ぼくは田中くんと湖岸のホテルにいた。
20年前まで同じ職場にいて、ともに将棋が好きという趣味を通しての友だちだった。
昼休みになると、食事のあとの30分ほどで早指し将棋をさす。
勝負は互角と言いたいところだが、3回に1回ぐらいしか勝たせてもらえなかった。
職場での関係は、田中くんが突然退職し、郷里の長野に帰ったことで途絶えたが、その後も年に一度ぐらいは連絡を取り合っていた。
長野市内に安アパートを借り、アルバイトのようなことをして日を送っていたが、そのうち市内の図書館にもぐりこんで受付や書庫整理などの仕事を得たようだった。
もともと実家が材木問屋を営んでいて、お坊ちゃんのせいかあまりガツガツ仕事をするタイプではなかったが、好きなことには嵌る性質だった。
将棋の他に日本の歴史が好きで、真田幸村や佐久間象山など地元に関わりがある人物が出てくる場面ではああだこうだと持論を展開した。
埋もれた史実や人物にも興味を持っていて、郷土史研究家の知り合いとも交流を持っているようだった。
ぼくの方はそうした田中くんに親近感を感じ、急に会ってみたくなった。
今回湖畔のホテルで再会することにしたのは、ちらりと聞き知った諏訪湖にまつわる伝説のいくつかを教えてもらうことにあった。
もうひとつ、個人的に確かめたいこともあったが・・・・。
「田中くん、ここいらには温泉がいっぱいあるけど、火山があるわけでもないのにどういう仕組みなんだろうね」
「うーん、たしかに。それに関して面白い話があるんですよ」
「ほう、それ聞きたいな」
「実はこの地に伝わる神話なんですが、信じてもらえますか」
うん、とうなずいたぼくに、田中くんは彼が調べてきた温泉秘話を話しはじめた。
明確な年代はわからないが、古事記に登場する建御名方命(たけみなかたのみこと)が、神宮寺(しぐじ)というところに住んでいたころの話である。
わけあって、女神の八坂研耳命(やさかたぎしみみのみこと)が男神に離縁されたという。
いよいよ女神が下諏訪の方へ去ることになったとき、男神の建御名方命が声をかけた。
「何なりと、欲しいものを持て」
けれども、これといって欲しいものがなかったので、女神はただうちしおれて、宮の傍らに湧いている温泉を、綿に浸して持っていった。
それから下諏訪に行く途中、陸路はもとより船で湖を渡る間にも、綿からは涙のような温泉の雫がポタポタと滴りつづけた。
その滴ったところからは、やがて温泉が湧き出た。
畑の中にも、田の中にも、川の中にも、大きな深い湖の中にも、温泉が湧き出たという。
冬の最中のどんなに厚く氷が張るときでも、湖のところどころに「釜」といって凍らないところがある。
それが即ち、女神の御手の綿から温泉が滴り落ちたところであるという。
それからというもの、神宮寺のあたりでは温泉が涸れて、上諏訪、下諏訪の方へ移ってしまった。
上諏訪の土地は、井さへ突けば、どこでも白い透きとおった温泉が沸々と湧き出してくる。
諏訪湖畔に温泉が多いのには、そうした謂われがあるのだという。
「ちなみに神宮寺(しぐじ)という場所は、全国に何箇所かあるようです」
地名としては秋田県大仙市の神岡近くにある神宮寺が知られているが、長野県の松本市には神宮寺という寺がある。
いずれも現在は神宮寺(じんぐうじ)という読み方をしていて、もともとは神仏習合と関係があるらしい。
女神の八坂研耳命が離縁される前に居た場所はどこだったのか特定は難しいが、田中くんの見立てでは、地理的に松本市の神宮寺温泉ではないかという。
いずれにせよ、ぼくにとってはかなり興味をそそる伝説だった。
神話とはいえずいぶん人間臭い神々の登場とあって、幾多の飛躍をあっさり認めさせる力が隠されていた。
片倉温泉をはじめ、諏訪湖を半周する地域に密集する源泉の数々は、女神の涙を信じさせるに充分の真実味を帯びていた。
ましてや湖の中から自噴する間欠泉など、どう考えても科学的には理解しづらい現象の一つだった。
「男神の住んでいた神宮寺という場所は、女神を追い出したおかげで結局温泉が涸れてしまったんだって?」
「まあ追い出したのかどうかはわかりませんが、女性の情念の凄さを教えてくれる話ではありますよね」
「悲しみがここまでとは思わなかったんだろうね」
「男って勝手なところがありますからね」
「だけど、女神の悲しみの深さを知って、あとから忸怩たる思いをしたんだろうね」
「おっ、ダジャレですか。衰えていませんね」
田中くんの反応の良さに、すっかり昔を思い出していた。
「見上げたもんだよ、桂馬のふんどし」
角と銀の両取りを掛けられて悲鳴をあげたときの呟きである。
「それをいうなら、見上げたもんだよ屋根屋のふんどしでしょう」
軽口を叩き合いながら早指し将棋に明け暮れた日々が蘇ってきた。
「目から火の出る王手飛車・・・・ひっかかったね」
やられたお返しに、角で両取りを掛けた瞬間だ。
「王より飛車をかわいがり・・・・。ダメですねえ。投了です」
ちょうど昼の休憩時間が終わりに近づくころ、田中くんが駒を投げて一局の終了とするといったケースが何度かあった。
細かいところまで目端の利く性格で、職場の仲間からも好かれていただけに、田中くんの突然の退職は何か釈然としないものを感じさせた。
「さあ、ひとっ風呂浴びたら、久しぶりに将棋でも指そうか。フロントに電話して将棋盤を用意してもらおう」
