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浮世博史『もう一つ上の日本史』⑥8人10代の女性天皇のうち「曽祖父が天皇」が1人、「祖父が天皇」が1人、「父親が天皇」が6人だ!

2020-08-22 16:25:28 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、古代~近世篇」(2020年)「古代~大和政権誕生」の章(27-42頁) 

(6)8人10代の女性天皇は「父親が全員、天皇」というわけでない!(38-40頁)
H 百田氏は『日本国紀』第1刷で「日本には過去8人(10代)の女性の天皇がいたが全員が男系である。つまり父親が天皇である」と述べる。(33頁)
H-2 「男系」は「父親が天皇」ということではない。「父親を辿ると必ず天皇に行き着く」ことだ。第4刷はこのように修正された。
H-3 8人の女性天皇は、飛鳥・奈良時代が①33代推古、②35代皇極(=37代斉明)、③41代持統、④43代元明、⑤44代元正、⑥46代孝謙(=48代称徳)、また江戸時代が⑦109代明正(859年ぶりの女性天皇)、⑧117代後桜町天皇だ。
H-4 ②皇極天皇の父も祖父も天皇でなく、曽祖父が敏達天皇だ。⑤元正天皇の父(草壁皇子)は天皇でなく、祖父が天武天皇だ。他の6人の女性天皇は「父親が天皇」だ。
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安部悦生『文化と営利』「第7章」(その4):客観性は《主観的な約束事》だ!合理性の問題(ア)手段の妥当性、(イ)技術的な手段合理性、(ウ) 目的の当否、(エ) 目的のミクロとマクロの乖離!

2020-08-22 13:24:58 | 日記
※安部悦生『文化と営利 ―― 比較経営文化論』有斐閣、2019「第Ⅰ部 経営文化の理論的解明」「第7章 合理性モデルと新制度学派」(91-100頁)(その4)

(3)社会学的新制度学派のフリーグスタインのモデル:チャンドラー・モデルを批判し認知的側面から問題にアプローチする!フリーグスタインは、客観性を「間主観性」=《主観的な約束事》だと言い換える!(95頁)
I 社会学的新制度学派のフリーグスタインは、チャンドラー・モデルを批判し、新制度学派の特徴である認知的側面から問題にアプローチする。
I-2 フリーグスタインは「最適解」は相対的だと言う。
《感想1》「最適解」とはある目的達成にあたっての最適な手段だ。手段は多数ありうる。多くの手段のうちどれが最適かの判断は確かに難しい。目的が利潤最大化の場合、多くの手段(解)が提示される。そのいずれを取るかは投企であって、やってみないとわからないという面がある。だが状況を分析し、その状況の下で、いかなる手段が目的達成(利潤最大化)により適している(合理性がある)かは、相当程度に似たものになる(客観的)だろう。
I-3 フリーグスタインは「世間で客観的に合理的であると言われている」ものは「主観的な約束事だ」と言う。
「客観的な合理性と言う概念そのものを否定」している。(安部悦生)(※私見ではフリーグスタインは「客観性」を否定していない。彼は、客観性を「間主観性」=《主観的な約束事》だと言い換えているだけだ。ただしここで「主観」とは、「物」に対立する(日常的な)主観ではない。その「主観」は、「(主観を超えた)超越的な」物を可能にする主観であり「超越論的主観性」だ。)
《感想2》「客観性」とは《誰にとっても認知的に同一》ということだ。何か客観的な《実体》があるわけでない。その意味では「客観性」は「社会的な約束事」(「間主観性」)だ。
《感想2-2》フリーグスタインが「客観性」が「社会的な約束事」だと言うことは、「客観性」は《誰にとっても認知的に同一だ》ということを言っているだけだ。つまり「客観性」は「間主観性」だと言っている。
《感想2-3》「客観的な合理性」とは《誰にとっても認知的に同一》(間主観的)な合理性ということで、フリーグスタインが「客観的な合理性」を否定しているわけでない。
《感想2-4》「客観性」が《実体》として、「主観」と無関係に存在するという立場もあるが、私見では、「客観性」はあくまで「間主観性」だ。
《感想2-5》「物」の客観性も他者がいる限りでは「間主観性」だ。「物」は身体との触覚的な(温熱痛覚も含む)出会い(視覚でない!)において確認される。(第1次的な客観性)さて「物」において他者が出現すると、その「物」は他なる「物」つまり他者身体となり、この他者身体と自己身体との接触において、その境界面に「間主観的な物」(第2次的客観性、ただしこの客観性は間主観性でもある)が成立する。この「間主観的な物」が地平的に世界に拡張されると、そこに「客観的な間主観的な物世界」が出現する。
《感想2-6》「客観的な間主観的な物世界」は《誰にとっても認知的に同一》=客観性=間主観性(「社会的な約束事」)である。ここでは「主観」の概念は「物」の客観性を可能にする主観であり、「物」に対立する(日常的な)主観と異なる。それは、(主観を超えた)「超越的な」物を可能にする主観であり「超越論的主観性」と呼ばれる。
《感想2-7》Cf. 「客観的な間主観的な物世界」の客観性=間主観性(「社会的な約束事」)にとどまるのが「行動主義」である。

