(風神雷神)
京都での自然エネルギー関連のシンポジウムを終え、伊能正孝は東京の事務所に戻っていた。
彼の事務所は、千鳥が淵を臨む三番町のビルの二階にあった。
近くにはエドモントホテルがあり、事務所では差し障りがある面会などの時、ホテルの一室を使うことが多かった。
永田町の先生方は、概ね国会周辺に事務所を構えているので、 . . . 本文を読む
野風没後一年を経た頃、木戸野風全句集を出そうかとの声が同人の間から起こりました。 『石心』主宰の私としてはもとより賛成で、亡くなった主人の魂魄を慰めるためにも、いずれは取りかかるつもりでおりましたが、ちょうど三年忌の記念事業として本腰を入れてやることにしました。 追悼号発行の際、それなりに手をかけた年譜を作成し、ホトトギス時代、『石心』時代の活躍を、それぞれ高名な俳人に偲んでもらっては . . . 本文を読む
私を誹謗する一通の手紙が届けられたのは、庭の連翹がひときわ輝いた春の一日でした。 女子事務員が渡してくれた依頼の原稿や寄贈雑誌などの郵便物の中に、その稚拙な上書きの封書が混じっておりました。 どうせ名もない結社の案内だろうと無造作に封を切ってみますと、市販の便箋の第一行に「木戸野風の子供より」と題して、奇想天外なことが書いてありました。 細かな字で六枚にもわたりびっしりと書き連ねた . . . 本文を読む
野風が死んだのは、黒四吟行から帰って二カ月後のことでした。 力道山が刺されて大騒ぎをしていた最中でしたので、ことのほか印象に残っております。 野風は自動車での長旅が堪えたものか、家に戻ってからはずっと臥せっておりましたが、しだいに体力が衰え気力も萎えて、終日うつらうつらと過ごしておりました。 喉を通るものといえば、私がこしらえる重湯や葛湯、それに林檎のしぼり汁程度でした。 近所の西松医院からもら . . . 本文を読む
評判の黒四ダムを見たいと野風が言ったのは、十月に入って間もなくのことでした。 近ごろは体調のせいもあって山行きの機会も減っておりましたが、ダムまではともかく湯治を兼ねて立山方面への吟行を試みることになりました。 メンバーは野風主宰の俳句雑誌『石心』の同人数名、松本、諏訪、塩尻などに在住する男たちが、北アルプスの山ふところに抱かれた秘湯の一軒宿に参集したのでした。 もちろん私も買い替 . . . 本文を読む
人の嗜好はさまざまですが、俳人木戸野風の水好きは少々度を越していたのではないかと思います。 私は野風の運転手兼弟子として、彼の吟行にはたびたび同道してきたのですが、しだいに高じる水への執着に主人への懸念が膨らむのを抑えることができませんでした。 野風がいつ頃から水に憑かれ始めたのか、私もよくは知りません。 私が雇われた時、彼はすでに水好きであり、庭の井戸から汲みあげた水に何やら黒い . . . 本文を読む
(人生とんぼ玉) 大蔵さと子が工房を辞めたのは、秋が本格化した九月下旬のことだった。 ヨシキにとっては、先輩でもあり憧れの女性でもあった。 ガラスの扱い方を丁寧に教えてくれただけでなく、仕事を超えて近しい存在になっていた。 ヨシキが所属する工房では、主にアクセサリーに関する素材や技法を研究している。 顧客のニーズを掘り起こして、さまざまな装飾品にトライする試作室みたいなものだった。 経 . . . 本文を読む
正夫は、夕子にシャワーを浴びさせ、その間に片栗粉を溶いてテーブルの上に用意した。
具合の悪いときに、よく母親が作ってくれたことを思い出したのだ。
腹痛だけでなく、風邪でも、怪我のときでも、どんぶり鉢に六分目ほど入れた半透明のカタクリを用意してくれた。
不思議なことに、それを口にすると体が温かくなり、いつの間にか気持ちが静まるのだ。
傷んだ体を外側から包み込むように霧状の粒子が湧 . . . 本文を読む
正夫は、昼ごろアパートを出ると、久しぶりに杉山公園に立ち寄り、隅のベンチに腰掛けた。
梅や白木蓮など早春の花々が終わり、さくらの枝に紅のふくらみが纏わりついていた。
あと一週間もすれば、東京でも開花宣言が出そうな陽気であった。
近所の若い母親が二人、乳母車を押して通り過ぎていった。
少し離れた場所にあるスーパーマーケットまで買い物に行くのか、それとも幼稚園のお迎えにでも行くの . . . 本文を読む
三越裏にある民芸喫茶『青蛾』で夕子が漏らした一言は、こらえていたものが彼女の意思を無視してチョロリとこぼれ出た感じだった。
(やっぱり・・・・)
正夫は、心の中でうなずいた。
ときどき勝れない表情を見せる夕子の様子から、急には晴れない気がかりがあることに気づいていた。
ただ、重たい問題というのが何なのか、それに首を突っ込んだことでどんな状況に陥っているのか、迂闊に立ち入るのを躊 . . . 本文を読む
葬儀が済むと、親の居なくなった実家は、正夫にとってあまり長居をしたくない場所になった。
嫂はそれとなく気を遣ってくれたが、喪主であり戸主でもある長兄は、母という重石がなくなった親族を思うままに取り仕切っていた。
「正夫、一段落したら形見分けするから、そのときはハンコを持ってきてくれ」
真意がどこにあるのか、長兄は正夫に対してろくに説明もせずに、自分の予定を押し付けてきた。
他家へ . . . 本文を読む
晩秋の一日、夕子が日焼けした顔をほころばせて正夫のアパートを訪ねてきた。
正夫にとっては起きぬけの時刻で、夕子が手にするビニール袋の中身が気になった。
「うな丼よ」
正夫の視線のゆくえに気づいて、ちょっと持ち上げる仕種をした。
「おお、ありがたい」
飢えた動物のように反応し、渡された袋の中を覗き見た。
「あれ、自分の分は?」
「わたしは、電車の中で食べちゃった・・・・」
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正夫はショルダーバッグにジャック・ナイフを忍ばせ、出勤前に大男のフーテンを探した。
若者が集まる『穂高』やジャズ喫茶『びざーる』で時間を潰し、街の隅に首を突っ込んでいそうな連中をみつけては、目当ての男の所在を探り出そうとした。
探し当てたらどうするのか、具体的な手順も浮かばないまま、とにかく所在を突き止めたかったのだ。
「うーん、ガタイの大きな奴と言ったら、ラリタケとかウドカリあたり . . . 本文を読む
山野正夫は、モーリーとキャッシーを伴って新宿東口に降り立った。
通称グリーンハウスと呼ばれる芝生の近くには、立ったままの若者やプラボンドでトリップした少年たちがへたり込んでいた。
「じゃあね」
正夫は歩を緩めずにモーリーを振り返った。「・・・・ぼくは、ちょっと寄るところがあるから」
二人とは、ここで別れるつもりだった。
いつまでもアパートに居座られてはたまらないから、駅の立 . . . 本文を読む
正夫が週に一度の休日を自宅アパートで過ごしていると、深夜二時ごろドアをノックする音がした。
「だれ?」
久しぶりに夕子が訪れたのかと思い、パジャマのまま起き上がった。
こんな時刻に正夫が居ると知っているのは、夕子ぐらいものとの先入観があった。
どこをほっつき歩いていたのか、いよいよ行き場を失ってここへ舞い戻ってきたのだろうと、同胞を許すような気分で内鍵を回した。
ドアノブを掴 . . . 本文を読む