栃木県の白河の関は奥の細道の入り口とあって芭蕉は待ち構えていた門人たちの大歓迎を受けた。
そのため、かなりの期間黒羽町に滞在したと記されている。
ある解説によれば「白河の関は東北の玄関口とされ、芭蕉は古歌や故事を偲ぶのに夢中で句を詠む余裕がなかったとされています。
一カ所一句の原則は後に紀行文「おくの細道」を編纂する際に確立したものである。
立ち寄らなかった場所でも俳句を載せて紀行文の体裁を整えた。
『田一枚植えて立ち去る柳かな」
尊敬する西行の五百年祭を記念する「遊行柳」などには実際に足を延ばしたが、門人のいない場所では連歌や連句を巻くこともできず早々に通過したことは前にも記した。
「俤(おもかげ)や姨ひとりなく月の友」
数年前の中秋9月10日、千曲市八幡の長楽寺で、松尾芭蕉の没後を偲ぶ会が催された。
この句は「亡き母の面影」と長野県に伝わる「姥捨て伝説」を重ね合わせた芭蕉には忘れがたい作である。
僕らの青春時代に「楢山節考」という小説が発表され賞を得て映画にもなったので深沢七郎の名とともに脳裏に刻まれている。
こうしてみると芭蕉の活躍したはるか前から「姥捨て伝説」は存在していたのだ。
僕は前に佐久から電車で北向き観音まで行ったことがあるが、この近くにはピンころ地蔵「ピンピンコロリ」もあって苦しまずに大往生したいという信仰が根強くあるようだ。
この地方の「姥捨て伝説」が悲しい話として伝わっているからではないだろうか。
なぜか芭蕉の句が素直に見えてくる。
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