ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

小岩市川渡し跡(江戸川区北小岩)とその周辺 江戸名所図会めぐり

2018年06月13日 23時46分15秒 | 江戸名所図会めぐり

小岩菖蒲園の帰りの途中で京成江戸川駅の周辺を散策してみました。近くに社寺仏閣があるというの歩き出すと江戸川堤の方面に案内板が見えました。

堤を再度登ってみました。今度は京成鉄橋の下流側です。

偶然に江戸名所図会の市川渡口・根本橋・利根川の所でした。

★ランドマーク小岩市川の渡しと関所:房総と江戸をむすぶ佐倉さくら道みちが江戸川を渡るこの「渡し」は、古くから交通の要衝ようしょうでした。連歌師柴屋く軒宗長の紀行文『東路のつと』(永正6年)にも、この渡しを渡って善養寺へ向かう記述があります。江戸時代には元和2年(1616)に定船場となり、番所がおかれ、いわゆる「入鉄砲に出女」という言葉があるように、江戸を往来する人や物資を厳しく監視しました。番所はのちに「関所」となりました。関所付近の街道筋は「御番所町」とよばれ、旅籠屋や掛茶屋が立ち並び、大名の参勤交代や成田詣での人々でにぎわいました。

関所を通るには、名主の発行した手形または切手と呼ばれる通行証明書が必要で、特に鉄砲の持ち込みと女性の地方への旅は厳重に取り締まられました。そのため、千葉県側から嫁に来た場合は、里帰りや祝儀・葬儀、実家に帰る場合にも手形を必要とし、奉公人としてやとわれてきたときには年季が明けるまで帰ることはできませんでした。

小岩市川の関所は、現在の京成電車鉄橋から約50m下流にあったとされています。

利根川は古利根川で今の江戸川です。

旧中川の逆井の渡しから元佐倉道から続いている所だということが分かりました。「逆井の渡し」については何度かこのブログにアップしています。

堤から通りに出たところに佐倉道についての案内がありました。

よく読めませんが御番所町跡について書かれています。

★ランドマーク御番所町跡:御番所町とは関所前の界隈のことですが、京成江戸川駅から南へ蔵前橋通りに至る道路部分を区史跡として登録しています。ここは佐倉道と元佐倉道の合流するところで、南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝でした。小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと思われます。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』(1828年成立)の「伊予田村」の項にも、関所は「新町内江戸川の傍にあり、ここを御番所町とも云」と書かれています。『徳川実紀』延宝2年(1674)の記事にある佐倉道(元佐倉道)の小岩の駅(宿場)に当たるものと考えられます。角屋、筑前屋、清水屋などの旅籠を兼ねた小料理屋をはじめ、井熊鮨、あめ屋、豆腐屋、ぬか屋、掛茶屋などがならんでいたと伝えられます。角屋は近年まで同じ場所で旅館を営業していました。江戸川につきあたる付近が関所跡で、関所から来ると正面左に大きな道標が望めました。

道標は今も原位置にあり、道路の様子も昔をしのばせます。そのほかにも、江戸川の川岸にあった常燈明(宝林寺)や関所役人中根平左衛門代々の合葬墓(本蔵寺)など当時にゆかりのある旧跡がよく残っています。

こちらが宝林寺の常燈明です。

★ランドマーク常燈明:もとは小岩市川の渡し場に建てられていました。昭和9年に河川改修のためここに移されました。この渡しは江戸時代には成田詣での人たちで賑わいました。この常燈明は千住総講中の人たちによって天保10年(1839)に建てられました。燈籠の高さは2m、台座は5段に組まれていて、高さは1.82mあります。

昭和56年(1981)1月登録  区登録有形文化財・建造物

★ランドマーク宝林寺:真言宗豊山派に属し、愛宕山地蔵院と号します。もとは千葉県国分(市川市)の金光明寺の末寺です。起立は文秀法印(慶長12年・1607没)で、本尊は不動明王です。本堂前には常燈明が、墓地には旧伊豫田村(現在の北小岩3丁目ほか)の開拓者・篠原伊豫の墓と伝わる宝篋印塔があります。参道入口には地蔵菩薩庚申塔があります。

宝林寺本堂

北向き地蔵

★ランドマーク宝林寺所在の地蔵菩薩像庚申塔(寛文10年銘)

昭和59年(1984)2月登録 江戸川区登録有形文化財・民俗資料

参道入口に他の石仏群と共に祀られています。舟型で地蔵菩薩立像は半肉彫、左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。像高は144㎝、寛文10年(1670)に建てられました。銘文には庚申供養のために造立したと刻まれています。宝林寺参道脇に、六地蔵に並んで祀られています

