葬儀が済むと、親の居なくなった実家は、正夫にとってあまり長居をしたくない場所になった。
嫂はそれとなく気を遣ってくれたが、喪主であり戸主でもある長兄は、母という重石がなくなった親族を思うままに取り仕切っていた。
「正夫、一段落したら形見分けするから、そのときはハンコを持ってきてくれ」
真意がどこにあるのか、長兄は正夫に対してろくに説明もせずに、自分の予定を押し付けてきた。
他家へ嫁いでいる正夫の姉にも、それとなく聞こえたはずであった。
「はあ、形見ですか・・・・」
古くさい着物や帯だったら、姉がもらえば済むものを・・・・と短絡的に考えていた。
(ほかに何かあるのか?)
彼にとっては、むしろ仕事を休まなければならない事の方が重大な関心事だった。
「急に抜けられなかったら、どうしようかな・・・・」
「こっちは冬休み前の準備と葬儀でてんてこ舞いなんだ。あれこれ斟酌している暇はないから、そのつもりでな?」
それでも、召集日を次の法要あたりと匂わせたので、胸を撫で下ろした。
「いったん帰るけど、あとは頼みます」
結局、面倒なことは兄に任せるしかなかった。
「じゃあな」
「じゃあ・・・・」
正夫は、久しぶりの実家を後にして東京のアパートへ戻って行った。
間もなくクリスマス・イヴという時期に、正夫の身辺はあわただしさを増していた。
長く続いたいざなぎ景気のお蔭で、街にはまだ活気が残っていたが、正夫の働く印刷所では競争激化からくる利益の減少に陥っていた。
アルバイトの人員を減らすといった処置はなかったものの、深夜勤務に付けられていた割増手当てが、前後二時間にわたって削られたりした。
一方、新宿駅東口にあふれていたフーテン族も、グリーン・ハウスに柵をめぐらした規制とブーム後退の相乗効果で、目に見えて数を減らしていた。
モーリーの姿も見かけることがなくなり、噂では麻布高校に戻ったとの話も耳にした。
もともと自由な校風であったし、モーリーの親の力が働いたのかもしれない。
キャッシーがどうなったかまでは、正夫にも分からなかった。
森服飾学院の生徒として、デザインの習得に励んでいるのだろうか。
それとも、身も心もボロボロになって墜ちていったのか。
気になってはいたが、その先をたどる余裕もなかった。
後から気がつけば、若者が自由を求めて仇花を咲かすことができたのは、経済の隆盛と無関係ではなかったのだ。
ヒッピーもフーテンも、徐々に街角から消えていった。
(風俗に取り込まれた大男も、世の中の変化に早々と気づいていたのか・・・・)
正夫自身、アルバイト先の業容に一抹の不安を感じたぐらいだから、根無し草の彼らが敏感に反応したとしても不思議はなかった。
この先どのように付き合うか頭を悩ましていたモーリーと縁が切れたことは、正夫にとって歓迎すべき展開であった。
夕子のお蔭で復学への決心がついたことも、彼にとっての大きな転機となった。
キャンパスはまだ荒れていたが、脱落する者は脱落し、理論武装がなされた生き残りの精鋭は外へ向かって矛先を変えている最中だった。
各大学の闘士たちは、成田での共闘に夢を託していた。
航空機の飛行妨害を目的とした鉄塔建設の効果で、当初政府が計画した72年開港を断念させたことも大きかった。
学生たちは当然、農民との連携に自信を深めていたようだ。
夕子はというと、住井すゑの影響を受けて、なおいっそう人権擁護の立場を鮮明にしていた。
勉強会で意気投合した大学講師の活動家をサポートする形で、夕子は受講の合間に蒲田や川崎方面に出かけていた。
年が明けて、一月半ばに四十九日の法要が催された。
母の供養と住職の法話が済むと、親族は早々に寺から引き上げた。
会食といった行事は予定されておらず、実家に戻ると仕出し弁当が用意されていた。
姉の亭主と乳飲み子は、嫂とともに別室にとどまり、肉親三人だけの話し合いが仏間で持たれた。
「おふくろは、早くからぼくにこの家を継いでほしいと言っていた。大した財産もないから迷惑なところもあるが、長男の責任で引き受けることにする」
ついては、ここに署名押印するようにと、弟妹二人に行政書士作成の遺産分割協議書を押してよこした。
正夫が目を走らせると、長男以外は相続の放棄を申し立てる内容になっていた。
姉も気づいて、戸惑いの表情を見せた。
「田舎の宅地などほとんど財産価値もないが、親の遺言みたいなものだから、ぼくが守っていくしかないと思っている・・・・」
一呼吸置いて、長兄が下目遣いに正夫と姉の表情を窺った。
「まあ、それでも書類作成の手間もあるから、ぼくの方でハンコ代としてこれを用意しておいたよ」
地方銀行の名前が入った封筒を、それぞれの目の前に置いた。
疑問や異議を唱える状況ではなかった。
正夫は封筒の厚みを目で測りながら、財産分与の法的手続きに直結する書類に署名押印した。
