「白亜」は、夢を見ていた。広い草原を全速力で走っている情景だった。
目の前には、草むらから飛び立ったばかりの鳥がいる。雉に似ているが、アフリカの野鳥としか説明できない逞しい鳥だ。
なぜ、夢を見たのか。
「白亜」には思い当たることがある。
主人と一緒にテレビを見ているとき、夢の場面とそっくりの映像が流れたのだ。画面の主役は「白亜」ではなく、ヤマネコだった。
広がった胸と前肢がクローズアップされ、伸びきった手首の爪が獲物に突き刺さって、かきむしられた柔毛がパッと飛び散った。
夢の中で、「白亜」は遠い祖先にあたるリビアヤマネコになっていた。全身の筋肉がムズムズと疼いた。
獲物が手の中からもがき出た。
羽根をむしられた翼が、一瞬乱れた後、空中で風を捉え、「白亜」の視界から消えた。痛手を跳ね除ける気迫が、鳥の消えた方向に残っていた。
いまいましい思いに打ちひしがれながら、「白亜」は目覚めた。
近くに人の気配を感じ、闇の中で目を凝らした。窓際に主人がいた。カーテンを細く開けて、外の様子を窺っている。
別荘が建つ傾斜地の中腹あたりから、何ものかが忍び寄る気配がした。
「なんなの? 怖いわ・・・・」
主人が夜着の襟をかき寄せた。
ミャーオ。「白亜」は主人の足元で呼びかけた。
さっと抱き上げられた。絹の滑らかな感触が「白亜」を包んだ。
窓から外を見ると、はるか坂下に二つのライトが点っていた。繁茂する草むら越しだが、それが自動車のスモールランプであることは明らかであった。
(人が居る・・・・)
すでに気配は坂の途中まで迫っている。獣ではなく、人間の息遣いが、ある意図を持ってこちらを窺っているように思えた。
「どうしよう?」
主人が「白亜」の耳元でささやいた。
絹布を透して腕の緊張が感じられた。意外と硬い筋肉の締め付けに驚いて、「白亜」は主人の懐から立ち上がった。
腕に掴まったまま、ガサガサという音のする方角を注視した。「白亜」の耳には、うずくまる大型哺乳類の息遣いまで聴こえた。
「やっぱり、うちに侵入するつもりだわ」
主人は「白亜」を床に放り出して、寝室に駆け込んだ。海中をイメージした青色発光ダイオードの照明の中で、電話機に手を伸ばした。
「もしもし、変質者に狙われているのですが・・・・」
どもりながら住所、氏名を答えているのは、110番につながったからだろう。現在の状況と電話番号を告げて、戸締りの確認に走った。
主人が玄関や窓の鍵を確認している間に、「白亜」は収納棚の上に移動した。昼間のうちに確認し、サイドボードを足場に楽に登れるルートを発見していた。
リビングルームの明かりは落としてあるから、この場所にいる「白亜」は容易に見つけられない。
名前こそ「白亜」などと付けられたが、目の玉以外は黒っぽい毛で覆われている。シャムほど短毛ではなく、アビシニアンほどシャープでもない中型種で、主人がある目的をもってアメリカから輸入してもらった「ボンベイ」という種の猫だった。
その狙いとは、テレビや雑誌に登場する主人が「美白」で売っている事と関係している。
白い顔と純白のドレスに似合う黒猫を抱き上げることで絵的にインパクトを与え、さらには黒猫に「白亜」というギャップを意識させることで、取材チームを煙に巻き面白がらせているのだった。
一方「白亜」の方は、取り巻きから「白亜ちゃん」と呼ばれ撫でられたりするのを嫌っていた。主人以外に触られると、大げさでなく毛が逆立つ思いをした。
「白亜」もスターになったのだから、多少のことで過剰反応しないほうがいいのだが、こればっかりは理屈で解決がつく問題ではない。
同様に、スターである「白亜」が最近太り気味なのは、あまり好ましい傾向ではなかった。カロリーたっぷりの肉食が過ぎるからで、オマケに運動不足とくれば足腰が弱くなるのも当然だった。
