人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

(インタビュー編) ホセ・クーラ、初演含む自作の3曲を指揮ーージョルジェ・エネスクフェスティバル

2021-09-18 | 指揮者・作曲家として 2020~

 

 

前回の記事でご紹介したように、ホセ・クーラは2021年9月5日、ルーマニアのジョルジェ・エネスクフェスティバルに出演し、指揮者・作曲家として、自作の宗教的作品3曲を演奏しました。

その際、いくつかのインタビューにこたえています。フェスティバルの公式サイトやメディアに掲載されたインタビュー記事より、抜粋して紹介したいと思います。

いつものように訳が不十分ですが、原文へのリンクをはっていますのでご照会いただくようお願いいたします。

 

 

 


 

 

 

≪ ジョルジョ・エネスク国際フェスティバルでのホセ・クーラの記者会見より ーー ラジオ・ルーマニア ≫

 

ーー初めてホセ・クーラを見たのは14年前、やはりエネスク音楽祭で、ブカレスト国立歌劇場で行われたビゼーの「カルメン」の公演だった。そのとき、このような公演に参加し、生のホセ・クーラを見ることができたことがどれほど嬉しかったことか......。

その時、最初の印象は、彼、ホセ・クーラがショーを牽引しているということだった。もちろん、彼にはそれに見合うメゾソプラノのパートナーがヒロインを演じていた。私はあの公演を一生忘れることができないと思う。ピットのオケの演奏者からダンサー、ソリスト、コーラスまで、すべてのアーティストがクーラのドン・ホセの周りに集まり、彼らを自分の舞台に引き込んだように思えたからだ。すべてが生きていて、真実であり、舞台上の感情を我々全員が体験したのだった。

私は長い間、ホセ・クーラを世界で最も偉大なテノールの一人として記憶してきた。そして、彼はまず本当の意味での音楽家であり、優れた指揮者であると同時に、興味深いオペラ作品を生み出す才能ある演出家でもあることに気づいた。

ここ、2021年のジョージ・エネスク国際フェスティバルにおいて、ホセ・クーラは、彼自身の作品の作曲家および指揮者という全く異なる装いで戻ってきた。宮殿の大広間でのコンサートを2日後に控えた9月3日、リハーサルの最中に、ホセ・クーラはジャーナリストを招いて記者会見を開いた。彼の作品の新しいリハーサルが始まるラジオ・ホールのステージで行われたのは、形式にとらわれない会見だった。実際、それは会見というよりも、どんな質問にも答えてくれる対談相手との、友人同士の会合のように感じられた。そしてもう一度、私はホセ・クーラ、彼の自然さ、彼のカリスマ性に魅了された。……

 

(クーラ) 「ラジオ合唱団は素晴らしい...。素晴らしい数日間を過ごすことができた。とても感動的な時間で、彼らは全力を尽くしてくれた。

昨日、私が初めて自分の作品である「テ・デウム」を聴いたことは知っているだろう(注*世界初演なので作曲者のクーラも演奏を聞くのは初めてのこと)。私は泣かずにはいられなかった。最高水準の音楽で、エキサイティングな数日間だった。声は質が高く、合唱団の指揮者がとてもよく準備してくれたので、文句のつけようがなく、すべてが素晴らしかった。もちろん、フィルハーモニア管弦楽団とは25年間一緒に仕事をする機会がなかったし、合唱団とオーケストラを一緒にする時間もほとんどなかったが、両方のアンサンブルを別々に聴いてみると素晴らしいサウンドだった。

ソリストについては、ロクサナ・コンスタンティネスクとは昔からの知り合いで、ウィーン国立歌劇場で一緒に歌ったこともある。私にとっては驚きではなく、プロとして、また同時に友人として再確認した。私はここでマリウス・ブドイに会ったが、彼は非常によく準備されていてプロフェッショナルだ。この作品での彼の役は「悪い奴」なので、彼の声色は危険な男を想像させなければならない。あるリハーサルで、彼が私に尋ねた。

” マエストロ、僕はもっとエレガントであるべき?”

