ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

祈り

2014-05-06 00:18:12 | Weblog
上海の市営バスに載っている時、ちょっとふてくされながら道を歩いているとき、
無性にマイケル・ジャクソンの歌を聴きたくなる時がある。

私にとってのマイケル・ジャクソンは、小林秀雄にとってのモーツアルトだ。
ちょっと、かっこよく言ってみた。

マイケル・ジャクソンの音は、彼のダンスと一体になることによって、
空間のゆらぎを表現する。
常人の聴覚では拾うことができないが、
空間の波としては五感で感じるわずかなゆらぎを、
彼は、たぐいまれなダンスで、視覚的にわかりやすく表現した。

だから、彼の曲は、
音として表現されていないけれど、
五感をフル稼働したら感じ取れる「音ではない音」で満たされている。
そう思う。

でも、マイケル・ジャクソン自身は、何とか音だけでそれを伝えられないかと
模索し続けたのだと思う。
そして1つの結晶ができた。「Human Nature」という曲だ。
この曲は、週末の午後の、昼下がりの太陽の光そのものだ。
おだやかで、それだけで満たされている、人間としての根源のぬくもり。

歌詞の英語を聞く範囲では、私の英語力は追いつかず、
おそらく意図をちゃんと汲み取れていないけれど、
自分自身への無力に絶望した中での、絶対的な祈りを感じる。
こんなだけど、それでも自分はこう生きたいんだ、
いや、生きざるを得ないんだ。だからこそ自分の道を愛する。愛したい。
すべてを受け止める覚悟と、でもそれは自分一人では抱えきれないという祈り。

こういう曲を、殺伐とした上海で聞くのもなんだが、
「主よ、あわれみたまえ」「南無阿弥陀仏」と跪く時と同じ思いを、そこに感じる。

私は幼い頃、自分は選ばれた人間だと思っていた。
父はそこそこ実力派と言われる映像プロデューサーで、
母は誰もが賢いと認める才女だった。
そんな両親から産まれたのだから、私は劣っているはずないと思っていた。

それを客観的に打ち砕かれたのが中学校の入学式の後のホームルームだ。
いきなり名前を呼ばれ、立たされ、
「あなたは母子家庭だから、要注意ね」と、担任のおばさんから言われた。

あの時、私は自分という存在のはかなさと実体のなさに打ちのめされた。
打ちのめされたというよりも、ワケがわからなかった。

私は日本人の王道からははずれてしまったけれど、
それでもまだ、自分は日本人だと言う矜持を持っている。

マイケル・ジャクソンはアメリカで、黒人という出自と、どんなふうに向き合ったのだろう。
そして、中華人民共和国の人民たちは、
神や信仰を否定されたなか、人間絶対の人間だけの世界で、
どれだけ行き場を失っているのだろう。

人間は卑小だ。
私が知っていると思っていることは、宇宙の宏大さに比べ、お話にならないほど小さい。
神に代表されるこの世界の広がりには、及ぶわけがない。
そこから始まったほうが、人間にとって、どれだけ楽なことか。
その中でゆらぎを共有したほうが、どれだけ希望をもてることか。

こういうことを考えるとき、私は無性に父や母と話がしたくなる。
すでに他界したから、その可能性は断たれたし、
不惑を過ぎて、両親と話をしたいもないだろうと思うけど、
でも、こういった話をするうえで、彼らは最高の知性と感性をもっていた。

だから、いまはただただ悲しい。話ができないことが、ひたすら悲しい。
こんなとき、宗教という心の柱は、やはり人を救うと思う。

人民の国である中国がつらいのは、共産党員である人間が、
共産党員至上主義に走ったからだと思う。

そして、ラフマニノフのVespersを聞きながら、眠りにつきたいと思う。
祈りや他力は、私を根本的に救ってくれる唯一の望みだ。


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