ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

介護について

2010-10-17 19:42:26 | Weblog
会社と会社の最寄駅の間で、よく訪問介護の車に出会う。
先日、寝たきりの人をお風呂に入れるための車が停まっていて、
横を通り過ぎたときに、むかしよく嗅いだにおいがした。

寝たきりだった母の病院に充満していたにおいで、
たぶん体臭と排泄物の混ざったにおいだったのだと思う。

ふと、すごく悲しい気持ちになった。
私はそのにおいがとても苦手で、丸一日、母のそばにいた日には、
自分にもうつってしまったのではないかと、すごく気になった。

いまの介護保険制度が始まったとき、母と私の環境が一変した。
病院は基準介護から完全看護になり、
それまで家政婦さんにお願いしていた母の身の回りのお世話は、
病院にお任せすることになった。
それまでは、家政婦さんに対して、母の体質や好みを言って、
可能な範囲で、そのワガママをきいてもらえるようにお願いすることもできた。
でも、病院に一括だと、それはできない。
確かに介護の人は一生懸命にやってくれるのだけど、個人的な繋がりは消えた。

お金の事情も変わった。
制度が始まる前に比べて支給されるお金は減り、
そのかわりにサービスを現物支給してもらえることになった。
でも、病院で寝たきりの意識のない人が利用できるサービスなどない。
お金がもらえていたころは、スキンクリームや歯ブラシなど、
少し工夫する余裕があったけれども、カツカツでそれも厳しくなった。
母は自宅から遠い病院に入院していたので、私の交通費で赤字になった。

動ける人が動けるままでいるための介護福祉は必要だと思う。
それに、サービスを受けるかたちにしておけば、雇用も増える。
でも、自由に使えるお金が減ると、制度を利用する側としては、
とても画一的な印象を受けることもあると思う。
特に、介護をしている人の逃げ場がより一層なくなる。
お金であれば使用方法を選ぶことができるけど、
サービスの現物支給だと選ぶことができなくなるから。

家政婦さんであれば、この一週間、母の機嫌はどうでしたか? という会話ができる。
でも、病院がシフトを組んでいる介護では、
お世話してくれる人との繋がりが希薄になって、そんな会話はなかなかできない。
そして、私はすごく孤独を感じたのだった。

病院がやるべき医療行為だから、痰の吸引さえ、やってはいけない。
でも、シフトで機械的に流されて行く介護・看護。
社会から隠蔽したい負の存在なら、いっそのこと延命するな、とすら思った。

そして私も、生理的に、母のにおいが嫌いだった。
あんなに好きだった母が、植物状態になり、
においを発するようになったからというだけで、
私は、子どもであるという役割から逃げたくなった。
私が「信じる」ことをできなくなったのは、たぶんあの時からだ。

それは、相手を「信じる」ということではなくて、自分を信じられないということ。
大好きな人でさえ、「不要だ」「見たくない」「会いたくない」と思ってしまった自分を
ゆるせないということ。

責任転嫁をするつもりはないけれど、
基準介護で家政婦さんにずっとお願いしていたら、
心の持っていきようが、もう少し違ったかもしれないと思う。
いまの病院は、もう少し違うのかもしれないけど。


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