” いや、いや...。危険であってくれ、『悪いやつ』になるのは悪くない。”

そう私は彼に言った。」

 

ーーコンサートで演奏される曲がすべて宗教的なものである理由を聞かれたホセ・クーラはこう答えた。

(クーラ) 「私が書いた曲のすべてが宗教的なわけではない。コミック・オペラを書いている。今回は宗教的な音楽のコンサートだが、『テ・デウム』はミハイ・コンスタンティネスクの招待で書いた。彼はこのフェスティバルの25回記念のために何か書いてほしいと依頼してきた。私はそうすると約束したが、しかしそのときは、いつそんなことができる時間がとれるのかと自問自答していた。その後、コロナのパンデミックが起こり、急に時間ができた...。この間ずっと、私は作曲をしていた。『テ・デウム Te Deum』、ギター協奏曲、交響的組曲を書いていた。『Te Deum』は今ここブカレストで初演され、11月15日にドイツ・ザールブリュッケンのコンサートでも演奏され、交響的組曲も初演される。初めての3曲を演奏するコンサートを2回開催できて嬉しい。」

 

(romania-muzical.ro)

 

 

 

 


 

 

≪ 私たちは、文化が多くの問題を抱える世界に生きている ≫



ホセ・クーラ  "私たちは、文化が非常に苦しんでいる世界に生きている。ある音楽祭が25回目を迎えるということは、並大抵のことではなく、これは大きな声で叫ぶ必要がある。"

"ホセ・クーラは真に純粋なアーティストであるとともに、現代において最も誠実で妥協を許さないアーティストの1人であり、芸術においても人生においても常に誠実さを保ち続けている" (Classical Singer Magazine)

1962年にアルゼンチンで生まれたホセ・クーラは、指揮者、作曲家、ヴォーカルソリスト、演出家として、世界の大舞台で賞賛される複合的な音楽家だ。9月5日には、ブカレストで初めて彼の自作曲の指揮を見る機会がある。

 

Q、あなたはブカレストに戻り、エネスク・フェスティバルで特別なコンサートを行う。2007年には、ブカレスト国立歌劇場で「カルメン」を歌ったが?

A(クーラ)、イエス。ブカレストはこの数年でずいぶん変わったと思うが、再びこの街を見るのが楽しみだ。

 

Q、あなたは非常に多才なアーティストであり、今回は指揮者、作曲家としてのあなたに会うことになる?

A、指揮と作曲は、大学での私のキャリアであり、それは私がミュージシャンになった理由だった。その後、歌えることに気づき、ソリストとして素晴らしいキャリアを積むことができた。だから元のキャリアに戻るのは自然なこと。今有名になったからやっているのではなく、自分のルーツに戻っているだけだ。だからといって、もう歌わないという意味ではない。つい最近も、ブルガリアのプロブディフで「トスカ」に出演した。

 

Q、パンデミックの制限期間はどのようなものだった?

A、 他の人と同じように、家にいた。幸い、家が大きいので、それほど苦痛ではなかった。もちろん、私たちミュージシャンにとっての最大の苦痛は、本来の呼吸の場であるステージに立つことができないことだ。私はたくさんのステージの機会を失った。幸い、家族を亡くすことはなかったが、何人かの友人を失った。悲しくて辛い1年だった。

 

Q、パンデミックの間に、ブカレストで世界初演となる「テ・デウム」と、同じく9月にザールブリュッケンで初演される「ギター協奏曲」の2つの作曲を完了したとを聞いている。今回のテ・デウムは、このエネスク音楽祭の記念に捧げられたが?

A、2019年にこの作品を紙にスケッチしたのだが、ミハイ・コンスタンティネスク氏がこの音楽祭に招待してくれたとき、25回目ということもあって、ブカレストで最初の初演を行い、作品をこのイベントに捧げることができたら嬉しく光栄に思うと伝えた。

いま、文化が苦境に立たされている世界に私たちは生きており、あるフェスティバルが25回目を迎えるということは並大抵のことではなく、このことを声高に叫ぶ必要がある ーー ”我々はまだ生きている、我々はここにいる!”と。このような制限のある時代に、このような大きなイベントを開催することがどれほど難しいか、私はよく知っている。このフェスティバルの記念日は、ある意味で英雄的な行為であり、このイベントに参加できたことを誇りに思う。

 

 

 

 

Q、また、1980年代にあなたが作曲した「レクイエム」のキリエの部分である「Modus」も?

