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浮世博史『もう一つ上の日本史』「とぶとりの」、「聖徳太子はいなかった」説、「富本銭」、ペルシア人!⑦十七条憲法:豪族の争い、仏教が浸透しない、朝廷の官吏の心得!

2020-08-26 12:10:21 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年) 「飛鳥時代~平城京」の章(43-66頁) 

「飛鳥時代~平城京」の章:「とぶとりの」、「聖徳太子はいなかった」説、「富本銭」、ペルシア人!(43-44頁)
A 「飛鳥」は『万葉集』では「明日香」(あすか)と普通表記される。「明日香」の枕詞が「とぶとりの」だったので、「飛鳥」が「あすか」と読まれるようになった。《感想》トリビアだ。なるほど賢くなった。
A-2 1990年代後半ごろ「聖徳太子はいなかった」という説が話題になった。しかし、この説は結局否定された。《感想》この時、本が売れたから、出版社は儲かったと思われる。「聖徳太子はいなかった」説は出版社の販売戦略だったかもしれない。
A-3 和同開珎(ワドウカイホウ)以前に作られた「富本銭」(フホンセン)鋳造所あとが発見された。しかし、富本銭は貨幣として流通しなかったようだ。流通した日本最古の貨幣はやはり「和同開珎」だ。《感想》秩父の「和同開珎」の碑を昔、見に行った。この場所の意義は変わらない。
A-4 ペルシア人が奈良時代、朝廷の役人をしていた。《感想》外国人(ペルシア人)の学問的知識を式部省大学寮で教えていた。Cf. 奈良県高取町・光永寺にペルシャ人の頭と呼ばれる「人頭石」があり、見に行った。

(7)十七条憲法:豪族の争い、仏教がまだ浸透しなかった、朝廷の官吏の心得!(45-47頁)
B 十七条憲法にある「和を以て貴しと為し」とは、まだ豪族の争いが見られたことを示す。《感想》当時、物部氏と蘇我氏(仏教推進派)の対立は激烈だ。実際、聖徳太子(蘇我氏側)は物部氏との戦いで殺されそうになった。大阪府八尾市大聖勝軍寺には、「聖徳太子(16歳)が絶体絶命の窮地に陥った時、椋の大木が真っ二つに割れ、太子をその割れ目に隠した」という椋の木がある。数年前に見学に行った。裂けた木の中に聖徳太子像があり不思議な感じがした。
B-2 「篤く三宝を敬へ」とは(蘇我氏・聖徳太子が推奨する)仏教がまだ浸透しなかったので、仏教を「敬へ」と述べたものだ。「篤く三宝(※仏法僧)を敬へ」に関して、百田氏『日本国紀』が「当時の人々にとって宗教は、現代とは比べものにならないくらい重要なものだった」(42頁)と述べるのは、意味の取り違えだ。《感想》ただし当時が「科学」の世界でなく、「呪術」の世界だったことは確かだ。呪術=宗教だから、当時は宗教の世界だとも言える。例えば、医者は呪術師だった。だが血で血を洗う権力争いは、呪術と無縁の此岸的(この世的)世界の出来事だ。呪術=宗教は、此岸的世界の隙間を埋める程度にすぎない。(Cf. 「苦しい時の神頼み」!)
B-3 十七条憲法について、「人々が平和に暮らしていくための道徳規範が記されている」(42頁)と百田氏が言うのは誤り。十七条憲法、朝廷の官吏の心得を述べたものだ。《感想》聖徳太子は、中国風の中央集権的(天皇中心的)律令国家を建設したかった。その朝廷の「官吏の心得」が十七条憲法だ!
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