夕食前の1時間と就寝前の3時間ほどを、対局に費やすつもりで心づもりをしてきたのだった。
少しは強くなったところを見せようと、千駄ヶ谷の将棋会館に通ってアマチュア二段の申告で手合いを用意してもらった。
田中くんは矢倉が得意なので、こちらも飛車先不突の相矢倉で対抗した。
「おっ、今日は棒銀じゃないんですか」
「いつも予想外の場所で仕掛けられて、せっかくの棒銀がおいてけぼりにされちまうからね」
「銀が泣いている・・・・て、ことですか」
「それなんだけどさ、阪田三吉は1筋で銀を取らせようとして、相手が取ってくれないんでボヤいたんだってね」
・・・・互いに香車が素通しで、銀を引けば香車を取られるし、進めれば歩を打たれて銀が死ぬ。にっちもさっちもいかない苦境に立たされたってわけだ。
「へえ、そういうことなの? だったら雀刺しから棒銀に変化できるよう準備しておけばよかったのに」
「まあね。だけど今じゃ田中くんだって、ちゃんと棒銀対策をしてるじゃないの」
「時代が違ったっていうことですか。銀が泣くのも、女神の八坂研耳命(やさかたぎしみみのみこと)が泣くのも、ドライな都会人には通用しない話でしょうね」
成り行きでアハハと笑ったが、ぼくの胸にはなお引っかかるものがあった。
ホテル最上階の展望露天風呂で温泉に浸かり、湖水を眺められる大食堂で夕食を摂ったあと、ほろ酔い加減の状態で再び将棋盤を挟み対局をはじめた。
ぼくは最初の対局で勝ったので、またも矢倉に組んで田中くんの出方を待った。
今度は四間飛車でぼくの狙いをかわしつつ、角交換から大胆に捌いてきた。
「捌きが命の式守伊之助か」
「おっ、新格言ですか。先輩なかなかやりますね」
「いやいや、ところでさ、田中くんが急に会社を辞めたのは、何かあったから?」
ぼくは、なに食わぬ顔で聞いてみた。
ああ・・・・。
田中くんは酔いもあってか、ぼんやりとぼくの顔を見た。
「なんだったかなあ、20年経つと本当の理由なんてはっきりしなくなりますね」
「噂みたいなものは聞いたけど・・・・」
「たとえば?」
「女性絡みの・・・・」
「うん、確かにきっかけの一つではありますが・・・・」
田中くんは、長年胸にしまっていた出来事を、ぽつりぽつりと話しはじめた。
それによると、あまりやる気のないセールスマンとして営業先の奥さんから面白がられ、少しずつ親密になっていったのだという。
二十歳半ばだった田中くんは、四十代に入ったばかりの奥さんと肉体関係を持った。
子供もなく、旦那から無関心に扱われていた女性が、反乱を起こしたのである。
ところが、妻の浮気を知った旦那は田中くんの存在を突き止め、当人だけでなく雇い主の責任を問題にしてきた。
「そんなの筋違いでしょう」
誤解を受けたのは僕の至らなさですが、先方が会社にいちゃもんを付けてきたからといって、ぼくが会社から責められる理由はないでしょう、と突っぱねた。
自分が逃げていることは承知の上で、亭主と会社の双方に抗弁しつづけたのである。
しかし、最後には会社に愛想が尽きて退職した。
奥さんとの間で何の話もしないまま、姿をくらます結果となった。
ずるい気もしたが、お互いに愛情の行方を確かめることなく分かれるのが、後腐れのない最善の別れではないかと自分を納得させた。
「あれ以来、女性との付き合いは敬遠するようになりました」
単なる浮気でなく、奥さんが本気で田中くんを愛していた可能性もある。
その後奥さんが、旦那にどのように扱われたか。
場合によっては離婚されたのではないか。
もしや奥さんは、自分のことを思って泣き明かしていたのではないか。
「そうした心の迷いに、欝になりかけたこともありました」
田中くんの告白を引き出すかたちとなって、ぼくもまた自分の浅慮を恥じる結果となった。
似たような出来事はたくさんあるが、当事者にとっては唯一無二の経験なのだ。
「ごめん、この世には突き止めない方がいいこともたくさんあるんだね」
「なんと、今度は雀刺しで来ましたね・・・・」
<銀が泣いている>
阪田三吉の将棋を再現するかのように、進退極まった銀の姿が、雀刺しに失敗した形で1五の地点に残っていた。
(おわり)
20年ぶりに少しは強くなった自分を試すかのように将棋を指す。
あまり意味のない将棋指しの定番軽口をやり取りしながら少しずつ失われた時間を埋めていく…二人。
中でなぜか不意に、20年前田舎へ去った理由について、噂にかこつけて切り込むそこだけ意味のある言葉。
その言葉がついに穿り出してしまう、会社にとって大事な取引相手の人妻との割り無い関係がそこにはあったという事実。
それをこじ開けた言葉の残酷さと、しかしそれは彼の人生の中でもしかしたらもっとも輝いた瞬間であったかもしれない。
そのことに気付いたときの、盤上の指し手が・・・・
うーん、短編小説のお手本のような一篇ですね。
温泉神話と将棋を絡め、田中くんの生き方が浮き彫りになってくる・・・・。
将棋の戦法などご理解いただけるかどうか少しばかり不安もありましたが、嬉しいコメントをいただきほっといたしました。
こころから感謝申し上げます。
さっぱり上手くもならず・・・です。
しかし発想力の高さ多さには恐れ入ります。
わたしのブログにコメントをいただきありがとうございます。
将棋はコンピューターと切磋琢磨。
碁は世界が大局観に注目。
ぼくも上手くなりそこねましたが、それぞれ好きですね。
貴ブログの霧に濡れたクモの巣は神秘的でした。