本郷通りに出て、左に曲がったところに、フランス風田舎料理を食べさせる小さな店があった。
ミナコさんはときどき訪れるらしく、濃いルージュをつけ、大胆なカーブの眉を描いた女主人が、満面の笑みを浮かべて迎えてくれた。
「きょうのメインは、霧島産の雛鳥と西洋野菜の付け合せよ。スープはそら豆をうらごししたもの。シャンピニオンのクリーム煮もあるわよ」
説明しながら、おれの方にもちらりと視線を流す。
笑みを絶やさないから、なにやら勝手な想像をされているようで落ち着かなかった。
最初、怒っているように見えたミナコさんも、前菜が終わり、メインディッシュにかかるころには、機嫌を直していた。
「わたしねえ、いずれ、あのマンションを出るわ。でも、それまでは、目立たないで居たいの」
確かに、ふたりの男が交互に出入りしていたら、周囲の噂にもなろうというものだ。おれは、自分だけの独りよがりで行動したことを、小さな声で謝った。
「あのね、わたし、会社に出る前に、どこへ寄ったと思う?」
ミナコさんが、含み笑いをもらした。「・・行きつけのクリニックで、治療してもらったの。もちろん、診断書ももらったわ」
いまは、化粧で隠しているが、会社へは、患部をガーゼで覆った状態で出勤したのだという。
おれは、呆気に取られていたが、ミナコさんがみずからそうした行動に出たことで、並々ならぬ覚悟を持っていることを思い知らされた。
マンションへの出入りについては、極度に人目を気にする一方、この店の女主人の詮索がましい視線に関しては、まったく意に介していない様子に見えた。
「赤カブがおいしかったでしょう。それにルバーブも・・」
ミナコさんは、もっぱら野菜や香草を褒めたが、おれにとっては、こんがり焼けた骨付き鶏の味が格別の旨みとして舌に残った。
食事が済むと、ミナコさんはすぐに席を立った。狭い店だから、あとの客のことを考えたのかもしれなかった。
「あのママさん、若いころはモデルだったらしいわよ。そんな雰囲気が残ってるでしょう」
「はい、ほんとに」
「パーティー会場で、美男のフランス人シェフと出会って、ママの方からアプローチしたんだそうよ」
日本贔屓のシェフと、フランス大好きのモデルは、ニ十年ほど平穏な結婚生活を送ったが、旦那が急な心臓病で死んで、彼女は未亡人になってしまった。フランス風田舎料理の店は、そのとき生きていくために考えた最良の選択で、なるほど必然の帰結なのだと納得がいった。
ミナコさんの話を聞きながら、おれは、もと来た道を戻っていた。
「きょうは、まっすぐ部屋に帰んなさい」
駄目を押されるまでも無く、そうするつもりだった。おれは、マンションに帰るミナコさんと別れてバス停に急いだ。
巣鴨から新宿経由で中野まで、勤め帰りの男女にもまれていると、一日の空白がおれの中で予想以上の喪失感をもたらしていることに気付かされる。
あれほど仕事嫌いだったおれが、いまでは仕事中毒と呼べるほど写植に熱中している。短歌のみならず、俳句の割付にまで手を染めるようになって、天地揃えの高度な計算も出来るようになった。のみならず、おれなりに、作品そのものの評価まで下すありさまだ。いつの間にか、歳時記を買って、古今の名句を鑑賞するのが、趣味の一つになっていた。
だからこそ、そうした充実の時間を放り出した自分の軽率さが、悔やまれたのだ。
やっとめぐり合えた天職に、明日から心血を注ごうと、いささか大時代な決心をして家路についた。
新婚を祝ってから、まだ半年も過ぎないイノウエから、会社に電話があった。
旧姓佐鳥さんことイノウエ夫人に懐妊の兆しでもあったのかと、受話器に向かって声を弾ませたおれの耳に、浮かない調子でイノウエの相談が持ちかけられた。
おれの退社時刻に合わせて飯田橋に行くというので、おれは待ち合わせに最適のルノアールを指定した。
おれは、仕事の都合で予定より三十分ほど遅れたが、イノウエは背筋を伸ばして待っていた。
几帳面で、従順な性格は変わっていないようであった。
「待たせてしまったね」