(3)-2「組織構造の転換」の主要要因!(95-96頁)
J フリーグスタインは、「組織構造の転換」を促してきたのは「最適解をめぐる権力闘争」であり、「利害関心」や「政治的要因」が主要要因だとする。
J-2 換言すれば、フリーグスタインは3つの要因の相互作用を重視する。①国家による法規制、②企業内部の体制、③企業間の影響関係の場である「組織フィールド」だ。
J-3 安部氏は言う。「組織構造の転換」に関して、「チャンドラーにとっては第2要因の(企業の)内部体制が主たるもので、法規制や組織フィールドは従の要因である。筆者もそれで十分説得的であると思う。」

(3)-3 効率(手段合理性)おいて、最適解が一つではなく、複数均衡・複数解がありうる!(96頁)
K 最近の経済学では、効率(手段合理性)において、最適解が一つではなく、複数均衡・複数解の存在が重視されなければならないとされる。
K-2 最適解の反対は、もう一つの最適解ということもありうる。Cf. 「正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義」!

(3)-4 自然科学の領域(「物」の領域)の客観性(※間主観性)!(96頁)
L 自然科学の領域では、最適解が一つでないとしても、それら最適解自体の客観性(※間主観性)を疑問とすることは不可能だ。
《感想3》「物」は最も基礎的であり、「物」(身体)の出現を介してのみ、他者は出現できる。(この他者は超越論的主観性だ。この他者と出会う私も超越論的主観性だ。)
《感想3-2》自然科学の領域は「物」の領域だ。客観性(間主観性)を持つ「物」はそれ自身の規則性(or法則)・関係性等を持つ。
《感想3-3》「物」の領域における目的(Ex. 弾道ミサイルの着弾点)を実現するための最適解(技術的方策)は多数あるが、それら最適解自体の客観性(※間主観性)は疑問とされない。「物」の領域は、「物」であることがすでに常に客観性(間主観性)を持つ。

(3)-5 人間界における(ア)目的と手段の緊張関係(目的に対する手段の妥当性)の問題&(イ)技術的意味での手段合理性の問題!(96-97頁)
M 人文科学、つまり人間界では、(ア)目的と手段の緊張関係を考えれば、目的との関係で手段合理性(※むしろ妥当性と言うべき)の当否が問題になることがある。Ex. 「平和で平等な社会」(目的)の実現のために、爆弾テロ(手段)は許されるか?
M-2 もちろん(イ)手段合理性それ自体の当否(効率)は、自然科学と同様に論じることができる。
M-3 人間界の問題は「二重の妥当性(or合理性)」が課題となる。(ア)目的との絡みで手段の妥当性の問題(Ex. 先の爆弾テロの事例)、(イ)技術的意味での手段の合理性の問題。

(3)-6 人間界における(ウ)目的の当否の問題&(エ) 企業成長(利潤追求)という目的についての「ミクロとマクロの乖離」(個別資本対総資本)の問題!
N 企業が成長していく方策は合理的に決められる:(イ)技術的意味での手段の合理性の問題(既述)!
N-2 しかし他方で(ウ)企業成長という目的の当否の問題がある。例えば「企業成長がよい事か?」「企業成長が社会全体に負荷をかけ(Ex. 公害、独占、窮乏化、搾取)、社会悪となる!」
N-2 さらに(エ)企業成長(利潤追求)という目的については「ミクロとマクロの乖離」の問題がある。ビスマルクの総資本の立場からの「社会政策」と個別資本の利潤追求の対立。個別資本の目的と総資本(=社会)の目的が食い違う。
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