庚申塔

六地蔵

こちらが本蔵寺です。山門

★ランドマーク本蔵寺:当寺は、元和8年(1622)浅草新寺町に起立され、京都妙顕寺開基龍華樹院日像菩薩の「像」の一字をもって大雄山本像寺と称し、妙顕寺の末でした。延享2年(1745)の同寺「略縁起」は、加賀中納言前田利光の母寿福院尼が一寺を草創したのがはじまりと伝えています。明治43年(1910)に下総真間弘法寺末の晴立寺と合併し、晴立山本蔵寺となり、晴立寺のあった現在地に移転しました。

  晴立寺は、小岩市川関所役人を代々つとめた中根氏の館のあとといわれ、菩提寺と伝えられています。現墓地には、中根平左衛門家の代々合葬墓があります。

 

★木造日朗・日像聖人坐像 (江戸川区指定有形文化財)

  日朗は宗祖日蓮の高弟で、日蓮宗池上門流の祖として知られています。寛元3年(1245)下総国平賀(千葉県松戸)に生まれ、日蓮聖人佐渡配流中も鎌倉にあって教えをひろめ、池上に法華堂(現・本門寺)をはじめとする諸寺を創建し、元応2年(1320)入寂、76歳でした。

  日像は日朗の末弟で、文永6年(1269)下総国平賀に生まれ、7歳で身延山にて日蓮聖人に給仕しました。聖人滅後は、兄の日朗に師事し、後に日蓮上人の遺志をたいし、京都で法華経をひろめ、妙顕寺を拠点とする京都日蓮宗の基礎を築いたといわれています。享年74歳でした。

  この両聖人の坐像は京都妙顕寺の旧蔵品であり、天保6年(1835)に妙顕寺より下賜されたものと伝えられています。寛永19年(1642)に彩色補修が加えられ、妙顕寺十三世日饒、十四世日豊の署名と花押も残っています。製作年代は室町時代と考えられる秀作で、両像とも35センチメートルの小さな坐像ですが、写実性に富み、高僧の面影がよくしのばれます。

  平成12年(2000)9月  江戸川区教育委員会

 本堂

こちらが御番所町の慈恩寺道石造道標です。

 

★ランドマーク御番所町の慈恩寺道石造道標: 江戸時代、庶民の間に霊場巡拝の風習がさかんになりました。坂東33カ所観音霊場もそのひとつで、埼玉県岩槻市の古刹慈恩寺は、その12番札所として関東各地から参拝人を集めています。

この道標は佐倉道と元佐倉道の合流点にあり、対岸市川から江戸川を渡って小岩市川関所を通るとほぼその道筋の正面に見えたと思われます。房総方面から慈恩寺へお詣りする人びとは小岩市川の渡しを渡ってからこの道標を見て北へ曲がって行きました。安永4年(1775)建立で、銘文は正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」、右側面には「左りいちかわミち」、左側面にも「右いち川みち」とあります。

江戸川区登録有形文化財・歴史資料

江戸川駅に近いところには

北野神社がありました。

★ランドマーク北野神社:旧伊予田村(現在の北小岩3・4丁目)の鎮守です。江戸時代にはこの地にあった稲荷神社と北方の北野神社が明治42年(1909)に合祀され、今の北野神社となりました。昭和39年(1964)には一里塚近くにあった須賀神社を合祀し、そこで行われていた茅の輪くぐりをここで行うようになりました。祭神には稲荷神社の倉稲魂命と北野神社の菅原道真、それに須賀神社の素戔嗚尊を加えた三柱を祀ってあります。

 

・茅の輪くぐり(区指定無形民俗文化財)

  直径3メートルに及ぶ大きな茅の輪を作って境内に立て、氏子たちが家族の氏名や年齢を書いた人形を持って茅の輪をくぐり、無病息災を願う夏越しの行事です。毎年6月25日の例祭日に行われます。茅の輪くぐちが終わると大祓いの式を行い、昔は人形を江戸川に流しました。素戔嗚尊が茅の輪で流行病を防ぐことを村人に教えたという故事による行事です。

  平成6年(1994)3月 江戸川区教育委員会北野神社拝殿

裏に回るとこんなものが置かれていました。古い拝殿のようです。こちらは水神宮のようです。北野神社水神宮

 

境内には『力石』があります。

★力石(北野神社):江戸時代から昭和の初期まで多くの集落で行われていたのが「力石」を用いての力くらべ(力持ち)である。本力石は日本一の力持ちといわれた三ノ宮卯之助(1807~1854)が持ち上げたとされる。東京で唯一現存する力石で卯之助の名前と三十八貫目と印されている。

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