「いや、こちらこそ。無理を言ってすみません」
イノウエは、丁寧に頭をさげた。
ひとしきり世間話をしたあと、佐鳥さんの近況に水を向けると、イノウエはその機を待っていたように、相談事の核心に触れ始めた。
「実はぼく、女房に捨てられそうなんですよ」
「えっ?」
おれは、まさかという顔で聞きなおした。
浮気とか、不倫とか、世の中にない話ではないが、イノウエたちの間にそんな問題が起こっているなどとは、想像もしていなかった。
「それも、女に女房を取られそうなんです」
イノウエの話によると、ふたりの間には、結婚当初から共稼ぎで生活を維持する約束があったという。
イノウエは、青山で美容師見習として将来の一本立ちを目指し、佐鳥さんは、六本木のアマンドでウェイトレスとして働き出した。
ところが、イノウエの得る賃金はあまりにも安すぎて、佐鳥さんの給料を合わせても生活費には程遠かった。
やむなく佐鳥さんは、夜の仕事を掛け持ちすることにした。
アマンドから二区画と離れていないレズビアンバー『ねね』のホスト役に応募し、まもなく働き始めた。
もちろん、イノウエにも相談したうえでの結論だった。
佐鳥さんとしては、バーやクラブのホステスよりも、よほど危険がないだろうと、イノウエに精一杯気を遣った選択だった。
あらたな仕事への努力は、まず佐鳥さんの外見に現れた。
長かった髪を、思い切った断髪にし、誂えてきた黒のチョッキとパンタロンを身につけて、自分の後ろ姿まで姿見に写してみたりした。
「お店のユニホームもあるんだけど、なかなかピッタリのサイズがなくって・・」
どうやら、ほぼ同じような格好で客の接待にあたるようであった。
イノウエは,当初わが女房の変身振りを、驚きながらも楽しんでいたらしい。朝はいかにも女っぽいカツラを着けて出勤するのに、『ねね』では颯爽とした男装のホストとして客に接しているのだ。
「世の中には、物好きな女もいるもんだ」
イノウエの感想は、そんなところだった。
ところが、一ヶ月もしないうちに、佐鳥さんは夜の生活を避けるようになった。もともと淡白なほうで、そのうち変わってくるだろうとタカをくくっていたイノウエも、少し変だと思うようになった。
苛立ちを見せて、強引に迫ると、明確に拒絶の返事がかえってくる。
「あたし、二つも仕事をして、毎日くたくたなのよ。このうえサービスしろといわれても、できっこないわよ」
一言もなく項垂れるイノウエに、二の矢、三の矢が飛んでくる。
「今月いっぱいでアマンドは辞めるからね。あたしが、どんなに疲れたか、あんたも掛け持ちしてみたらいいわ」
宣言どおり,佐鳥さんは昼の仕事を辞めた。
美容師見習として、他のスタッフより早めに出勤するイノウエを送り出すでもなく、佐鳥さんは仕切りの襖を閉ざしたままだ。
それだけではなく、近ごろでは外泊が多くなっているらしい。
文句を言おうにも、アパートの家賃を女房に払ってもらっている身では、非難の言葉さえ思い浮かばない。
イノウエは、夫婦の先行きに目を向けないようにして日を送ってきたが、ついに昨日、佐鳥さんのほうから引導を渡されたのだという。
「先輩、こんなことって、あるんでしょうかねえ。あいつに、大金持ちのパトロンがついて、白金の屋敷に引っ越して来いというんだって」
だから、ぼくとの結婚生活は成り立たないし、それならば、いっそ別れたほうがお互いの幸せではないかと、離婚を迫って来ているというのが、現在の状況のようだった。
(続く)
ミナコさんはときどき訪れるらしく、濃いルージュをつけ、大胆なカーブの眉を描いた女主人が、満面の笑みを浮かべて迎えてくれた。
「きょうのメインは、霧島産の雛鳥と西洋野菜の付け合せよ。スープはそら豆をうらごししたもの。シャンピニオンのクリーム煮もあるわよ」
説明しながら、おれの方にもちらりと視線を流す。
笑みを絶やさないから、なにやら勝手な想像をされているようで落ち着かなかった。
最初、怒っているように見えたミナコさんも、前菜が終わり、メインディッシュにかかるころには、機嫌を直していた。