姉は一瞬躊躇したようだ。
別室に居る亭主に相談した方がいいと思ったのかもしれない。
「・・・・ああ、これが済んだら母さんの指輪とか見てくれないか」
すかさず口を挟んだ長兄のひと言で、姉も正夫に倣ってボールペンを走らせた。
母の持ち物については姉が一番知っているはずだから、めぼしいものを分けてもらえると踏んだようだ。
母の箪笥や小物入れを前にあれこれ物色する姉を置いて、正夫は別室に居る親類のもとに戻った。
「正夫さん、形見に扇子をもらったの?」
嫂はすべての運びを知っていたようだ。
「うん、母さんは謡の稽古に熱心だったから、記念になるかと思ってね」
扇をひらくと、流れるようなかな文字ですらすら書いてある。
『羽衣』の一節だと聞いたのは、中学生のころだった。
白扇に母自身の手で書かれたものだから、形見にはぴったりだと嫂が褒めた。
しばらくたって、長兄と姉が姿を見せた。
ともに浮かない顔をしているのが、正夫には気になった。
長兄から渡された封筒には、復学に必要な再入学金の一部と一期分の学費を払える金額が入っていた。
正夫は喜び、その後、本来はもっともらえたかもしれないと、疑心暗鬼の気持ちに陥ったりした。
子供には等分の遺留分があり、それを主張して裁判に持ち込む例もあると聞いている。
しかし、田舎では代々嫡子が相続するものと教えられていて、兄弟間で争うなど最も醜い行為だと頭の中に刻まれていた。
その意味では、長兄の取った措置は当然で、ハンコ代として何がしかのカネをもらえただけでも幸運だったのかと考え直したりした。
ときどき現れる夕子に、相続のことを聞いてみようかと思ったこともある。
だが、口を衝いて出たのは、復学の準備状況についてだった。
元の学部に『復学願』を提出し、審査を経て教授会の許可が下りるのを待つだけの日程にこぎつけた。
「やっと、見通しが立ったのね」
夕子は、自分のことのように喜び、うれしさの延長なのか激しい愛で正夫を鼓舞してくれた。
久しぶりに二人で新宿に向かい、伊勢丹デパートのとんかつ店で腹ごしらえをした。
有名店だけに、ロースカツのさっくり感は抜群だった。
お替り自由のキャベツをもらい、特製ソースで貪欲に味わった。
「ふふ、スタミナ回復した?」
夕子が正夫をからかった。
「ああ、やる気満々さ」
他の客に聞かれないように、小声で応えた。
店を出ると、夕子が腕を絡ませてきた。
高層階から直通エレベーターで一気に地上に降り、目をつけておいた民芸喫茶『青蛾』に入った。
「変わったつくりねえ」
夕子が狭い店内を見まわした。
「そう、一度入ってみようと思っていたんだ」
洋風なもの一辺倒なインテリアに飽き、ぽつぽつと和風なものが取り入れられる下地ができつつあったのだろう。
こうした場所にも、時代の変化が及んできたのだろうか。
「わたし、ちょっと重たい問題に首突っ込んじゃった・・・・」
先ほどまでのはしゃいだ態度が嘘のように、夕子が困惑の表情を見せた。
住井すゑの勉強会で知り合ったという、女性運動家の関連であることは確かだった。
牛久から戻り、蒲田だ、川崎だと引き回されていたことが、夕子の憂鬱を生じさせていたのだろう。
正夫に悟られまいとして隠していたことが、この場の雰囲気でとつぜん噴出したのかもしれなかった。
(つづく)
地方の旧家のことかもしれませんが、親の没後の形見分けの実態が分かるようでした。
旧態依然の風習がその時代にまだ残っていたんですね。
著者はその描写に神経をより多く遣っているようにも思えました。
そして、夕子との問題。
途方もない方向に向かっているようにみえても、正夫との愛情関係が保たれているのは、なんとも微笑ましく感じられました。
それはそうとして、タイトルの「細身のジャック」の意味がまだ仮面を脱がないようで気になります。
すでにどこかで伏線が敷かれていたかもしれませんが……。
まだまだ本編から目が離せません。
それがこの小説の舞台になっている年代で、今から見ると何か懐かしさと嬉しさを感じますね
ところがいつの間にか私たちは今の「無縁社会」と呼ばれる場所まで来てしまった。
うーん・・・一体どうしたことなのだ。
(丑の戯言)様、「形見分け」への見解、夕子の行く末、タイトルの意味、いずれも今後の展開を左右するファクターですね。
コメントの一つひとつが、胸にズシンとひびきます。
ありがとうございました。
(知恵熱おやじ)様、この社会の病理は、自分だけ可愛がり、他者を愛せなくなった所に原因があるのではないでしょうか。
お金、地位、名誉、コイ*ミさん。・・・・これら同義語が、シロアリのように日本の土台を食い荒らしたと言ったら過言でしょうか。
アメリカの投資システムが、世界の金融恐慌をもたらしたように・・・・。