昭和という時代を懐かしむつもりは無い。 ただ、昭和を生きてきて、その影響を受けたことは事実である。 わたしは、齢をかさねるごとに、自分が通り抜けてきた時代を振り返ってみる。 青春時代、壮年時代、どの一日を切り取ってみても、いま老年期を生きる自分とどこかでつながっている。 その意味で、自分という存在は、時代の鏡である。 だが、時代は自分だけの鏡では無い。 <おれ>という主人公を鏡にして、昭和を通り . . . 本文を読む
(双頭の蛇)
師走も押し詰まった頃、調査を依頼しておいた滝口から耳寄りな報告があった。
<年明けに、村上紀久子と電力界の黒幕が金沢の主計町で会う>という情報だった。
経済団体の賀詞交歓会は、例年通り13日頃に行われるらしいが、老人が大手町へ行くことはなく、もっぱら裏街道が似合っていると承知している。
陽のあたる場所よ . . . 本文を読む
(アサリの味噌汁)
正孝は、滝口に連絡するつもりが、間違って艶子の電話番号を押していることに気づいた。
どういうことだろうと、自分のとった行動を訝しむ。
選りに選って、なぜ艶子の電話に?
すでに、この世に存在しない女性の持ち物。
警察に押収され、現在どこにあるかもわからないケータイが、意思を持ったかのように呼ぶのだろうか。
正孝は、 . . . 本文を読む
(そして神無月)
堂島秀俊が殺人容疑で逮捕されたのは、朝の8時ごろ東京むさし野市の自宅マンションを出たところでだった。
街路樹の葉が色づき始めた季節、きちんとスーツを着た三十代後半の男に、物陰から現れた私服刑事が3人擦り寄ったかと思うといきなり令状を示したのだ。
自分の名前を呼ばれると、男は一瞬たじろぎ、「な、なんですか」と刑事の一 . . . 本文を読む
(企みの交差点)
思い出したくもないことだが、福島第一原子力発電所の過酷事故は、何年たっても伊能正孝の心を打ち震わす。
安全をうたいながらメルトダウンにまで至った責任は本来誰かが負うべきものだが、実際には想定を超える大地震と津波を理由に言い逃れを繰り返してきた。
原発を推進した政党と監督官庁は、政権を奪還するや当該電力会社を矢面に立 . . . 本文を読む
(巨魁の影)
ホテルでの目覚めは快適だった。
病院や役所をめぐった柏崎での一日は、気疲れの連続であった。
一夜過ぎて、その時の疲れはほぼ解消していた。
さすがに金沢は癒しの街だった。
それもそのはず、伊能正孝の投宿したホテルは、緑の多い金沢城に近い場所にあって、空気の匂いも聴こえてくる物音も違っていた。
彼がこれから訪ねようとする村 . . . 本文を読む
(善悪の彼岸)
伊能正孝は柏崎市役所の市民課におもむき、村上紀久子の転居先を調べるべく住民票の交付を申請した。
窓口職員は、申請者である正孝の住所を一瞥して、東京の法人が何かの調査のために来たのかと勘違いしたようだ。
「お身内の方ではないですよね?」
型どおりに質問しておいて、「・・・・弁護士さんか業者さんでしょうか」と質問を切り替えてきた . . . 本文を読む
(逃げ水)
艶子と父親が並んで写っている写真を見た夜、正孝は三番町の事務所で仮眠をとり朝を迎えた。
調査会社からもたらされた資料は、もう少し精査する必要があったが、正孝の関心はまだ見ぬ村上紀久子の存在に移っていた。
艶子に送った彼女の礼状から、柏崎市にある老人福祉関係の病院に入っている父親を見舞ったことが判明した。
. . . 本文を読む
(発光する神経)
正孝は、滝口から渡された写真の中に、艶子が見慣れない男と写っている一枚を発見した。
男はかなり年老いた感じで、ベッドのクッションに寄りかかるように坐っていた。
その横に立って微笑んでいるのが、艶子だった。
春先なのか、萌黄色のセーターを着ている。
ベッドの傍らには、タオルや下着を収納できる縦長のキャビネットが置かれている . . . 本文を読む
(欲と二人連れ)
艶子の変死事件に関する新聞報道は、伊能正孝に大きな衝撃を与えた。
松江に帰省中の出来事ということで、半分はプライベートな要因を想定していたが、その考えが楽観的すぎたことを思い知らされた。
やはり、今回の事件は正孝の足元から起こっている。
正孝の気づかないところで、何かが動いていたのだ。
艶子の尋常でない死に . . . 本文を読む
(ミクロの空気砲)
その晩、伊能正孝は松江市内の温泉街に宿を取り、ホテルの一室でこんがらがっている現在の状況を分析した。
まず明らかにしなければならないのは、艶子の死因である。
弥山の山中で発見された艶子の遺体は、当初、服薬自殺と思われていたのだが、現場周辺の状況から警察も違和感を抱いたらしい。
そして、自殺と事件の両面から捜査を進めた。
. . . 本文を読む
(逆縁)
正孝は、空港ターミナルのタクシー乗り場に向かい、さてどうしたものかと迷いを感じていた。
艶子の実家をめざして来たものの、先に訪問の了解を得た方がいいか、近くまで行って様子を見た方がいいのか悩んでいたのだ。
ショルダーバッグを肩にかけ、一方の手に観光地図を持ったまま歩いていると、待機するタクシーの扉がいきなり開いた。
ハッとしたが、 . . . 本文を読む
(消えた風紋)
市民会館で目にした江戸手妻師の印象は、翌日になっても正孝の脳裏から離れなかった。
昨夜のネオザール社との電話では、堂島という男の風貌をしっかりと確認することはできなかったが、写真などでもう一度突き合わせる必要を感じていた。
そのためには、パンフレットで目にした手妻師一門の弟子の舞台姿を探すことだ。
調べてみると、 . . . 本文を読む
(風車の仕掛け)
正孝は閉館間際の市民会館に駆けつけ、広報担当の職員に過去の公演について情報を求めた。
「公演の全てですか」
職員はシャツの袖をたくしあげて、困惑したように正孝を見た。
「いや、何年か前に江戸手妻の出し物があったかどうか、それを知りたいのですが」
「ああ、それなら覚えていますよ。配布したパンフレットがファイルされて . . . 本文を読む
(手妻師)
翌朝、伊能正孝は、7時10分発のJAL便で、羽田から出雲縁結び空港へ向かった。
約1時間30分のフライトで、宍道湖に突き出た滑走路に着陸すると、到着ロビーの端に空港派出所と表示された一角を見つけそこに立ち寄った。
地元警察の管轄だろうから、ここで聞けばある程度の見当を付けられると思ったのだ。
「出雲署に山根さんという方はおられます . . . 本文を読む