オリジナルインテリア「Rose Party~Since 2003~」マキとスタッフのブログ♪RueRueと薔薇♪

20周年!オリジナルインテリアと大人可愛いファッション、高橋真琴の生活用品を少女のココロを忘れない女性たちへ。

秋冬のお姫様コーデはRose Partyにおまかせ♪29日更新予定新作速報!

2010-09-28 | 新作速報&話題いろいろ
んちゃちゃ!

Rieさん、ファックスありがとうございました
ハッピィバッグ喜んでいただけてとてもうれしいです♪
フリルのニット、ぜひお外でも活躍させてください(^^♪ 
デニムに合わせ、靴と小物を黒かチョコにすれば、ニットの可愛らしさも緩和されますのでぜひお試しください(^^♪

さ、明日29日水曜日の新作速報です
明日は、秋物最新作のお洋服&オリジナルバッグをご紹介いたします。お洋服の一部をご紹介



マキの一押しはこちらのファートリミングニットコートでございます
とーっても可愛いんです、このコート
お色はホワイトに近いミルクホワイト、軽くて暖かなウール混のふわふわ素材、
そして、今季のトレンドであるリアルファートリミング
このファートリミングがあるだけで、オシャレ感とリッチ感が増します
ヒラヒラっとした羽のようなフリルが、ふわんぽわんとした女性らしい雰囲気を演出してくれます



カットワークスカートにブーツを合わせるとこんな可愛いレディスタイルに



コート自体が可愛すぎるのに、こんなに素敵なレースブローチまでついてきます
このブローチ、やたらと可愛い・・・^_^;

びっくりするほどお手頃価格



一緒にご紹介する薄ピンクリアルラビット(ふわふわキャンディみたい♪)をお首に巻くと、冬のプリンセス
ピンクと白なスタイルで、ふわんふわんした少女っぽい印象になりますネ。



ファーには、真っ白ツイードリボンブローチが付属



もう一点のおススメは、高級感のあるループツイード素材の、ふんわりジャケット♪
これからコート着用までの期間大活躍いたします9、11号をご用意しております。



ベルベットのブラックリボンブローチが付属。付属品とは思えないほど上質なリボンなのでフロントに白カメリアつけると素敵



お袖はふんわり♪



ご覧ください、裏地の素敵なこと。チョコ色にホワイトドット☆彡
脱いだときに本当に可愛いんです♪ わたしは裏地が決め手となって購入しました(^^♪


さて。みなさまにとっても、たぶん興味深いだろうお話をさせていただきたいと思います。

「職場で、同僚の女性が、自分の悪口を陰でコソコソ言っているらしい。
まさかそんなことを言われているとは知らなかったので、かなりのショックを受けた、
もう会社に行きたくない、どうすればいいんだろう」

2ヶ月ほど前、わたしの若い友人(20代後半)のSちゃんから、このような相談を受けました。

ええ、そうなんです、みなさまご存知のように、よくある話です^_^;
職場で一番大切な人間関係。
これが良いか悪いかですべてが決まる! と言っても過言ではありません。

悪口だけでなく、まったく身に覚えのないことまで言われている、とのことでしたが、
これも本当によくある話ですよネ。
世の中には、自分の頭の中で作り上げた嘘八百のストーリーを、
さも現実にあったかのように話す天才というのがおり、そういう相手に疎まれると、
あることないこと言われて非常に迷惑するのです(~_~)

人はみな、自分を守るために、相手を傷つけます。
自分をよく見せたくて、相手を陥れようとします。
他人が羨ましくて、嫉妬した挙句、我を見失います。
自分を守ることも、よく見せることも、嫉妬心も全部恥ずかしいことだから
何とかしてそれらを隠すために、作り話をしてでも相手に非があるように見せかけるのです。

これまで人間関係に恵まれてきたSちゃんにしてみれば、
そんなAさんは複雑怪奇な存在です。「なんでそんなことを・・・」と、わけがわかりません。

けれども実際、こーいう人は、みなさまもご承知のように、少なからずいて、
わたしたちも、そのような人と無縁ではいられません。
被害者としてだけでなく、加害者にもなりうる、という意味でも、です。

