ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

東京都慰霊堂・復興記念館

2013年03月31日 20時58分38秒 | 近郊散策

両国の第一ホテルでお祝いの会があったので、始まる前に付近を散策しました。ホテルの隣は都立横網町公園です。
大正11年(1922)東京市は、陸軍被服廠の移転に伴い跡地を買収し、公園の造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災(大正12年9月1日)でした。周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、この地に続々と集まりました。
しかし、この地にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻、火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで、3万8千人もの尊い命が失われれしまいました。
関東大震災の死者は、当時の東京府市合わせて7万人を超えるといわれています。この諸霊を弔慰するため49日に相当する大正12年10月19日に、この地において府市合同の大追悼式を挙行したのが、この公園の歴史を刻む最初の出来事です。
翌大正13年9月1日、東京府市合同で震災殃死者一周年祭並びに法要が行われ、以来絶えることなく今日まで続けられています。
昭和5年に慰霊堂(当時は震災記念堂)をはじめとする建物、記念碑、庭園が、時の皇室から庶民までの尊い寄付によって完成し、横網町公園として開園しました。
このあと東京は、関東大震災から見事に復興を果たしたかに見えましたが、それもつかの間、昭和16年(1941)アメリカとの間で太平洋戦争の火ぶたが切られたのです。太平洋戦争下における空襲による都内犠牲者の数は、死者・行方不明者を合わせて10万人をはるかに超えています。昭和26年、東京空襲遭難者の仮埋葬遺骨の改葬が終了し、身元不明者10万5千人を震災記念堂に合葬することとし、震災遭難者約5万8千人と合わせて16万3千人の遺骨を祀ることとなり、名称も東京都慰霊堂と改称しました。
慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊東忠太氏(1867~1954)によるものです。
公園内にある復興記念館です。復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、東京都慰霊堂の付帯施設として昭和6年に建てられたものです。庭には震災で焼けたモーターや織物機械などが展示していまりました。幽冥鐘:この弔霊鐘は、関東大震災により遭難死した死者追悼のため、中国仏教徒の寄贈によるものです。
震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。
また、各方面の回向が終わったのちは、「幽冥鐘一隻を鋳造して、これを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、この鐘声の功徳によって永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。
その後災情が日を経るに従い甚大であることが明らかになったので仏教普済日災会の代表2名が来日し、京浜両地区の慰問を行ない、これと同時に我が国の外務大臣並びに仏教連合会に梵鐘の寄贈を申し出たものです。
その後、震災記念堂の計画確定によりこの鐘を横網町公園に安置することになりました。
慰霊堂の北側約700坪(約2300㎡)の地域は、林泉式日本庭園となっています。これは震災時、清澄庭園や安田庭園など都内の庭園が、人命の保護に役立ったことを教訓として計画されたものです。当初の設計は造庭家 平山勝蔵氏(1899~1990)で、後に東京農大教授となられ水禽窟の研究で有名です。これは、東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑です。第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲となりました。
こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するため平成13年にこの碑を建設しました。
斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々の名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。(以上公園案内を参考にさせていただきました。)
近くの街路樹です。

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