「わたしねえ、いずれ、あのマンションを出るわ。でも、それまでは、目立たないで居たいの」
確かに、ふたりの男が交互に出入りしていたら、周囲の噂にもなろうというものだ。おれは、自分だけの独りよがりで行動したことを、小さな声で謝った。
「あのね、わたし、会社に出る前に、どこへ寄ったと思う?」
ミナコさんが、含み笑いをもらした。「・・行きつけのクリニックで、治療してもらったの。もちろん、診断書ももらったわ」
いまは、化粧で隠しているが、会社へは、患部をガーゼで覆った状態で出勤したのだという。
おれは、呆気に取られていたが、ミナコさんがみずからそうした行動に出たことで、並々ならぬ覚悟を持っていることを思い知らされた。
マンションへの出入りについては、極度に人目を気にする一方、この店の女主人の詮索がましい視線に関しては、まったく意に介していない様子に見えた。
「赤カブがおいしかったでしょう。それにルバーブも・・」
ミナコさんは、もっぱら野菜や香草を褒めたが、おれにとっては、こんがり焼けた骨付き鶏の味が格別の旨みとして舌に残った。
食事が済むと、ミナコさんはすぐに席を立った。狭い店だから、あとの客のことを考えたのかもしれなかった。
「あのママさん、若いころはモデルだったらしいわよ。そんな雰囲気が残ってるでしょう」
「はい、ほんとに」
「パーティー会場で、美男のフランス人シェフと出会って、ママの方からアプローチしたんだそうよ」
日本贔屓のシェフと、フランス大好きのモデルは、ニ十年ほど平穏な結婚生活を送ったが、旦那が急な心臓病で死んで、彼女は未亡人になってしまった。フランス風田舎料理の店は、そのとき生きていくために考えた最良の選択で、なるほど必然の帰結なのだと納得がいった。
ミナコさんの話を聞きながら、おれは、もと来た道を戻っていた。
「きょうは、まっすぐ部屋に帰んなさい」
駄目を押されるまでも無く、そうするつもりだった。おれは、マンションに帰るミナコさんと別れてバス停に急いだ。
巣鴨から新宿経由で中野まで、勤め帰りの男女にもまれていると、一日の空白がおれの中で予想以上の喪失感をもたらしていることに気付かされる。
あれほど仕事嫌いだったおれが、いまでは仕事中毒と呼べるほど写植に熱中している。短歌のみならず、俳句の割付にまで手を染めるようになって、天地揃えの高度な計算も出来るようになった。のみならず、おれなりに、作品そのものの評価まで下すありさまだ。いつの間にか、歳時記を買って、古今の名句を鑑賞するのが、趣味の一つになっていた。
だからこそ、そうした充実の時間を放り出した自分の軽率さが、悔やまれたのだ。
やっとめぐり合えた天職に、明日から心血を注ごうと、いささか大時代な決心をして家路についた。
新婚を祝ってから、まだ半年も過ぎないイノウエから、会社に電話があった。
旧姓佐鳥さんことイノウエ夫人に懐妊の兆しでもあったのかと、受話器に向かって声を弾ませたおれの耳に、浮かない調子でイノウエの相談が持ちかけられた。
おれの退社時刻に合わせて飯田橋に行くというので、おれは待ち合わせに最適のルノアールを指定した。
おれは、仕事の都合で予定より三十分ほど遅れたが、イノウエは背筋を伸ばして待っていた。
几帳面で、従順な性格は変わっていないようであった。
「待たせてしまったね」
「いや、こちらこそ。無理を言ってすみません」
イノウエは、丁寧に頭をさげた。
ひとしきり世間話をしたあと、佐鳥さんの近況に水を向けると、イノウエはその機を待っていたように、相談事の核心に触れ始めた。
「実はぼく、女房に捨てられそうなんですよ」
「えっ?」
おれは、まさかという顔で聞きなおした。
浮気とか、不倫とか、世の中にない話ではないが、イノウエたちの間にそんな問題が起こっているなどとは、想像もしていなかった。
「それも、女に女房を取られそうなんです」
イノウエの話によると、ふたりの間には、結婚当初から共稼ぎで生活を維持する約束があったという。