Sちゃんが、他人から悪口を言われるような人でないことはよーく知っているので、
「言わせておけばいいやん、気にしたらあかん、
自分の幸せも不幸も、その源はすべて自分自身の中にあって、他人にはないねんで」
と偉そうに、しかも簡単に応えてしまったのですが
後から考えると、あまりにも言葉が、何よりも配慮が足らなかったことに気づきました。

実際、他人から悪口を言われていると知ってショックを受けない人はいません。
わたし自身も、悪口を言われた経験はもちろんありますし、
まったく身に覚えのないことを、陰で言われて反論もできず非常に悔しい思いをしたことがあります。
あの時本当に悔しかったし辛かったよな・・・と思うと、自分のお粗末な対応をひどく反省し、
再度話を聴かせてもらうことにしたのでした。

突っ込んで訊いてみると・・・詳細は省きますが・・・
Aさんは、Sちゃんにプライドを傷つけられた経験があるようでした。
それが引き金となって、Aさんは、Sちゃんを恨むようになったようです。
それなら自分の気持ちをSちゃんに直接言えばいいじゃないか、と思いますが、
そこまではできなかったようです。
それで陰でコソコソ・・・となり、だんだんエスカレートしてきて、あることないこと言い出したようですね。

また、Sちゃんは、Aさんの陰口を信じる人がいるのではないか、
という不安にも苛まれているのでした。
これについては、明快な答えがありました^_^;
Aさんの言うことを信じてSちゃんのことを嫌いになったりするような人とは
別に付き合わなくたっていーじゃない、ってことです^_^; 

いい歳をした大人が、自分の目や耳や心で確認したことではなく、
特に信頼するに値しないような他人の言うことをそのまま鵜呑みにするのであれば、
それだけの人なんじゃないかしらん。

まったく根拠のない、まるで週刊誌の下劣なネタのようなものを
信じ込んでしまうようなタイプの人とは、付き合っていてもしんどいだけです。
そういう人とは、いくらこちらががんばっても、信頼関係など築けるはずがないのでは?

悪口を言う人も、それを鵜呑みにする人も同レベルに違いないやん?^_^;
これに関しては、Sちゃんも納得してくれました
(実際には、Aさんの言うことを鵜呑みにしてSちゃんを嫌った人はいなかったようです、さすが皆大人です)。

それでは一番重要な、Aさんに対する接し方は今後どのようにしていけばよいのでしょうか。
Sちゃんが会社を辞める必要などまったくありませんが、
Aさんとの関係がギクシャクしているままでは、Sちゃんの負担は大きくなり、
やがて心の病に発展しないとも限りません。
他人の悪意に振り回されて、心の病気になってしまう人はたくさんいます。

そこで、聖書の中に書かれている出来事を話してみることにしました。
Sちゃんはキリスト教にはまったく興味はないし、信仰心も今のところありません^_^;
そういう友人に、自分の信仰を押し付ける気は毛頭ありませんし、
これまで聖書の話などしたこともなかったのですが、
ぜひとも聴いてほしい話だったので、今回だけは許してもらうことにしました。

*ヨハネ福音の8です。
イエスさまが民衆を前にして話をなさっていたときのことです。
そこへファリサイ派(簡単に説明するとイエスさまを敵対している派)の人々がやってきて、
姦通の現場で捕らえられた女性を連れてきて真ん中に立たせ、イエスさまに言いました。

「この女は姦通しているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。
ところであなたはどうお考えですか」
彼らは、イエスさまを試して、訴える口実を得るためにこう言ったのです。

しかし、イエスさまは、屈み込み、指で地面に何かを書きはじめました。
しかし彼らがしつこく訊ねるので、やがて身を起こして言われました。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」

