どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設19年目を疾走中。

耳の穴のカナブン(6)

2006-11-28 01:30:27 | 連載小説

 法事というものが、どんな意味を持つのか、モトコは深く考えたことがなかった。
 田舎では、どこの家でも村のしきたりに従って坦々と進めていたから、祖母が死んだ時も母は滞ることなく行事を済ませていったような気がする。
 奥様の四十九日が済んで、次は一周忌だと、頭の中で漠然と考えている。
 いや、その前に新盆がやってくるから、そのとき大掛かりな供養を営むことになるのかもしれない、と思い直したりする。
 本来、規模などどうでもいいが、奥様の御魂には安らかに天空へ向かってほしいのだ。モトコの願いは、多くの人びとが何となく脳裡に浮かべるものと同じで、特別に死者の気配に左右されるといったことはないはずだった。
 ところが、深夜トシオに呼びかける、か細い声を聞いて以来、一度も顔を合わせたことのない奥様の存在を感じて、心を乱されるようになった。
 モトコは、これまでにない感覚が後頭部の一隅で育っているのを意識する。まったく無縁だと思っていた祖母譲りの能力が、あの夜の呼びかけ以来、日々研ぎ澄まされている気がしてならなかった。
 ふと気が付くと、モトコは柱の背後や、長押の飾り板を見つめていたりする。暮れかけた庭先や、築山の裾に目を凝らしていることも少なくなかった。
 いつもの年と違って、正月用の重々しい松飾もないまま年明けを迎えた。鳶の親方や餅つき職人の出入りがないと、お屋敷全体が沈んだように活気を失ってしまう。モトコは、奥様の存在を身近に感じつつ、家族以上の神妙さで喪に服していた。
 怖くはないが、やっぱり気になるものである。いつの日か、向こうの世界から現れる奥様と、否応無しの対面をしてしまいそうな予感がしていた。
 春が来て、坊ちゃまの入学式を見届けたら、やはりお屋敷を辞すことにしようと考えている。部屋数に比して、このお屋敷は住む人の数が少なすぎる。
 奥様に限らず、代々過ごしたゆかりの人たちも、密かに戻ってきては長押の隙間を潜り抜けたり、ひんやりと饐えた薄暗がりの部屋から部屋を、さまよい歩いていそうな気がして仕方がなかった。
 世間では、梅だ、桜だと騒いでいたが、モトコは坊ちゃまの入学準備でそれどころではなかった。銀座のデパートまで出向いて用意した革のランドセルに、磁石つきの筆箱や下敷きを仕舞わせて、自分が入学するような気分で胸を高鳴らせていた。
 小中高の一貫校とはいえ、寄宿舎は中学生からしか認められていなかった。
 旦那様からそのことを伝えられ、だから頼むと再度トシオの面倒を見るように言い渡されていたが、モトコとていったん口にした決心を、そう簡単に引っ込めるわけにはいかなかった。
 そんなある日の夕方、モトコが外出先の麻布十番から戻ってくると、お屋敷をぐるりと取り巻く黒板塀のところで、白っぽい和服姿の女性とすれ違った。
 若いような、そうでもないような、あまり年齢がはっきり判るタイプの女性ではなかった。ただ黒髪が豊かで、覆い被さるように頬を包んだ髪の陰から、伏目がちにモトコに微笑んでいったのが印象的であった。
 春とはいえ、たそがれ迫るお屋敷街の道である。知り合いとも思えぬ女性に会釈をされて、モトコは怪訝な思いで、その後ろ姿を見送った。
 大通りに出れば、東京都庭園美術館から吐き出された人びとの行き交う姿が見られるかもしれなかったが、一歩裏道に入ると猫一匹に出合うのも難しい場所である。モトコが振り返って見ていると、樹齢を重ねた屋敷林や背丈の高い外塀に遮られて急速に光を失った夕闇が、楚々とした着物姿の輪郭を溶かすように飲み込んでいった。
 モトコは、ぶるっと肩を震わした。これが花冷えだろうと、自分に言い聞かせた。
 勝手口にまわって、鍵穴にカギを差し込んだ。昔ながらの錠前がカチッと音をたて、屋敷の内側にすっと開く感覚が気に入っている。
 最新の防犯機器をたずさえて、いくつもの警備保障会社が旦那様を訪ねてきたらしいが、それほどまで守りを固くする必要はないとの理由で断ったのだという。
「家の中に金品を留め置くより、従業員やその家族に分け与えた方が好い。数百人の心の中で育てられた忠誠心は、それぞれの場所で宝を増やし、人と人との強い絆を生み出すではないか」
 趣味を通して得た仲間との交流が、今日の旦那様や会社を作り上げる原点であったことを心に刻み、その考え方を従業員や家族にも当てはめていったのである。
「入用なだけ、お金は使うよ。我が家には我が家の器量というものがある。ただ、それは使うのであって、貯め込むわけではない。だから、申し訳ないが、大掛かりな守りのシステムはいらないのだよ」
 最低限の備えが、モトコやハナさんに託された錠前のカギだったのである。
 モトコは、勝手口の扉をしっかりと閉めて、台所に向かった。ハナさんに、たったいま出会った着物姿の女性の話をして、見かけたことのある知人なのかどうか、確かめてみたかった。
「ああ、その方は元華族のご主人を持つ二軒先の令夫人よ・・・・」
 そんな答えを期待していたが、ハナさんはただ首をひねるばかりで、逆に近頃のモトコの言動に不審の思いを隠せないようであった。
「いつかは、あたしが夜中にトシオ坊ちゃんを呼んだかなんて訊いたり、見ず知らずの女の人に挨拶されて、あたしの知り合いの人ではないかと確かめたり、少し変じゃない? この家のこと、あたしよりモトコさんのほうがよっぽど詳しいでしょうに・・・・」
 そのうえ、縁側からぼうっと外を眺めていたり、疲れているように見えるのが心配だと付け加えた。

   (続く)


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