イノウエは、青山で美容師見習として将来の一本立ちを目指し、佐鳥さんは、六本木のアマンドでウェイトレスとして働き出した。
ところが、イノウエの得る賃金はあまりにも安すぎて、佐鳥さんの給料を合わせても生活費には程遠かった。
やむなく佐鳥さんは、夜の仕事を掛け持ちすることにした。
アマンドから二区画と離れていないレズビアンバー『ねね』のホスト役に応募し、まもなく働き始めた。
もちろん、イノウエにも相談したうえでの結論だった。
佐鳥さんとしては、バーやクラブのホステスよりも、よほど危険がないだろうと、イノウエに精一杯気を遣った選択だった。
あらたな仕事への努力は、まず佐鳥さんの外見に現れた。
長かった髪を、思い切った断髪にし、誂えてきた黒のチョッキとパンタロンを身につけて、自分の後ろ姿まで姿見に写してみたりした。
「お店のユニホームもあるんだけど、なかなかピッタリのサイズがなくって・・」
どうやら、ほぼ同じような格好で客の接待にあたるようであった。
イノウエは,当初わが女房の変身振りを、驚きながらも楽しんでいたらしい。朝はいかにも女っぽいカツラを着けて出勤するのに、『ねね』では颯爽とした男装のホストとして客に接しているのだ。
「世の中には、物好きな女もいるもんだ」
イノウエの感想は、そんなところだった。
ところが、一ヶ月もしないうちに、佐鳥さんは夜の生活を避けるようになった。もともと淡白なほうで、そのうち変わってくるだろうとタカをくくっていたイノウエも、少し変だと思うようになった。
苛立ちを見せて、強引に迫ると、明確に拒絶の返事がかえってくる。
「あたし、二つも仕事をして、毎日くたくたなのよ。このうえサービスしろといわれても、できっこないわよ」
一言もなく項垂れるイノウエに、二の矢、三の矢が飛んでくる。
「今月いっぱいでアマンドは辞めるからね。あたしが、どんなに疲れたか、あんたも掛け持ちしてみたらいいわ」
宣言どおり,佐鳥さんは昼の仕事を辞めた。
美容師見習として、他のスタッフより早めに出勤するイノウエを送り出すでもなく、佐鳥さんは仕切りの襖を閉ざしたままだ。
それだけではなく、近ごろでは外泊が多くなっているらしい。
文句を言おうにも、アパートの家賃を女房に払ってもらっている身では、非難の言葉さえ思い浮かばない。
イノウエは、夫婦の先行きに目を向けないようにして日を送ってきたが、ついに昨日、佐鳥さんのほうから引導を渡されたのだという。
「先輩、こんなことって、あるんでしょうかねえ。あいつに、大金持ちのパトロンがついて、白金の屋敷に引っ越して来いというんだって」
だから、ぼくとの結婚生活は成り立たないし、それならば、いっそ別れたほうがお互いの幸せではないかと、離婚を迫って来ているというのが、現在の状況のようだった。
(続く)
序章というか書き出しには、悠久なる古墳の話なんかが出てきて、かなり格調が高いな、と感じているうちに、戦後昭和のあの時代、若者たちが地を這うように生きてきた物語に突き進んでく。いつの間にか物語の展開に引き込まれていました。
作者の語彙の豊富さ、使い方の適切さに感心しながら、読み進んでゆくと、具体的な地名とその辺りの当時の雰囲気がよく表現されていて興味津々。多くの東京人が知っているような各地の様子がこまめに描かれていて、「おれもそう思う」と膝を打ちたくなることも。多くの小説がフィクションにせよ、ノンフィクションにせよ、その舞台の地名が明記されていないケースが多く、読者は欲求不満になりますが、本編にはそれがない。
主人公を〈おれ〉とし、その恋人を〈ミナコさん〉と〈さん〉呼ばわりにするのも斬新な印象。その他の人物の呼称にもそれぞれ工夫がみられ、登場人物と読者との距離を縮めているようです。
何よりも、あの昭和の時代が通奏低音のように鳴り響いてくるのが一種快感でしょう。あの時代を通った者しか判らないかもしれない符牒が込められています。今と比べて、貧しくも精神的に豊かだった時代が甦ってくるのは、小生だけでしょうか。
完結したらまた、コメントしたくなります。