これを聞いた者たちは、年長者から順々に立ち去ってしまい、イエスさまと、女性だけが残りました
(長く生きている者ほど罪が多いと自覚しているので、年長者から立ち去ったのです)。

イエスさまは、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」と言われました。
「主よ、誰も」と女性は言いました。
するとイエスさまは言われました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう罪を犯してはならない」

お分かりのように、ファリサイ派の人々も含め、民衆の中の誰一人として、
罪を犯したことのない者などいやしなかったのです。
たった一人、イエスさまだけは罪なき人でした。
ですからイエスさまだけは、女に石を投げることができました。
しかしそのイエスさまが「あなたを罪に定めない」と言われたのです。女性は救われました。

ここには非常に大切なことが書かれています。
わたしたちは、自覚があるないに関わらず、ものすごくたくさんの、大小様々の罪を犯しており、
そのようなわたしたちが、誰かに石を投げつけることなど(誰かを責めることなど)
できないということです。
罪の種類は違ってもわたしたち誰もが、姦通の現場を押さえられた女性と同じ立場だということです。

*イエスさまは姦通を犯してもいい、とは言っていません。
これからは罪を犯してはならない、とはっきり言いましたので、
姦通に限らず、罪を軽く見ているわけではありません。

この話を真剣に聴いてくれたらしいSちゃんは、うんうん、とうなづいていました。

わたしがこの話を通してSちゃんに伝えたかったのは、
Aさんがやっていることはひどく卑怯なことであり、
イエスさまのそばには決していられない人であること、
でも、わたしたちだって、ところ変われば、Aさんのようなことをしでかす危険性はある、だから気をつけなければならない(他人は自分を映す鏡)、ということ。
それを胸に、Aさんのことはほうっておけ、ということでした^_^;

わたしが一番怖ろしいと思うのは、
「アタシは生まれてからなーんにも、ひーとつも悪いことなんてしていないのよ~」と
という顔をして、平気で他人を傷つけたり、責めたり、陥れようとする人です。
心の中で仁王立ちして「わたしは正しい!」と唱えながら、他人を苛める人です。

そして、そんな自分を綺麗に隠して、何事もなかったかのように、
自分の日常(仕事・家庭)を送ることのできる人(でもやがて本性は暴かれます^_^;)。

本当に怖い、ぞっとします。
生きているだけで人間は、大なり小なり罪を犯しているのに、
罪意識のない人ほど・・・内省のない人ほど、怖ろしいものはありません。
怖いと言っても、もちろん「畏怖」ではありません、
その人が神様に出会ったときのことを考えると、怖いのです。その人自身のために、怖いのです。

そして、Sちゃんには、「万人に好かれることはできないよー、
若いときはそうできるかのように錯覚するときもあるけれど、ゼッタイ無理なんよね」
という話もしました。

100人いれば、100通りの、自分への評価があって当然です。
他人の評価を気にしてしまうのは誰だって同じですが、
それも度を超すと、本当の自分を見失ってしまうのではないでしょうか。
忘れてはいけないのは、自分の幸せも不幸も、その源はすべて自分の中にあるもので、
他人の中には決してない、ということです。

他人には、本当の意味において、自分を幸せにすることも不幸せにすることもできないのです。
つまり、誰かが好いてくれたからわたしは幸せ、
誰かに嫌われたからわたしは不幸、ではないんです。

わたしたちは、自分の意見より他人の意見を高く見る傾向があります。
繊細な人は、ちょっと悪口を言われただけで、自分の世界が一変してしまったかのように感じてうろたえます。
けれども、本当に大切なのは、相手の考えることではなく自分自身がどうしたいのか、ということではないでしょうか。

概ね、人間の言うことや、やることは、ほとんどすべてが流動的です。
極端に言えば、今は自分を好いてくれていても、いつ嫌われるかわかりません。
自分だって同じです。
昨日まで好きだった人を、ちょっとしたことで嫌いになることだってあるのです。
そんな頼りない関係に固執していると、悲しいことばかり起こります。

