DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

死についての生物学や心理学や弁神論や神学などの問いに対して、死の実存論的分析は、方法的に先位を占めている! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第49節」

2019-11-22 12:08:11 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第49節 死の実存論的分析と、この現象についておこないうる諸他の解釈との対照的区別」

(7)死の現象についての諸解釈:①現存在の単なる生命としての「絶命」(Verenden)、②本来的でない「死亡」(Ableben)、③本来的に死に臨む「臨死」(Sterben)!
J 生命が終わることは「絶命」(Verenden)である。(247頁)
Jー2 「現存在は・・・・(※単なる生命として)単純に絶命することはない。」(247頁)
Jー3 「現存在は本来的に死に臨むことなしに(※つまり非本来的に)終わることはある。」これは「死亡」(Ableben)と呼ぶことにする。(247頁)
Jー4 「現存在がおのれの死へ臨んで存在しているありかた」は「臨死」(Sterben)と呼ぶことにする。(247頁)
K 「死の実存論的解釈」は「医学的=生物学的見地から死亡について行われる研究」、「伝記的=歴史学的な研究」、さらに「民俗学的=心理学的研究」に基礎を与える。(247頁)

(7)ー2  死の実存論的分析は「純粋に『此岸的な』態度を守る」!
K-2 「われわれがおこなう死の分析(※死の実存論的分析)は、この現象(※死)がそれぞれの現存在の存在可能性としてこの現存在のなかへ立ち現れているありさまだけを・・・・解釈する。」つまり「純粋に『此岸的な』態度を守る。」(248頁)
K-3 「死後に」現存在が「生きつづける」、「不死」となるかどうかについて「存在的にはなんらの決定も下していない。」(247ー8頁)
K-4 「われわれの此岸的な存在論的な死の解釈は、いかなる存在的な彼岸的な思弁よりも手前にある。」(248頁)

(7)ー3 「死の形而上学」!
K-5 「死がいつどのようにして『世界に入ってきたか』」とか「災悪や苦患としての死が存在者全体のなかでいかなるい『意味』をもちうるか、またもつべきものか」といった「死の形而上学」は、「死の実存論的分析の境界外」だ。(248頁)

(7)-4 「死の実存論的分析」!
L 「死についての生物学や心理学や弁神論や神学などの問いに対して、死の実存論的分析は、方法的に先位を占めている。」(248頁)
L-2 「死(の現象)」は「現存在の可能性の性格をもっとも鮮やかに露呈させる」。(249頁)
L-3 「死の実存論的分析」は「現存在の《終末へ臨む存在》の存在論的構造の析出をめざしている」。(249頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現存在は「終末(Ende)に達している」存在でなく「終末(Ende)へ臨んでいる」存在だ! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第48節」

2019-11-22 11:03:38 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第48節 未済(Ausstand)、終末(Ende)ならびに全体性(Ganzheit)」

(3)「現存在が存在している」かぎり、それには「未然」、「不断の未済」がそなわっている!
E 「現存在は終末に至る」が、「かような『終わり』がどのようにして、実存する存在者の全体存在を構成しうるのかを示すこと」が眼目である。(242頁)
E-2 死に関する三つのテーゼ。(1)「現存在が存在している」かぎり、それには「未然」、「不断の未済」がそなわっている。(2)現存在という存在者が「終末にいたること(未済分の存在上の除去)」は、「もはや現に存在しなくなる」という性格をもつ。(3)「終末にいたること」は「代理不可能」である。(242頁)

(3)-2 現存在の「不全性」つまり「未然」は、「未済」(Ausstand)(つまり「総額」の「未済分の回収」)といったものでない!
E-3 「死にいたってはじめて終わりを告げる不断の『不全性』」を現存在は持つ。(242頁)
E-4 現存在のこの「未然」(Noch-nicht)は、「未済」(Ausstand)と異なる。つまり「総額」の「未済分の回収」といったものではない。(242-3頁)
E-5 現存在は「未然が充たされる」と「総額」となるのでなく、「そのときはもはや存在しなくなる。」(243頁)
《感想3》現存在の「不全性」とは、現存在は「おのれの存在可能へ向かう開示的存在」であるということだ。「現存在」は「投企」=「存在可能」において、おのれを「了解」する。(221頁参照)

(4) 現存在の「未然」は、果実の「未熟」に似る!
F 現存在の「未然」は、果実の「未然」である「未熟」に似る。(243-4頁)
F-2 「成熟しつつある果実」は、「成熟していくことにおいて未熟である。」果実において「未然は、その果実自身の存在のなかへすでに取りこまれている。」(244頁)
F-3 「現存在も、存在している間は、いつもすでにおのれの未然を存在する。」(244頁)
F-4 要するに「果実も現存在も・・・・いつもすでにおのれの未然を存在している。」(244頁)