A、レクイエムは1985年に書いたものだ。私たちの世代(1962年から1963年生まれ)は、アルゼンチンとイギリスの間で起こった愚かで無駄な戦争(注*フォークランド紛争やマルビナス戦争と呼ばれる)を戦った世代だということを知っておいてほしい。私には戦争で戦った多くの友人がいるが、私は幸運にも招集されず、予備役にいただけだった。だから私は、両陣営で失われたすべての命に敬意を表してこのレクイエムを書いた。

20世紀から21世紀にかけて、いまだに戦争が行われているのはとても愚かなことだ。戦争には勝者と敗者がいるのではない。実際には、敗者、損失しかない。

この作品は、アルゼンチンとイギリスの2国間の和解と平和のシンボルとして、少なくとも1度はアルゼンチンとイギリスの合唱団によって演奏されるという夢をもって、2つの合唱団のために書いた。初演はアルゼンチンかイギリスでと考えていたが、政治的な問題もあって、作曲から36年後の今日まで実現しなかった。

この作品は、2022年にブダペストで、ハンガリー放送管弦楽団と合唱団との共演で、ついに完全な形で初演されることになった。いつそれが可能かわからなかったので、ここ数年は、他のコンサートでレクイエムの一部を紹介してきた。このキリエ(別々に歌うときはModusと呼ぶ)だけでなく、ディエス・イレやラクリモサの一部も、私のコミックオペラ『モンテズマと赤毛の司祭』に組み込んでいる。いつの日か、ブカレストのエネスク・フェスティバルで、このレクイエムを完全な形で演奏できるのを願っている。

 

Q、プログラムの最後に、オラトリオ「この人を見よ(Ecce Homo)」が演奏される。この作品をつくるアイデアはどのようにして生まれた?

A、第1部のマニフィカトは、1988年にさかのぼる。私の妻は2回の妊娠を流産し、非常に辛かったが、3度目の妊娠で幸運にも第1子を授かることができた。このマニフィカトは、やっと父親になれたという喜びを込めて、オマージュとして書いた。

1年後、マニフィカトを補完する意味でスターバト・マーテルを作曲し、さらに数年後に、2つのパートをつなぐカルバリウム(ゴルゴダの丘)を作曲した。つまり、「マニフィカト」はキリストの人生の始まり、「カルバリウム」は受難、「スタバト・マーテル」は十字架の上で息子の死を見守る聖母マリアの祈り、という3つのパートがある。

 

Q、あなたは声楽とオーケストラのための曲を書くのが最も好きで、それがあなたの考える完全な作曲方法だということだが、ブカレストのプログラムを見ると、宗教的なものがあなたの芸術の重要な部分を占めていると言えるのでは?

A、私にとって音楽のアルファとオメガ(第一歩であり、究極のもの)は、ヨハン・セバスティアン・バッハであり、声を大にして言うことができる。私の宗教音楽への情熱は、バッハから来ていると思う。信仰の観点からだけでなく、精神性や、極めて演劇的なテキストの強さという点でも、バッハは重要だ。

演劇の起源は、教会での祝祭にある。キリストの生涯は、祈りであり、神学と信仰の問題であるとともに、ある意味、驚くべきドラマ、おそらく最も有名で強力なドラマといえる。

 

Q、自分の作品を指揮することになるが、これは特別な経験になる?

A、それは大変な経験だ!(笑)。作曲家はすべての音を頭の中に入れていて、すべてを自分が思い描いたとおりにしたいと思っている。作業をしているときは、常に変更を加えなければならないと考えていて、それは継続的なプロセスだ。作曲家でなければ、それほど感情的に関与することがないので、おそらくそれほど苦しむことはないだろう。

作者としては、最高のものを求める。今回は、世界最高のオーケストラ、素晴らしい合唱団、世界最高のソリスト、そして友人のラモン・バルガスがイエスの役を歌ってくれるということで、私はとても恵まれている。通常、『Ecce Homo』をプログラムに入れる時は、私がこの役を演じ、別のマエストロが指揮をしている。他の誰かのイエス役を私が指揮するのは今回が初めてで、これは私にとって重要な瞬間だ。

 

Q、音楽以外の趣味では、写真に興味が?