他人に執着し始めると、欲しいはずの幸せから、逆に、どんどん引き離されていくことになるんです。

もちろん全部の関係が頼りないものだとは思いません。
わたしもこれまで生きてきて、両親との愛と、ダーとの愛だけは本物だと感じています。
が、特別な関係というのはそんなに簡単に作れるものではありません。

他人に執着して振り回されないためには、自分の心をしっかりと持つための訓練が必要です。
どうすればよいのか。

「わたしの幸せの源は、わたしの中にあるんだ!」
ということを、自分に悟らせることだと思います。
なかなか上手くはいかないかもしれません。
それでも、あらゆる手を用いてでも、自分の幸も不幸も、他人の手中にはない、ということだけは悟らなければならないと思います。

わたしも、えらい努力を強いられながらも、自分自身に言い聞かせています。
今では、他人の評価は多少気になっても、笑ってすませることができる程度になりました。
100人いれば100通りの評価。当然のことであり、何ら問題はありません。
もちろん謙虚に受け止める必要がある場合はそのようにしますが、いつまでも引きずりません。

また、本当の意味で、自分に対して、評価を与えられるのは、神様だけだと思っています。
わたしにとって重要なのは、神様の評価であり、愛するダーの評価です。

さらに、わたしの場合は、愛する人の死により、それ以外のことに頓着するような余裕もないほどの苦しみを与えられましたので、
あらゆる意味で強くなったように思います^_^;
以前は気になって仕方のなかったことでも、
ダーの死の衝撃の前では、ほとんどのことは、取るに足らないことになってしまった。
はあ・・・なんとちっぽけなことであたしは悩んでたんやろう・・・今はそれが正直な気持ちです。

それでは、「怒り」についてはどうなのでしょうか。
Sちゃんは、日を追うごとに、ウソをつきまくって陰口を叩くAさんに対する怒りを
抑えられなくなってきたのです。

わたしは、「怒りは神様にお任せ」を、もうずいぶん前から実行しています。
わたしだって嫌いな人はいます、苦手な人、付き合いたくない人、
ほんの少数・・・2人くらいですが、います^_^;
その人たちの言動に怒りを覚えることもあります。
「どついたろか・・・!」心の中でわめくとき、あります^_^;
「近寄ってくれるな!」喉元まで出かけるとき、あります^_^;
家に押しかけて、長々と説教したくなるとき、あります^_^;

しかし、わたしが何を言っても、相手を変えることなどできません、
そんなことくらいで、他人は変わらないのです。
それでは自分の正体を隠してどこかでコソコソ相手の悪口を言おうか・・・そんな気にはなれません。
弱虫はいいけれど、卑怯者になるのだけはごめんです。
(人の悪口をまったく言わないわけではありませんよ、
言いたくなるときだってあるに決まっています、
そーいうときは、家族の前で言うのです、そして、そこで気持ちをスッキリさせて、持ち越さないことです)

だから、神様にお任せ!(^^)!
でも、そう言うと、たいていの人は、それじゃあ泣き寝入りか、と言います^_^;
いやー、そうではないんです。
泣き寝入りどころか、もっとも攻撃的な手段なのですよ、これは。
全能の神にお任せすれば、その神がすべてをしてくださるのですから。
故意に人を傷つけたり、陥れるようなことをする人に対して、神様がどのようなことをなさるか・・・
おお、考えただけで身の毛がよだちます^_^;

神様は、愛のかたまり、愛そのものですが、愛ゆえに、裁くことだってきちんとなさいます。

ただし、これも肝心なことですが、心から反省した人を、神様は許してくれます。
形だけでは見抜かれますので意味はありませんが、
心底、自分の罪を認め、神に、そして傷つけた人に許しを乞う人を
(別に、言葉で謝らなくていいんです、同じ過ちを犯さなければそれは言葉以上に謝ったことになると思います)
神は見棄てません。

人間なら、自分を傷つけた相手を絶対に許さない、と言う人もいると思いますが、
神様は許してくれます。
けれども、その許しを得たあとは、同じ過ちは犯せません。
その覚悟がなければ、許しは乞えません。生半可な反省では、許してもらえないということです。

