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阪田寛夫『うるわしきあさも』(その1):①日常の中の死、②小5の恋、③紀元2600年奉祝曲、④平城山、⑤「キリスト教、讃美歌、西洋音楽」は新時代の旗印だった!

2020-08-05 23:07:55 | 日記
※阪田寛夫(1925-2005)『うるわしきあさも 阪田寛夫短編集』講談社文芸文庫、2007年

(1)「鬱の髄から天井のぞく」(遺稿、2003年執筆、78歳):日常の中で死が姿を現す!
すでに他界した父、妻、母、兄等の亡くなる前後の様子が描かれる。日常の中で死が姿を現す。劇的でなく散文的。だがそういうものだろう。作者の悲しみと諦観が、そっと背後にある。

(2)「歌の作りかた」(1990年、65歳):恋のつばぜり合い!
小学校5年3組で、学級の歌を、班対抗で作る話。クラスで人気の高木よし子さんをめぐる「ぼく」と「キタナイ星の宇宙人ゲジゲジ」のタケシとの恋のつばぜり合い。ぼくが言う。「女の子の頭の中が、ぼくに分からなくなったのはこの時だ」。

(3)「海道東征」(1986年、61歳):紀元2600年奉祝曲!
作曲家・信時潔(ノブトキ・キヨシ)をめぐる話。彼は、紀元2600年頌歌「遠すめろぎの」(1940年)、また同奉祝曲「海道東征」(1940年)(作詞・北原白秋)の作曲者。その年、旧制中学3年生の阪田寛夫は「海道東征」を聴いて大変、感動した。(Cf. 阪田寛夫の叔父・大中寅二が1936年「椰子の実」を作曲。)それから20余年、戦後1961年、神武東征を歌った「海道東征」が、奇(クス)しくも阪田寛夫の企画で、民間放送で流されることになった。阪田寛夫は、その時、信時潔氏と会い、その人柄に深く感銘する。

(4)「平城山(ナラヤマ)」(1952年、27歳):人恋ふは悲しきもの!
放送会社で、「星の声を聞く」と言う企画のため、同僚の女性プロデューサー・本荘さんと「僕」が天文台に取材に行った話。「僕」は本荘さんに気があるが引っ込み思案だ。「人恋ふは悲しきもの」と歌の通り。

(5)「音楽入門」(1966年、41歳):「キリスト教、讃美歌、西洋音楽」は「新時代の旗印」だった!
阪田寛夫氏の父(M20、1887年生まれ)と西洋音楽をめぐる話だ。17歳の父は、クリスチャンの友人に誘われ、キリスト教の牧師の家を訪れる。その日の日記に父は書いた。「現今の腐敗せるソーシャル・ライフにありて、此のホームこそ清潔なる花園なり。」「而して、花園を支うる二本の柱は何ぞ。一は愛也。他は音楽(※オルガン、バイオリン)也。ああ新日本の道徳改革は家庭(ホーム)の建設より始めざるべけんや。」彼はキリスト教徒となり、牧師の娘(著者の母)と結婚した。戦後、著者の父は大阪のキリスト教会の有力な信徒かつ地方の名士となった。父や母にとって「キリスト教、讃美歌、西洋音楽」は「新時代の旗印」だった。
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