A、アーティストは誰でもそういうものを持っている。それ以外の多くの人にとっての趣味は音楽だ。しかし音楽家である以上、何か他の趣味を見つけなければならない。健康であるためにも。私の場合は写真だが、他のミュージシャンの場合、多くは絵だ。でも、それはプロであるということではなく、ただの楽しみだ。2008年にスイスの出版社から私の写真集が出版されたが、私はそれを自分の魂の単なる反映だとみなしているだけで、自分が撮ったという事実を除けば、特別なことは何もないと思っている。

 

festivalenescu.ro

 

 

 

 

 


 

 

≪ ベートーヴェンの交響曲第9番は人類の遺伝子の中にある ≫

 

ホールでリハーサルが始まる前に、ホセ・クーラに会った。リラックスして、冗談を言っているが、自分が何であるか、そして何ができるのかについて、自身にも周りの人々にもしっかり示していることに変わりはない。彼は世界的にも最高の一人と言うことができるにもかかわらず、自身と自分の才能を惜しみなく提供することを選択した人物との対話を以下で読んでほしい。それは贈り物だ。

 

Q、あなたは世界中で公演をしてきた。今回、ブカレストにはどこから?

A(クーラ)、マドリッドの家から。

 

Q、キャリアについて。いつも外出中のこのような生活はどのようなもの?

A、30年のキャリアの中で、約3000の公演とコンサートを行ってきた。毎年100回ほどで、かなりの数になる。

しかしこの自転車に乗っている時は、ペダルを漕いでいると、自転車にダイナモがあり、ダイナモが電球に電気を送り、電球が周りの人々や自分の顔を照らしてくれる。前方からこの光が差し込んでくるので、まわりはあまり見えない。それゆえただひたすらペダルを漕ぎ、あるところにたどり着き、また止まらずに、ただ漕ぎ続ける、そういうようなものだ。

それから、ある日、コロナパンデミックがやって来て、自転車の車輪の間に棒を差し込んだ……PANG! 再スタートできず、それはすぐにSTOP!だった。そしてさっき話したライトもすぐに止まった。

最初は、誰もが経験することだが、周りを見回しても何も見えない。明かりが消えて真っ暗になり、どうしたらよいものかと思っていた。しかし、残念なことに、しばらくパンデミックが続いているため、目が暗闇に慣れ、今まで気づかなかったものが見られるようになってくる。そして驚いて、周りの人たちに「ねえ、これを見て!」と言うと、「昔からあったけど、光のせいで見えなかった」と言われる。私はこうしたことを、周りの多くのことや人々、家族、子供、妻、庭、友人と一緒に経験した。突然、それまで自分の光に目がくらんで、今まで見たことのないものがたくさん見えてきた。そして、それは最も愚かなことだった。他人の光に目がくらんでいるなら、それはそれだが、自分で目を見えなくしていたのなら愚かなことだ。

 

Q、未来は今どのように見えている?


A、わからない。しかし絶対にもうあの自転車には乗らない。

もうすぐ599歳になる。引退した自転車で(笑い)、周りを照らすけれど自分は目立たないという、この生活が気に入っている。今では、慎重にペダルをふみ、そして、私はルーマニアに来て、素晴らしい芸術家、コーラスと美しい場所を発見することができる。もう、大きな車輪に乗ってメットやコベントガーデンにいるわけではない。私は今、他の場所を見る機会があるわけだが、本当に見ることができる。その自転車に乗っていたために気づかなかった場所、スピードを落とせば見えてくる世界がある。

 

 

 

 

Q、上から「教育する」ことに抵抗があるということだが、音楽教育に関心があり、多くのマスタークラスを提供している?


A、誤解しないでほしいが、私は教育に反対するものではない。私が問題にしているのは、「私たちがあなたを教育する」という姿勢であり、それは完全に間違っている。

自分が素晴らしい人生を送ることができたのは特権的だったと私は言うし、そう思っている。困難はあるが、人口の98%と比べればかなり恵まれている。自分自身が蓄積してきた情報や経験を、死ぬまでに共有できなければ非常に悔しいし、愚かなことであり、何のために生きてきたのかということになる。


だから情報を求めている人に提供して、これらの人々から順番に学んでいける場がとても好きだ。鏡のように機能すると思うから。だからといって、「私はソクラテスの生まれ変わりであり、人生が何であるかをすべて教える!」などと言って歩き回るわけではない。人生の一定の時期を経ると、その点が変わる。若い頃はそんな風に考えて、理想主義者でロマンチスト、そして動くものはすべて撮影したくなる。50歳を超えると、例えば、ストイックな理想主義者になって、本当に必要なときしか撮らなくなる。これが大きな違いだ。

 

Q、6つの楽器を演奏すると聞いたが?