麻布の高層マンションに居たときには、たまに主人が猫じゃらしを使って遊んでくれたが、ちょっと無邪気な仕種をするとすぐ胸元に引き寄せられてしまうので、到底トレーニングにはならなかったのだ。
そんな経緯から、「白亜」にとって軽井沢の別荘はいたって刺激的な空間に思われた。
昼も夜も樹木の放つフィトンチッドの香りが忍び込んできたし、都会では聴けない小鳥の啼き声が森を渡ってきて、外への誘惑を掻き立てた。
憧れの外界で、いま興味深い出来事が進行している。
「白亜」にとって、わくわくする展開だった。
しかも危険が及びづらい高所に潜んで、暗闇の中から様子を窺っている。「白亜」にとっては願ってもない事件の勃発だった。
主人を含め、人間は実に騒々しい動物だ。
深夜だというのに、静寂が好きな軽井沢の住人をたたき起こす勢いで、サイレンの音が近づいてきた。
(あっ、もう万平ホテルのそばだ)
主人の思いが伝わってくる。
「白亜」はポルシェの助手席で聞いた音声ナビを思い出しながら、主人の呟きと重ね合わせる。
そうこうするうちに、旧軽井沢の最奥にある主人の別荘めがけて、煌々とライトを点けたパトカーが急坂を駆け上ってきた。
主人が室内の明かりをオンにする。
一人の警察官が入口の扉を叩き、もう一人が放置されたままの無人の自動車に近づいて、助手席の窓から懐中電灯で車内の様子を点検していた。
「もしもし、大丈夫ですか」
緊迫した声で呼びかける警察官に、二重鍵をガチャリ、ガチャリと開けて主人が顔を出した。
「こんな夜分にすみません」
「変質者の侵入はなかったのですか」
若い警察官はがっかりしたように語尾を濁らせたが、気を取り直して、どんな状況だったのかと詳しい経過を尋ねた。
「家のすぐ下の草むらに、人が潜んでいたのです。・・・・それと、坂の下にライトを点けた怪しい車が停まっていたのですが」
「ああ、たしかに不審車両が停車してましたよ。様子が変なので、同僚がいま点検中です」
主人は、去りかけた警察官の背中を追うように、ミュールを突っかけて外に飛び出した。
「音がしたのは、あそこよ」
主人は、倒れかけた唐松が他の木に寄りかかる窪んだ草地を指差した。
すかさず警察官の懐中電灯が向けられる。いったん拡散した光があたりを掃いたが、すぐに手元で切り替えられた強力なスポットライトによって闇が抉られた。
「あっ」
主人と警察官が同時に声をあげた。こそこそと逃げ出す人影が目に入ったからだだった。
ピーっとホイッスルが鳴った。同僚を呼ぶ合図であるとともに、容疑者の動きを制する効果もあった。
「待ちなさい。・・・・そこから動かないで!」
二人の警察官が、坂の上と下からドタドタと走り寄った。
主人は白いネグリジェの上から夏用カーディガンを羽織り、木製テラスの張り出しの根元で呆然と立っていた。
「白亜」はというと、主人の閉め忘れたドアから、一瞬の隙を衝いて夜の森に飛び出していた。
事件の顛末に興味がないわけではないが、事件のことより部屋を飛び出せたことが嬉しかった。
長年の望みが叶って土を踏みしめた感触は、「白亜」に想像以上の興奮をもたらした。
森の下草は多様な種類で覆われ、どれも逞しかった。
萱のたぐいは油断すると顔や耳を傷つける。棘を持つ矮小な木々、それに絡む蔦植物を含め、侵入を拒否する意思を示している。
「白亜」も湿った腐葉土のにおい嗅ぎながら、頭を低くして薊やおみなえしの傍を潜り抜けた。
「白亜」が向かったのは、広い敷地を持つ隣家の古びた別荘だった。
起伏の大きい傾斜地で、いましも警察官に取り押えられた不審者の抗弁する声が、背後から波打つように聞こえてきた。
「ぼくはスズムシを捜していただけだ」