わたしだって、神様に許してください、と乞うた人間です。
たくさんの罪を犯してきました。人を傷つけ、悩ませ、苦しませました。
無意識のときもあったけれど、情けないことに、意図的にやったこともあります。
ダーが亡くなり、同時に神様を知ったとき、今までの自分を心から反省しました。
何事につけても、ダメ人間だったことに気づき、呆然としました。

今でも、完璧からは程遠い存在です(人は完璧にはなれませんが)。
どちらかと言うと、虫けらに近い人間です^_^;
これは、自分を貶めているのではなく、本当のことなんです、
そして、この、自分は虫けらみたい・・・ってな自覚がなければ、信仰もなかったと思いますので、
自分が虫けらだと気づけてよかったなあ! と心から思っています。

わたしの文章はまとまりがないので^_^; まとめてみますと。

・自分の幸せ(不幸も然り)の源は、すべて自分自身にある。

それだけでした^_^; それに尽きました^_^;
大切な自分の人生を他人にくれてやってはいけないんです、
他人の考えに振り回されるということは、つまり、そういうことです、
自分の人生を放棄してしまったのと同じことなのです
(他人の意見を取り入れないということではなく振り回されてはいけないということ)。
自分の人生は自分のものです。

*人間関係に悩む方は、以前も紹介した、
テリー・コール・ウィッタカーの『わたしがわたしであるために』をぜひ一読ください。

締めくくりを忘れてしまいそうですが、
その後・・・始まりから約2ヵ月後・・・Sちゃんは、なんとAさんと和解しました^_^;
思いもよらぬ結末でした。
Aさんは最後まで、謝らなかったそうですが、その代わりに態度で示してくれたそうです。
確かにAさんは頑固者には違いありませんが卑怯な人ではなかったようです。
本当に嬉しい、有難いことであります。

んが、一方で、なんでそんな万々歳になったの・・・? と不思議な気持ちにもなりました。
人間関係のイザコザがそんな簡単に解決するわけない、と知っているわたしは、
Sちゃんの愚痴を、これから、少なくとも一年間は聞く覚悟でいたからです^_^;

いろいろ考えているうちに、ふと、もしかしたら・・・という考えにたどり着いたので、
Sちゃんに訊ねてみました。

「もしかしたら、Aさんのために祈った?」

Sちゃんは、恥ずかしそうにうなづきました。
「マキちゃんが、自分を恨む相手のことを祈っている人の話をしたから、自分も祈ってみた」と言うのです。

そういえば、わたしは、わたしが知っている人の中で、自分を恨む人のために祈れる人がいる、
それはシスター高木と、わたしのダーだ、と話したことを思い出しました
(あのシスターでさえ嫌がらせの中傷を受けたことがおありなのです、すべてを神に捧げ苦しむ者のために身を粉にして働くあのシスターでさえ! 中傷を受ける人は、極一部を除いて、その人が悪いわけではないことがよくわかります)。

そして、そんな「とりなしの祈り」を、イエスさまが、フツーの祈りより深く聴いてくださることも話しました。
けれども、わたしはシスターやダーのように、自分を嫌う相手のことを祈るなんてとてもできない、とも話しました。

信仰なんてまったく興味のないSちゃんがどんな言葉で祈ったのかは知りませんが、
Sちゃんは相手のために、祈ってしまったようです^_^;
Sちゃんの中には、イエスさまが一番大切だと告げた「隣人愛」が、しっかりと在ったことに、いささか驚いたと同時に、かなり見直しました^_^;
それに比べてわたしは・・・^_^;
Sちゃんの言葉を聴いて、今夜くらい、自分を疎む相手のことを祈ってみようかな、なんて思ったのでした^m^

長いよ、アンタ、でもこれでも削ったの^m^
最後までお読みくださりありがとうございました(^^)

明日の新作をどうぞお楽しみに。