先週の興奮は、体の隅々に痕跡を残していた。
四日ぶりに散歩に出ようとして、内耳のあたりでカサカサと音を立てるものがある。風を受けて左右に揺れる笹の葉が、花大根の風景に重なって視えた。それは、現実感に乏しい、もどかしいような眺めであった。
同じように、あのとき暗い家の奥から桂木を見ていた黒い犬の記憶も、なぜか希薄になっていた。ただ、それぞれの気配だけは残っている。紫の花と笹の葉ずれの音は同調していて、背後の貧相な家の軋みと犬の放心を誘って、ひと時の白日夢のようだ。混在する意識の中で、唯一焦点の合った場所があり、そこで黒犬の目が点ったのかもしれなかった。
人生のある瞬間、思いがけない形で日常が立ち上がるといった経験を、多くの人びとが味わっているはずだ。長年気付かなかった事柄が、突然変異のように意味を持つことがある。この日、桂木もそうした機会にめぐり合った。無意味に思えていた日々が、急に新鮮さを増して迫ってきた。
好奇心が湧くのは、自然の成り行きである。桂木は散歩の途中で、もう一度あの場所に行ってみようと思い始めていた。
まだ一度も着たことのないベージュのズボンと、春向きの淡い緑のジャンパーを身に付け、足元だけは履きなれたスニーカーで固めて、石段を降りた。
キュッ、キュッとラバーが立てるコケティッシュな音を聴きながら、早くも根付いたわが家の大根の花を横目に見る。惚れ惚れと目の端に収め、少しずつ衰え始めた陽光の中に身を移していった。
犯罪者が現場へ舞い戻るような、抗しがたい衝動に似ていた。自らの意志で行くというより、唆されている感じなのだ。
一方で、抜け目なく自分への仕掛けも施している。それは、日没の神秘を、散歩終了の時刻に符合させて享受しようという企みだった。
気温が急速に下がっていくときの、肌の軋みを意識しながら、しだいに輝度を弱めていく生命の象徴をかき抱いてやりたい。
<太陽よ>と、狂おしく両手を広げる自分の姿が、残照に燃える空を背景に浮かんでいた。
桂木はうつむき加減にずんずん歩いた。気が付くと、いつの間にか『ヘラ鮒釣具』の看板の下にいた。
彼が、家の中を覗き込むと、黒い犬は、確かにいた。
シェパードと他の犬種が幾重にも雑ざりあった体型をしていた。耳が立ち、目のふちが薄茶色い。坐ったまま動かないので、よほど性格が好いか、肝っ玉の太い犬なのだろう。桂木は安心して家の奥に声をかけた。
「ごめんください」
返事がないので、一歩踏み込んで大声をあげた。
とたんに、犬はそれまでの態度を豹変させ、低い姿勢から桂木に飛びかかろうとした。框の柱に括りつけられた鎖が、激しく音を立てた。
「らかん! 静かにしろ」
障子が開いて、がっしりした体格の男が姿を現した。五分刈の頭は、白髪まじりで老人のように見えるが、大ぶりの目鼻立ちと、頬から顎にかけてのふくよかさが、意外に若い年齢を確信させた。青年の頃からの若白髪に、年齢の方が徐々に追いついていく、その途中といった印象であった。
主人の一喝で、「らかん」と呼ばれた犬は動きを止めた。
それでも、警戒の意思は漲っていて、桂木を上目つかいに見上げて、主人の判断を仰ぐような仕種をした。
(続く)
(2006/01/03より再掲)
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