たしかに草むらのあちこちから、涼やかな虫の声が聴こえていた。「・・・・天然のスズムシは、愛好家から珍重されているんです」
どうやらパニックが収まって、穏やかに事情を説明しはじめたようであった。
「この虫かごにいるのは何だ」
「ウマオイです。スイッチョ、スイッチョと鳴くやつですよ。こいつも近頃は少なくなったから、みんなに欲しがられますよ」
「まあ、言い訳はあとで聞こう。とりあえず署までご同行願います」
参ったなあと嘆く中年の男を、任意で連れて行くことになった。
先ほどの警察官が戻ってきて、「先生、あのあたりは先生の別荘の敷地内ですよね」
どうやら、110番してきたのが有名人だと心得ているらしい。
「ええ、そうよ。間違いないわ」
主人のほうも、満更ではない声を発している。
「そうですか。それじゃ、署へ戻りますので、あとの戸締りを万全にしておいてください」
「ありがとうございました」
少し離れた場所での人間のやり取りを聞きながら、「白亜」は今度こそ自分の興味に没頭していった。
雑草の放つ青臭いにおいが鼻と目を刺激する。
湿った腐葉土が、やわらかいクッションとなって足裏を包み込む。
夜気を帯びた空気までが、都会とは異なる肌触りで「白亜」の体をすっぽりと覆った。
なんという違いだろうか。・・・・こんな世界があったのだ。
「白亜」は無性に身を隠したくなって、下草にもぐりこんだ。これまでにない安心感が、彼のからだをブルッと震わせた。
本来、見られるのを好まない動物なのに、ライトを浴びせられ人目に曝されてきた。抱き上げられ、撫でられても耐えてきた。
何千年かけて馴らされたように見えるだろうが、脳に埋められた野生の遺伝子はある日突然目を覚ます。
記憶が動き出すきっかけは、「白亜」の場合エキサイティングな事件だったかもしれない。
環境が変わって、前兆もあった。
視る聴く嗅ぐ触るなど、本能に直結する感覚がムズムズとざわついていた。そこへもってきて深夜の不審者出現である。
危険を避ける行動を取ったことで、潜んでいた野生が刺激された。隙をついての脱出がさらに輪をかけた。
一瞬、藪に隠れたことで満足を味わった。こちらの安全を確保しながら、相手の動きを観察する優位さを思い出した。
急に、闇の底でうごめく虫の気配がワッと迫ってきた。
全身の感度が研ぎ澄まされてきて、「白亜」に流れる血流が、足先から耳の先端まで熱く脈打ちだしたように感じられた。
「白亜」は自信を得て、忍者のように動き出した。
数メートル移動した木の根方から、突然小動物が走り出た。すかさず「白亜」が飛びついた。
手の中に野ネズミがいた。彼は不思議なおもいで獲物を眺めた。
爪を収め、ほっと息を吐いた瞬間、ネズミが敏捷な動きで脱出しようとした。
またも彼はネズミを捕らえた。(生意気な奴め・・・・)
何度も捕まえなおし、弄んだ。
「白亜」は、われを忘れてネズミ捕獲に熱中した。主人の別荘から遠ざかる方向へ、獲物を求めて夜通し森を徘徊した。
(つづく)
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人間の生活に慣れすぎて失ってしまった猫の、野生の復活が描かれようとしているのでしょうか?
今のところまだこの小説がどこへ向かっていこうとしているのか、鮮明に視えてはきませんが、うっすらそんな気配は・・・
このあと意表をつくような展開を楽しみに読ませていただいております。
しかし今回が(中)ということは、あと1回で終わってしまうのかな。だとすれば、そこまで踏み込もうという意図はないのでしょうか。
いずれにしても窪庭さんらしい新鮮な小説になることをご期待しています。
愉しませて!
知恵熱おやじ