雫さんが、マドンナのソフトマッサージを受けている時、こんなやり取りがあった。
「お父様には、お会いしなくてよろしいのですか?」
マドンナは、私の耳たぶの辺りを撫でながら、核心的な質問をする。
「いいんです。父には、病気のことも一切伝えていませんし、それに、もう何年も会っていないんです。父が今、幸せに暮らしてくれていたら、それで問題ありません」
「そうですか、雫さんがそうおっしゃるなら、それでいいと思います」
(この、一見そっけないようなマドンナの言葉が、妙に心に響く。マドンナ自身は、血のつながらない父親への感謝の気持ちから、献身的な看病を尽くして見送った。一方、雫さんは、養父が雫さんの就職を機に結婚を切り出したことから、一方的に家を出て別居する道を選んだ。その後、自分が末期がんに侵されているのを知った時も、父親とパートナーの生活を邪魔したくないとの思いから、一切知らせないままライオンの家に来てしまったのだ。)
「多分、私は意地になっていたのかもしれません。父が、自分よりも大切な人を見つけるなんて、想像すらしていなかったんです。・・・・父は、私を育てることで、ずっといろんな我慢を強いられてきただろうし、そのためには、私が一緒に暮らさないほうがいいだろう、って」
(マドンナは、雫さんの揺れ動く気持ちを、見抜いていたのかもしれない。)
「他に、何か気がかりなことがありますか?」
マドンナが聞いてくれたので、私はもうひとつ、気になっていることを質問した。
「私のお迎えには、誰か来てくれるんですかね?」
そのことを声にすると、まるで暗くなった幼稚園にひとりぽつんと取り残されて、お迎えが来るのをじっと待っているような気分になる。
「きっとどなたかが、雫さんを迎えに来てくれます。安心してください。・・・・目に見えないたくさんの存在が、今も、雫さんをガードしてくれているんです。無色透明なので、普段は気づかないかもしれませんが」
「それって、ご先祖様の霊みたいなものですか」
「霊という言葉が適切なのかどうかはわかりませんが、私たちが様々なエネルギーに守られているのは確かです。ですから、お迎えは、必ずどなたかが来てくれます。・・・・雫さんは、決して孤独な存在ではありません」
(雫さんは、いつの間にか本音に近いところで、死を間近にした不安を漏らしていた。)
マドンナの言ったことは、おぼろげではあるが、雫さんの意識と肉体の上で形を現しはじめた。
<この美しい世界にお別れを告げなくてはならないことが切なくて、涙が尽き果てるまで、泣いた。・・・・とめどなく涙を流す私を、六花が不思議そうに見上げていた。・・・・
青空が広がっているのを見るだけで、感動して泣いてしまう。お粥から立ち昇る湯気を見るだけで、神様への感謝の気持ちが沸き起こってくる。自分の中に最後の最後まで影を潜めていた、毒のような、黒い霧のような目障りな存在が、すっかり姿を消していることに自分でも驚く。>
生きたい、まだ死にたくない、という気持ちを素直に認めることで、雫さんの心は軽くなった。更に昼間もモルヒネに頼ることで、雫さんのQOL(生活の質)が向上した。日中、お弁当箱のような装置を体につけることで、痛くなった時、いつでも自分でモルヒネを注入できるのだ。
マドンナは、その装置を「魔法のお弁当箱」と呼んだ。
<体が楽になると、心も軽くなる。つられて体ももっと楽になる。心と体は、本当に背中合わせの不思議な関係だった。>
体調のいい日には、六花との散歩もできた。
しかし、そうした日々は長くは続かない。
<私はもう、今日が何日かもわからない。気がついたら、自分が思っていたのより、一日多く日が過ぎていた。・・・・だから、かろうじて時間の感覚を取り戻すのは、週に一度、日曜日の午後三時からおやつの間で開かれる、おやつの時間だった。・・・・>
次のおやつの時間に、雫さんは車椅子で参加した。
いつも、うるさいぐらいに付きまとうアワトリスの姿がなかった。なぜ、自分が捜しているのか、自分でもわからなかったが、生理的な困難に直面している雫さんは、無意識のうちにアワトリスさんとなら、今の問題を話し合えるような気がしたのだ。
