※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年) 「飛鳥時代~平城京」の章(43-66頁)
(10)「任那(ミマナ)が日本の影響下・支配下にあった」と言えるが、「百済が日本の支配下にあった」とは言えない!(51-52頁)
E 百田尚樹『日本国紀』は「百済が日本の支配下にあった」(47頁)と述べる。しかし「任那(ミマナ)が日本の影響下・支配下にあった」というのは一定の説得力ある説だが、「百済が日本の支配下にあった」とは言えない!
E-2 3世紀:統一的な国家が日本側にない。九州の小国などが朝鮮半島の南部地域と関わりを持っていた。(Cf. 邪馬台国卑弥呼の死(247-248)。)
E-3 4世紀、「好太王碑文」と『日本書紀』の記述の一致から、ヤマト政権が本格的に朝鮮半島に進出したことは明らかだ。(Cf. 神功皇后が海を越えて新羅と戦う。)(Cf. 日本武尊→仲哀天皇・その妻神功皇后→応神天皇。)(Cf. 5世紀に南朝に遣使した倭の五王、讃・珍・済・興・武のうち讃は15代応神・16代仁徳・17代履中のいずれかだ。)
E-4 4世紀~6世紀朝鮮半島南部の《伽耶諸国=「任那」》に日本が強い影響力を持つ。
E-5 5世紀、倭王武(雄略天皇)は地方豪族を抑えヤマト王権の力を拡大させた。また朝鮮半島にも積極的に進出した。
(10)-2 6世紀半ば過ぎに、新羅が伽耶諸国(任那)を奪う(任那滅亡562年)!日本(倭)の朝鮮半島における拠点が失われ、倭と協力関係にあった百済は不利な状況になる!(53-52頁)
F 6世紀高句麗によって国土の北半分を奪われた百済の要求で日本が任那4県(任那の一部)を割譲する:512年、継体天皇の時。百済は北方の高句麗と東方の新羅から圧迫され、危機に陥っていた。6世紀半ば過ぎには、新羅が伽耶諸国(任那)を奪う:任那滅亡562年。かくて日本(倭)の朝鮮半島における拠点が失われ、倭と協力関係にあった百済は次第に不利な状況になっていく。
F-2 なお北九州の磐井の反乱(527年)は新羅と結んだものだ。
F-3 百田氏は「百済があった地方から日本特有の前方後円墳がいくつも発見されている」(46頁)と述べるが、「百済があった地方」というより「百済に割譲した任那4県があった地方」というべきだと浮世氏が言う。(百田氏は「百済が日本の支配下にあった」と言いたい。)
(10)-3 聖徳太子による新羅遠征計画(600、602年)!(53-54頁)
G 任那滅亡562年で、倭(日本)と協力関係にあった百済は次第に不利な状況になっていく。
G-2 そして友好国百済が滅亡したりすれば、新羅による北九州進出もありうる。日本は新羅遠征・百済防衛に動かざるを得ない。
G-3 かくて聖徳太子による新羅遠征and計画(600、602年)がなされた。Cf. 600年、約1万の軍勢で新羅に併合された任那に出征し勝利するが、倭国の軍が帰国すると新羅は再び任那を占領した。Cf. 602年、新羅遠征のため来目皇子(クメノミコ、聖徳太子の弟)を将軍とする約2万5千人の兵を築紫に集結させるが、来目皇子急死のため中止となる。
(10)-4 白村江の戦い:百済の王族が、百済の復興をめざし倭(日本)に救援を要請した!(54頁)
G-4 百済の滅亡:新羅は「百済に侵犯された領土の回復」を唐に訴え、唐は新羅支援を口実に「百済を討つ」と決定。660年、唐の13万の大軍と新羅の5万の軍に東西から挟撃され、百済は滅亡した。
G-5 白村江の戦い:百済の王族の一人豐璋は倭(日本)に人質としてきていたが、百済の復興をめざし倭に救援を要請した。663年、白村江で唐・新羅の水軍と衝突するが、百済・倭の連合軍が大敗。百済の再興はならなかった。
G-6 白村江の戦いについては、大化の改新の急進的な改革で生じた国内対立を、対外危機・対外遠征をテコに国内統合に向けようとした面もある。(浮世氏)
G-7「植民地だった百済」の回復のため大規模な遠征(Ex. 白村江の戦い)をしたというのは百田氏の根拠のない「新説」だ。「百済が日本の支配下にあった」ことはない!(浮世氏)
(10)「任那(ミマナ)が日本の影響下・支配下にあった」と言えるが、「百済が日本の支配下にあった」とは言えない!(51-52頁)
E 百田尚樹『日本国紀』は「百済が日本の支配下にあった」(47頁)と述べる。しかし「任那(ミマナ)が日本の影響下・支配下にあった」というのは一定の説得力ある説だが、「百済が日本の支配下にあった」とは言えない!
