月遅れの盆行事として関東の一部に残る<盆綱>は、芳夫にとって忘れられない記憶となっている。
少しずつ形を変えたり省略されたりしながら、子供たちの楽しむ催し物として伝統が守られてきた。その変革に芳夫自身が関わったことがあるから、余計に印象深いのかもしれない。
八月半ばの迎え盆を前に、あらかじめ村人が持ち寄った真菰で大きな竜頭を作り、稲藁を編んだ太い胴体を繋いで盆綱が完成する。
五メートルを超える竜の胴体のあちこちに引き綱が取り付けられ、やがて小学生の男子を中心にした引き手がその綱を手に取ることになる。
迎え盆の夕方、あらかじめ寺の墓地前に運ばれた盆綱の周りに子供たちが集合する。
茄子や胡瓜を墓前に供え、盆花を飾り終わった大人たちも、誰からともなく集まってくる。
夕闇が迫ってくると、人々の手にする提灯の明かりが息づき始める。子供たちが事前に決められていた位置につくと、ころあいを見て世話役の声が掛かる。
「さあ、行くべぇ」
おう、と応えて、巨大な竜がずるずると動き出す。
ワッセ、ワッセと叫ぶもの、ワッショ、ガッショと声を張り上げる者などさまざまだが、それぞれ自分の耳で憶えたとおりの囃子ことばを口にする。
ラッセ、ラッセと混じるのは、他の祭りの掛け声にも似ていてその影響とも思われるが、芳夫は、おそらく仏様に向かって「盆綱に乗らっせ」というのが起源だろうと考えている。
巨大な竜がうねうねとのたうち始める頃には、子供たちの声が渾然一体となって熱気を帯びるのである。
当初、盆綱は芳夫たちが小学校高学年になるまで現在より短いコースを回っていた。
回るのは集落の原型を形作っていた謂わば旧市街にあたる地域だけで、いつからそう定まっていたのか誰も異論を挟むことなく何十年も踏襲されてきた。
高台の恵まれた地形を中心に形成された集落には、財産を積み上げてきた裕福な農家が寄り集まっている。
一方、分家をしたり勤め人になったりした次男、三男の家は、旧来の集落を取り巻くようにして少しずつ地域の規模を広げてきた。
盆綱はとりあえず本家、分家をカバーする周回コースで引き継がれていたから、誰も疑問を抱かなかったのかもしれない。
ところが、疎開をしてきて畑地の一郭に屋敷を切り開いた芳夫の家は、盆綱のコースから外れていた。近所には新興の住宅が二つ三つと増えているのに、大人たちの間からは何の意見も出ていなかった。
盆綱は、お寺に先祖の霊を迎えに行き、それを各戸に届けるものなのに、自分の家も含めまったく恩恵を受けない家があっていいのだろうか。
「庄さんちの小母さんだって、死んでから誰も迎えに行ってなかっぺよ。盆綱に乗せてやらなくちゃ、おかしかっぺ?」
子供たちによる準備委員会の集まりで芳夫が提案すると、賛成に回る者が多かった。それまで、盆綱の周回コースのことなど考える子供はいなかったのである。
「悦司、おまえんちの父さんに訊いてもらえねぇけ?」
集落の組合で役員を務める悦司の父親を説得すれば、なんとかなりそうな予感がしていた。
庄さんのことは、大人たちも気にしていたのだろう。新盆だった年だけは誰かが盆飾りなどの面倒をみたようだ。
しかし、その後は盆の提灯を点けることもなく今日に至っている。
芳夫の言った不公平の話が伝わったのか、庄さんちの魂迎えが議題にあがった。あらかじめ芳夫たちが練った周回コースの案を図示してあったから、組合の寄り合いであっさり了承されることになった。
「ちっと時間がかかりそうだが、おまえらが大丈夫と思うんならやってみい」
その年は、集落から小学校へ通う生徒数が多かったし、後に続く子供らの出生数も減っていなかった。
大人たちはそうしたことも考慮して、改革案に賛成したようであった。
修正された年の盆綱は、新たにコースに加わった家の期待もあって活気のあるものになった。
家々の入口で屯する人びとの耳に子供たちの甲高い声が聴こえると、すぐに先導の上級生が持つ高張り提灯が見えてくる。
「来た、来た」
女たちがそわそわし始める。
やがて、幻想的な紅色や薄緑の彩色を施した盆提灯に照らされて、綱を引く子供たちの鉢巻き姿が浮かび上がる。
引く者も迎える者も一体となって、魂迎えの行事が進んでいく。