もしかしたら、別の場所にいるのかと見回していると、マドンナがみんなの前に立って、広げた書面を読み始めた。
今度こそ、自分のリクエストかと、車椅子の上で背筋を伸ばした雫さんだったが、この日のおやつは牡丹餅で、なんと、狩野姉妹の姉シマさんのものだった。
説明によると、シマさんは、以前患った乳癌が再発したため、ライオンの家での食事作りを辞め、自宅で療養しているとのことだった。
雫さんは、妹の舞さんがこしらえた黄な粉をまぶした牡丹餅を、口づけするようにほんの少しだけ口に含んだ。黄な粉の香ばしさとあんこの甘さが、身体中にしみわたっていく。もう、それで十分だった。
ライオンの家では、ゲストたちの様子が時々刻々と変わっていく。
雫さんの隣の部屋が、急に騒がしくなり、歌声が聞こえてきた。
<この声は、誰だっけ? そうそう音楽療法士のカモメちゃんだ。ギターを弾きながら歌っているのだ。それにしても、大きな声だなぁ。・・・・雫さんは目を開け、壁に設けられた手すりを頼りにアワトリス氏の部屋の前まで移動した。
全身の力を込めてドアを開けた時、私はまたぎょっとした。そこにいるのは、アイドルグループに扮したおばさんグループだった。中のひとりは、マドンナだ。
ベッドには、アワトリス氏が横になっていた。顔が土気色だ。・・・・それでも、アワトリス氏は、時々口元を動かし、カモメちゃんと一緒にうたおうとする。それを取り囲むおばさんアイドルたちは、歌に合わせて踊っている。・・・・
「雫さんも、さぁ一緒に踊りましょう。昇天の舞いです。アワトリスさんの、たっての希望ですから、間に合ってよかったですね」
女性たちの黄色い声を聞きながら、アワトリス氏は逝った。昇天、という言葉がまさにぴったりの旅立ちだった。
「あの方は、こちらに来るまで、ものすごく真面目な、国家公務員だったそうです」
「えっ、アワトリス氏がですか?」
それまでの、冗談ひとつ言えない自分の性格が嫌で、わざとスケベオヤジを演じていたらしい。
「雫さんに疎まれていること、あの方、喜んでいましたよ」
「そんな・・・・」
嫌っていたわけではない。なるべく避けていたのは事実だけど。
「後で、これからのことを相談しましょう」
そう言って、マドンナは廊下を歩いていく。
不思議なくらい、悲しくなかった。・・・・アワトリス氏が、あんなにあっぱれな死に方を遂げたのを見て、気持ちよく朗らかに死にたいと改めて思った。>
部屋に戻った雫さんは、夢とも幻とも言えない光景を味わうことになる。
たった今、昇天したばかりのアワトリス氏が、窓辺に置かれた椅子に足を組んで座っている。
ひとしきり言葉を交わした後、雫さんに顔を寄せようとするので、それをかわした瞬間、アワトリス氏は突然消えた。
次に現れたのは、雫さんよりも若い女性だった。
「やっと気づいてくれたのね」
「どなたですか?」
「お母さんよ」その人は言った。
熱を出した雫さんを、ベビーシッターに預けて外出した両親が、交通事故で死んだことを教えてくれた。
雫さんを献身的に育ててくれたのが、双子の弟だったことも。
「お母さん」
「なあに?」
「私ね、まだもう少しだけこっちにいたいんだけど、その時が来たら、ちゃんと私を迎えにきてくれる?」
「もちろんじゃない!」彼女が即答する。「だって、そのためにお母さんは先に天国に行ったんだから」
「じゃあ、約束ね」
「うん、絶対に約束するわ」
彼女は、じーっと私を見て、言った。
「しーちゃんが、優しい人に育ってくれて、お母さん、心から幸せです」
(こうしたシーンに出合って、ぼく自身も、すごく安心したのだった。)
(つづく)
もう、最後の扉を開けました。
クライマックスかどうかは分かりませんが、間もなく終わります。
私も、もし、同じ様な病状で終末を迎えることになったら、医者に頼んで、弁当箱のような装置を体につけて、痛くなった時いつでも自分でモルヒネを注入出来る様にしようと思います。
昇天の舞いは、現実の話としてはピンときませんが、まあ、あっぱれな死に方なんでしょうね。
好きな人が先に天国に行っていたら、ホントに、死ぬのはそんなに怖くない様な気もしましす。
知りませんでしたね。
この現実味と、昇天の舞いの擽り、小川糸さんの持ち味がうまく出ていて、容認できる気がしました。