A、いやいや! 6つを演奏できるわけではない。 音楽の訓練の一環として、これらの6つの楽器を演奏するテクニックを学んだが、歌うこととは別。もし今、トロンボーンを演奏するとしたら、とても辛い経験になると思う(笑い)。

 

Q、想像するとして、現代音楽は、70年後、または100年後、何と呼ばれる?

A、どこに線を引くかわからないので、複雑な話になる。

ジャンルと時代のこの境界線はどこにあるのか?ベートーヴェンの交響曲第9番は、今では一種のポップミュージックであり、人気があり、人々のものであるという意味で、博物館の中にはない。

ポップミュージックはレゲトン(ラテン音楽)を意味する?もちろん違う。レゲトンは唯一のポップのジャンルか?もちろん違う。ポップミュージックの本当の定義は、業界が売るためにつくるものではなく、人々がすぐに結びつき、共感するような、力づよく、深く示唆に富んだ音楽のことだ。誰かに第九を聞かせれば、誰もが「ああ、そうか」と納得するだろう。「これが『歓喜の歌』だ」と。

「歓喜の歌」はポップソング?イエス、ポップだ。ポップスとは、人々のものであり、人々の心と魂の奥底にあるものだとう意味で、おそらく他のどの音楽よりもポップスだ。今年の夏に流行っている音楽が来年の夏には忘れられるとしても、ベートーヴェンの第9交響曲は誰も、絶対に忘れないだろう。それは人類の遺伝子の中にある。

より正確に言えば、呼称は本質的にラベルと同等だ。しかし、クラシック音楽は、誰かが分離しなければならないと決める前には存在しなかった。それ以前は、聖楽と俗楽しかなく、その中にクラシックが入っていた。20世紀になると、レコードやアーティストを販売するために、レーベルの多様化が進み、ポップミュージックが生まれ、クラシック音楽は退屈な少数派のものと認識されるようになった。史上最高の音楽はクラシック音楽から生まれ、それに触発され、クラシック音楽教育を受けたミュージシャンによって書かれたものであり、フレディ・マーキュリーはその最高の例だ。コンピューターを使って音楽を作る方法ではなく、クラシック音楽を学び、彼の分野で最高の偉大なアーティストだった。

 

Q、フェスティバルの今年のテーマは「愛の物語」。 あなたのラブストーリーを音楽でどのように表現する?


音楽は、他の人の前に座り、一緒に愛をもって何かを作る絶好の機会。私が譜面台に立ち、オーケストラと一緒になって、音楽への愛情をもって何かをするときのようなものだ。だから、音楽や譜面台に向かって、攻撃的で、独裁的で、傲慢で、うんざりするような態度でやってくる人のことは理解できない。彼らは何も理解していない。それは特権であり、あなたはその一部なのだ。

festivalenescu.ro

 

 

 


 

 

すこし長くなってしまい、申しわけありません。相変わらずクーラは、多岐にわたる話題に、縦横に答えています。

若い頃にクーラが作曲したレイクエムに触れた時、「いまだに戦争が行われているのはとても愚かなことだ。戦争には勝者と敗者がいるのではない。実際には、敗者、損失しかない」と語っていました。本当に、21世紀の今でも、各地で紛争とテロ、戦争、大国の介入などによって、多くの人々が苦しみ続けています。クーラの作曲の動機が、困難な世界と人々の苦しみに対する思い、よりよい世界をめざす情熱が土台にあることを思わされます。

また印象的だったのは、バッハの影響とバッハへの情熱です。これまでもクーラは、バッハのミサ曲やマニフィカトなどを指揮してきたし、バッハの魅力を語っていましたが、クーラにとっては、「私にとって音楽のアルファとオメガ」というほどの存在だったのですね。そこから宗教音楽への情熱が生まれ、クーラ自身のカトリックの信仰とも結びついて、多くの宗教的な作品を作曲することにもつながってきたのだということがよくわかりました。同時に、宗教的なものも、とりわけそのドラマとしての素晴らしさとしてつかんでいることも理解できました。

「作曲はやむにやまれぬものであり、創造的なものはすべて、その人の内面と深く結びついたものだ」と語っていたクーラ。作曲家としての姿勢や楽曲を知ることは、クーラ自身の人となり、生き方を深く知ることにつながると実感しました。

 

 

 

*画像は、フェスティバルのFB、動画などからお借りました。


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