(振り返る虫)
母の遺品の中から、ビニール袋に入った源太の絵日記が出てきた。
小学三年生の夏休みを、志賀高原で過ごしたときのものだった。
ひと夏を丸池近くの貸別荘で寝起きし、同い年のプロパンガス屋の息子と森の中を探検した。
名前は一平といい、人懐っこい子供だった。
来る日も来る日も晴天続きであったことが、絵日記上部のお天気欄に残されている。
夕方から雷雨がやってきて部屋に閉じ込められたときは、晴れと雨ふたつのマークがついていた。
もう二十歳にもなった源太だが、あのカミナリに怯えた日のことをはっきり覚えている。
台所でカタカタと包丁を使う音が気になり、「ママ危ないよ!」と居間から叫んだ。
途端に近くの森に雷が落ちた。
飛び込んできたママが蒼い顔をして立っていた。
「こわい!」
源太は母を守るように、天井に近い明かり取りの窓を睨みつけた。
今度落ちる雷が、護衛のように立つ唐松の木を伝い、裏切りの火を走らせるのではないか。
恐怖に耐えて立ち尽くす体に、帯電した森の空気が忍び寄っていた。
カミナリが三日続いたあとの昼過ぎ、源太はひとりで丸池の周囲を散策した。
草むらの切れ目に、小さな湿地が広がっていた。
あふれた水が川のように流れた跡だった。
先の方では、折り重なる夏草の葉が、森へと続く小さなトンネルをつくっていた。
その暗がりの奥で、三センチほどの白いものが蠢いた。
腐葉土から脱け出てきた蝶か蛾の幼虫のようであった。
源太は、酔った父がぶら下げて来るお土産の、手提げ袋の紐に似ているとおもった。
一瞬、頭の中でまばゆい光が弾けた。
父の持ち帰った『赤福』の包みに、白い封筒が添えられていた場面が甦った。
「これはダメよ。送り返しましょう・・・・」
封筒を点検して商品券を発見した母が、すばやく別室に入っていった。
テーブルの上に置かれた手提げ袋の純白の紐が、いまも源太の目に焼きついている。
紐に似た虫は身を伸ばし、首をもたげて後ろを振り返った。
白い頭の先端に付いた黒い目玉が、グリッと動いて源太を確かめたように見えた。
逃げようとする意思と、追う者の正体を見極めたい欲望のはざまで、虫と源太が動きを止めた。
虫は怖れることなく、微笑んだように見えた。
虫を怖れるはずのない源太だったが、まじまじと虫に見られてたじろいだ。
そこにいるのが虫ではなく、名付けることのできない暗がりの生き物の気がした。
強いて言えば、森の露が化身した姿か、迷い込んだ人間の成れの果てに思われた。
源太が発作を起こしたのは、そのときが初めてだった。
ふもとの病院に運ばれて、呼吸器疾患の疑いありと診断された。
森の中に、揮発性の成分を有する植物があった可能性もありますが・・・・。
医師は素人のように意見を述べた。
たしかに、あの夏は暑かった。
だから、野草やキノコですら、いつもと異なる毒性を帯びたのではないかと仄めかされた。
暑過ぎたことにより森中の生態系が狂い、振り返る虫にも遭遇したのだろうと考えた。
早めに東京に戻ると、思いもしない事態が起こっていた。
いつも深夜に帰る父が、朝から官舎にいてふさぎこんでいた。
病み上がりの源太は、すぐに自分のベッドに寝かしつけられた。
母がリビングルームで動き回る気配を感じながら、一平との森の探検を反芻していた。
やがて眠りに落ち、夢うつつの中でチャイムの音を聞いた。
「はい」
母がドアを開けたらしい。
玄関先で、男たちの低い声がした。
父が出て行き、男たちの間で短いやり取りをした。
うむを言わせぬ指示が、父を黙らせたようだ。
目覚めて不安がる源太を気遣い、母が様子を見にやってきた。
腕章を巻いた男が、母の動きを監視するかのようについてきた。
「ここは子供の部屋ですから・・・・」
母が抗弁するように言った。
「わかっています」
腕章の男は、返事だけして部屋の前に立ち続けた。
「カタクソウサクをはじめます・・・・」
どこかで係官の声がした。
数時間、腕章の男たちが動き回った。
人の去る気配を感じて、源太はベッドを抜け出した。
ベランダに出て中庭を見下ろすと、二人の男に挟まれた父がワイシャツ姿のまま歩いていた。
上から見ると、禿げかけた後頭部に光があたっていた。
突き上げてくる言葉があったが、胸の底に押し戻した。
見知らぬものに声を掛けるときのような躊躇いがあった。
父が振り返ったのは、そのときだ。
二人の係官の間で窮屈そうに身動きし、源太のいる三階の部屋を見上げた。
太陽に抗して、眩しそうに源太の方を見ようとした。
源太からは表情が見えたが、父の方からは何か見えたのだろうか。
父は収監され、母と子は麹町の官舎を去ることになった。
「あれほど気をつけていたのに・・・・」
母の嘆きは、たぶん自分に向けてのものだったろう。
島根の実家に戻って十年弱、源太が成人式を迎えた年に母は死んだ。
エリートの妻になった母は一子を連れて出戻り、父が迎えに来ても生涯東京には戻らなかった。
「あんなコンクリートの箱に閉じ込められて、何が偉いんだか・・・・」
官舎の入口には、警官が常駐するポリス・ボックスがあったのを思い出す。
摘発されるまで、それらを権威の象徴のように思い込んでいた父は、振り返ったとき何を見たのか。
源太が見た丸池の虫は、今となっては夢まぼろしのように思えてくる。
あれほどグリッと目玉をまわす虫など、一平でさえ出遭ったことがないそうだ。
連日マスコミをにぎわした政財官癒着の話題も、近頃では誰ひとり口にするものはいない。
(おわり)
夏の別荘地といい、麹町の官舎らしい自宅といい、太い伏線があるようですが、作者はそれを詳述しない。
そこのところが読者の想像力を刺激します。
そういう姿勢と組み立てで意外な話を紡いでいくところが一連の短編小説に込められているように思えます。
「カタクソウサク」を漢字で表さないので、しばし読者はその真の意味を考えたりして。
とにかく、読むひとときを楽しませてもらいましたよ。
私などは、底が丸見えの、一読全解の作品しか書けませんから、あとあとまで残らないんですよね。
短いものを、しばらく続けたいと思います。
尽きない泉のようなアイデア湧出に驚くのは、小生ばかりではないでしょう。
ありがとうございました。
この世を無事に生き抜くというのは難儀なものですねー
(知恵熱おやじ)様、お嘆きの因は余人には分からないのかもしれませんが、なんとなくタメ息の出る日常の連続です。
気を取り直して、目の前のことから処理するようにしていますが・・・・。