いつになく華やいだ浴衣姿の人びとに見守られていると、芳夫たちも自然に高揚してくる。
各戸に祖霊を送り届ける役割を、この年、子供たちは特に意識することとなった。
庄さんの家は集落の外れにあって、隣地は萱の刈り場となっている。
寺からの順路でいうと周回コースの一番最後で、芳夫はそこまで息が上がらないように注意深くペース配分を計算していた。
途中の休憩所まで辿り着くと、西瓜を食べたあと夜空を見上げて深呼吸をする。子供らしくない気配りも、自分が提案した盆綱コース変更の成否を念頭においてのことだった。
その点、新盆を迎える家があると俄然元気が出た。
子供たちは盆綱を地面に置いて、珍しいジュースにありついたり出来る。
亡くなったばかりの肉親を迎える家だから、特別の振る舞いをして引き手をもてなすのだった。
また何がしかの金品を先導者が受け取ったのを知ると、後の「反省会」と称するお楽しみ会への期待から、それまでの疲れが退いていくのだった。
そうは言っても、庄さんの家の前を通るころには、さすがに声に力がなくなる。子供たちを迎える灯りも人も居ないからだ。
庄さんは、もう寝てしまったのだろうか。
行事にも人の思惑にも関係なく、母親の夢でも見て時々ニヤリと笑みを浮かべているのか。
芳夫は、コース変更の言いだしっぺとして、庄さんの家の前ではことさら大きな声を張り上げて盛り立てようとした。
「ワッショ、ガッショ」
小母さんを乗っけてきたから、庄さん迎えてくれろ!
胸の中で強く念じた。
雨戸は閉ざされたままコトリとも音を立てなかったが、魂のことだから戸の隙間からスーッと入っていっただろうと想像した。
もちろん何かの根拠があるわけではないが、そう信じて入会地の一つである隣の萱場を通り過ぎた。
そこから先は、沼に続く坂だ。
雨水に抉られた赤土の道を駆け下ると、そのまま畦道にぶつかり、入り組んだ沼べりに達する。
役割の済んだ盆綱を水辺に捨て、一瞬ほっとする。
子供たちは大きな行事を成し遂げたことを心で反芻し、そこで確かな少年になる。
急にわが身の取りとめなさに気づき、涙ぐむ者もいる。
興奮のあとの寂しさと、これから戻る暗い坂道や人生への漠然とした恐怖に怯えるのかもしれない。
「わあーっ」
誰かが走り出すと、みんな置いていかれまいとして、一斉にあとを追う。
盆綱から降り忘れた霊が背中に取り付きそうな気配を感じ、恐怖の中で闇雲に腕を振り回しながら・・・・。
初秋を前に夜気を帯びたススキの微かな穂が銀色に光る。どうやら星明りが僅かな穂先を捉えたらしい。
萱場の横を走り抜け、その先の暗い入口では「庄さん、小母さんは降ろしたからね」と、心で呟きながら駆け抜ける。
涼やかな岐阜提灯を掲げた家並みまで辿り着くと、少年たちはやっと走るのを止め、ぜいぜいと乱れた呼吸を整えるのだった。
近くに学園都市が出来て、集落の裏手にまで片側二車線の自動車道路が造られた。高速自動車道を使ってきたならば、生まれ育った集落と気づかずに、通り過ぎてしまうに違いない。
今回はたまたま旧国道を通ってきたから庄さんの畑の痕跡を見つけることが出来たが、そうでなければ想い出もろとも故郷を喪失してしまうところだった。
「姉さん、盆綱は今でも続いているのかい?」
芳夫は胸の内の危惧を口にした。
「ああ、まだやってるよ。・・・・おまえが作ったコースは長すぎるって、去年から短縮されたけどね」
アハハと笑う表情には、一家を継承する自信と落ち着きが見られた。
予想したとおり、最近になって児童数が減ってきて、盆綱に限らず子供に関わる祭を維持するのは大変なことらしかった。
「そうか、無理もないやね・・・・」
たぶん、熱気のないおざなりな盆綱が催されたのだろうと想像した。
テレビに噛り付き、ゲーム機に翻弄される日常だろうから、古くさい行事など存続する余地はないに違いない。
芳夫の家族が東京から疎開してきた時代とは異なるが、現在も学園都市をめざして東京から流入してくる新住民はたくさんいる。
周辺の小中学校へ編入してくる児童も少なくないから、地元の子供たちの意識が大幅に変わったとしてもやむをえないことであった。