E-2 3世紀:統一的な国家が日本側にない。九州の小国などが朝鮮半島の南部地域と関わりを持っていた。(Cf. 邪馬台国卑弥呼の死(247-248)。)
E-3 4世紀、「好太王碑文」と『日本書紀』の記述の一致から、ヤマト政権が本格的に朝鮮半島に進出したことは明らかだ。(Cf. 神功皇后が海を越えて新羅と戦う。)(Cf. 日本武尊→仲哀天皇・その妻神功皇后→応神天皇。)(Cf. 5世紀に南朝に遣使した倭の五王、讃・珍・済・興・武のうち讃は15代応神・16代仁徳・17代履中のいずれかだ。)
E-4 4世紀~6世紀朝鮮半島南部の《伽耶諸国=「任那」》に日本が強い影響力を持つ。
E-5 5世紀、倭王武(雄略天皇)は地方豪族を抑えヤマト王権の力を拡大させた。また朝鮮半島にも積極的に進出した。
(10)-2 6世紀半ば過ぎに、新羅が伽耶諸国(任那)を奪う(任那滅亡562年)!日本(倭)の朝鮮半島における拠点が失われ、倭と協力関係にあった百済は不利な状況になる!(53-52頁)
F 6世紀高句麗によって国土の北半分を奪われた百済の要求で日本が任那4県(任那の一部)を割譲する:512年、継体天皇の時。百済は北方の高句麗と東方の新羅から圧迫され、危機に陥っていた。6世紀半ば過ぎには、新羅が伽耶諸国(任那)を奪う:任那滅亡562年。かくて日本(倭)の朝鮮半島における拠点が失われ、倭と協力関係にあった百済は次第に不利な状況になっていく。
F-2 なお北九州の磐井の反乱(527年)は新羅と結んだものだ。
F-3 百田氏は「百済があった地方から日本特有の前方後円墳がいくつも発見されている」(46頁)と述べるが、「百済があった地方」というより「百済に割譲した任那4県があった地方」というべきだと浮世氏が言う。(百田氏は「百済が日本の支配下にあった」と言いたい。)
(10)-3 聖徳太子による新羅遠征計画(600、602年)!(53-54頁)
G 任那滅亡562年で、倭(日本)と協力関係にあった百済は次第に不利な状況になっていく。
G-2 そして友好国百済が滅亡したりすれば、新羅による北九州進出もありうる。日本は新羅遠征・百済防衛に動かざるを得ない。
G-3 かくて聖徳太子による新羅遠征and計画(600、602年)がなされた。Cf. 600年、約1万の軍勢で新羅に併合された任那に出征し勝利するが、倭国の軍が帰国すると新羅は再び任那を占領した。Cf. 602年、新羅遠征のため来目皇子(クメノミコ、聖徳太子の弟)を将軍とする約2万5千人の兵を築紫に集結させるが、来目皇子急死のため中止となる。
(10)-4 白村江の戦い:百済の王族が、百済の復興をめざし倭(日本)に救援を要請した!(54頁)
G-4 百済の滅亡:新羅は「百済に侵犯された領土の回復」を唐に訴え、唐は新羅支援を口実に「百済を討つ」と決定。660年、唐の13万の大軍と新羅の5万の軍に東西から挟撃され、百済は滅亡した。
G-5 白村江の戦い:百済の王族の一人豐璋は倭(日本)に人質としてきていたが、百済の復興をめざし倭に救援を要請した。663年、白村江で唐・新羅の水軍と衝突するが、百済・倭の連合軍が大敗。百済の再興はならなかった。
G-6 白村江の戦いについては、大化の改新の急進的な改革で生じた国内対立を、対外危機・対外遠征をテコに国内統合に向けようとした面もある。(浮世氏)
G-7「植民地だった百済」の回復のため大規模な遠征(Ex. 白村江の戦い)をしたというのは百田氏の根拠のない「新説」だ。「百済が日本の支配下にあった」ことはない!(浮世氏)