天堂です。弘仁9年(818年)、弘法大師が回国の際、この地に不思議な力を感じて、聖天(大聖歓喜天)を彫り安置し、一千座の護摩を焚いて庶民の幸福を祈願したとされています。 大師堂には閻魔様、閻魔様にはあちこちのお寺さんで会っているので、地獄で会ってもびっくりしないで済みそうです。弘法大もいました。大師堂は、真言宗の宗祖、弘法大師を奉安しています。弘法大師が弘仁5年(814年)に当山を訪れ、聖天(大聖歓喜天)を彫り、山上の奥の院に奉り、衆生救済のために一千座の護摩を修法したと伝えられ、弘法大師は今でも高野山奥の院に住み、人々の幸福を祈り続けている。ということです。

正面の階段の途中にある身代地蔵菩薩です。平成13年(2001年)6月、京浜急行電鉄会社設立100周年を記念して、全ての人々の病気平癒、身体健全を祈願するため奉納されたということです。身体の悪いところと同じ場所をタオルやハンカチでさすり祈願することで、自身や家族の身体を癒してくれるそうです。最後に入り口のところにある仁王門に出合いました。仁王門は、江戸時代に再建されたもので平成14年(2002年)に改修工事が行われたそうです。「瑞應山」の扁額は享保7年(1722年)に没し、徳川幕府に仕えた書家佐々木玄竜の書によるとのことです。

私の思っている、アーケードは神社仏閣にあるというのがここでは現実となりました。

最後に訪問施設の食堂は24階にあり天気の良い日は富士山も見えるそうですが、富士山は見えませんでした。横浜のランドマークタワーが近くに見えました。

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