「じゃあ、盆綱も早晩消える運命か・・・・」
芳夫は心なしか肩を落としてみせた。
「それがさあ、変わり者の大人が盆綱を見に来てよ、ところどっぱちビデオに撮って行ったんだど。・・・・学園都市の研究者だっちゅう触れ込みで、こうした伝統行事はしっかり守っていかねばなんねえと、村長にまで忠告していったんだと」
なるほど、芳夫の頭ではなかなか想像のつかない出来事が、日々進行しているようであった。
「その先生、高岡と小張(オバリ)の綱火も見に行くと言ってたらしいが、今さら御託ならべなくたって、みんな知ってっぺな」
門外不出とされる技術継承が許されているのはこの両地区だけなのだから、日本中の研究者が集まって綱火の歴史を調べ上げている。
花火の専門家、火薬取り扱いのプロは、技術的な面から解き明かそうと見に来ているはずだし、にわか文化人類学者の言はあからさまではないが笑いの的となっているらしかった。
この地域で<綱火>について知らない者はほとんどいないはずだ。
芳夫も幼い頃から話を聞いていて、一度は見てみたいと憧れていた。
しかし、村の行事以外は年に一度やってくる『サオリヨウコ一座』の芝居を観たことがある程度で、高岡や小張という地名を聞いても、遠い国の出来事のようでまるで現実感をともなわないものであった。
綱火見物が実現したのは、送り盆が済んで一週間余が過ぎた八月二十三日のことだった。
「綱火を見に連れて行ってやろう」
突然、父が発案したからで、母と姉と芳夫の三人が父に同行した。
兄弟でも年齢の離れた長兄は、何かの理由で連れ立つことはなかった。
父がなぜ綱火に行く気になったのかも不明だが、その年サオリヨウコ一座の旅芝居が来なかったことと関係していたような気がする。
急に現実のものとなった世界が、芳夫を有頂天にさせた。
小張の綱火は八月二十四日、高岡の綱火は一日早い二十三日で、父と母が相談して高岡地区の例祭に出かけることになったのだ。
二つの地区は同じ伊那村の中にあって、距離はさほど離れていない。
伝えられる話に拠れば、高岡愛宕神社の奉納綱火に対して、小張地区のそれは小張愛宕神社に奉納されるもので、小張松下流綱火とも呼ばれていた。
綱火の起源は、戦国時代とも慶長年間とも伝えられている。
もともと一つの火薬技術が二つの場所に分けて秘匿されたのだろう。多少細部に違いはあっても、綱火として形を整えてからの伝承と考えなければ両者の類似を説明できない。
場所が違うとはいえ、同じ愛宕神社への一日違いの奉納が秘匿のからくりを暗示していないか。
そう考えれば、反目と共存を維持してきた因習の地霊を理解することができる。
疎開してきてこの地に育まれ、いまは距離を置いて故郷を眺めている。
しかし、当時の幼い芳夫にとっては綱火の歴史などどちらでも同じことで、夕方徒歩で二里の道をたどったことの方が印象深く脳裏に残っている。
はじめ彼の中の巻尺では、高岡地区までの距離を計測することは出来なかった。遠いような、そうでもないような、不確かな霧の中を渡っていくような不安感が足元を脅かしていた。
父親の言葉によって、歩いていける距離ということは分かっている。
ただ、その道のりが地面続きなのかどうか、足元の見えない箇所で自分だけがヘマを犯すのではないかと怯えを感じていたのである。
父は珍しくうきうきしてしていた。
母は子供たちを叱ったり励ましたりしながら、それでも目の中に揺らめく明かりを点していた。
暮れ残った宵闇も、小走りの足元を仄明く浮かび上がらせ、怯える芳夫の味方をした。
到着した高岡愛宕神社の境内は、一転光の海となって芳夫の度肝を抜いた。
(続く)
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これこそが地方の村やに代々伝わる盆の行事なんですね!
筆者はその流れや内実をこまめに拾って書かれている。それだけでも感嘆しました。
そこにチラリと主人公二人の動きや想いが描かれていく。暗示も込めながら。
その辺もなかなかの高等技術で、この先、どうなるかは読者のお楽しみにとっておくとか……。
筆の冴えをこれからも期待します。