(4)-2 「終末」(Ende)において「果実は完熟に達しておのれを全うする」が、現存在は「完成なしに終わる」!
G 「『終末』としての(※果実の)完熟」と「『終末』としての(※現存在)死」は存在論的な終末構造が異なる。(244頁)
G-2 「終末」(Ende)において、「果実は完熟に達しておのれを全うする。」しかし現存在は「完成なしに終わる」。(244頁)

(5)現存在は「終末(Ende)に達している」存在でなく「終末へ臨んでいる」存在(「終末へ臨む存在」)だ!
H 現存在は「おのれの未然を存在しており・・・・おのれの終末をも存在している。」(245頁)
H-2 そして「死という言葉が指している終わりは、現存在が終末に達していること(Zu-Ende-sein)をいうのではなく、この存在者が終末へ臨んでいることをいう」。(245頁)

(6)「現存在の全体性(Ganzheit)」
I 「終末へ臨む存在」が実存論的に解明されてはじめて、「(「終末」(Ende)としての死によって構成されるといわれる)現存在の全体性(Ganzheit)」の意味も明らかになる。(245頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『クレイジー・グッド』(2018年):男女の愛に関してストイックだ!1対1の男女の愛が成立しなくなれば、二人はすぐ別れる!

2019-11-20 18:32:31 | 日記
※原題:Nobody's Fool(2018年、アメリカ)

懲役5年で刑務所から出所したばかりの妹ターニャ。母親は姉ダニカに、彼女を引き取らせる。姉ダニカはキャリアウーマンで高収入。だが彼女は付き合っていた男に裏切られ、エリートを名乗るネットで知り合った怪しげな男、チャーリーと交際していた。姉ダニカには、コーヒーショップの店主が片思いし、一途の愛を示していた。姉を守るため立ち上がる不良妹ターニャ。ついに本当の愛を見出す姉ダニカ。ハッピーエンドだ!

《感想1》男女の愛に関してストイックだ。かつての「自由恋愛」は否定される。「1対1の男女の愛」が成立しなくなれば、二人はすぐ別れる。
《感想2》一般に人生において①キャリア上昇、②経営の成功、③権力獲得維持、④生計維持の仕事、⑤人生に意味を与える他の諸活動と比べ、⑥男女の恋愛関係が、より重要というわけでない。だが、この映画は、男女の恋愛関係にのみ焦点を当てる。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死ぬことは、おのおのの現存在が各自で引きうける!ほかの人びとの死を現存在の全体性の分析のため代理させることはできない! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第47節」

2019-11-12 13:54:47 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第47節 ほかの人びとの死についての経験の可能性と、全たき現存在の把捉の可能性」

(2)「ほかの人びとの現存在が終末に至ったときに、これを現存在の全体性の分析のための代替的な主題としてえらぶという便法」は無効である!
C 「現が死において全たさに到達することは、とりもなおさず、現の存在を喪失することである。」(237頁)
C-2「ほかの人びとの現存在が終末に至ったときに、これを現存在の全体性の分析のための代替的な主題としてえらぶという便法」は有効だろうか?(238頁)
C-3 だが「われわれは、末期の人が『こうむる』存在喪失そのものに接することはできない。」「われわれは、ほかの人びとの死ぬことを真正な意味で経験することはできない。」(239頁)
C-4 「だれも相手からその人の死を引きとることができない。」(240頁)
C-5 「死ぬことは、おのおのの現存在がいずれは各自で引きうけなくてはならないことなのである。」(240頁)
C-6 「死ぬという意味で『終わる』ことが現存在の全体性を構成している。」(240頁)
C-7 「この『終わり』とそれによって構成される現存在の全体存在とにおいては、本質上いかなる代理も成り立たない。」(240頁)
《感想2》死ぬのは、その人であって、私でない。私は「その人の死」を絶対に経験できない。私は「私の死」を経験できるだけだ。

D 「客体的存在や生命」は「現存在とことなる存在様式をそなえた存在者」である。(241頁)
《感想2-2》フッサールは『デカルト的省察』のなかで、植物・動物もモナド、つまり現存在として(ただし不完全なモナドとして)認める。フッサールは「生命」を「現存在とことなる存在様式をそなえた存在者」(ハイデガー)でなく、現存在(人間モナド)と類似のモナド、《現存在と本質的に同一の存在様式をそなえた存在者》と考えていた。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『ボーダー 二つの世界』:ティーナは、トロールの両性具有の子供を、尻尾をつけたまま、人間世界で育てることができるのか?

2019-11-12 01:36:00 | 日記
※ 『ボーダー 二つの世界』Grans(2018年)スウェーデン・デンマーク合作

(1)醜い容姿の税関職員ティーナ。彼女には、人間の感情を嗅ぎ分ける特殊な能力があり、違法な物を持ち込む者を摘発できた。だが彼女は孤独で辛い生活を送る。
(2)ある日、彼女は勤務中、奇妙な旅行者ボーレ(男)と出会う。ティーナは、ボーレに対し本能的に何かを感じる。ティーナは彼を自宅に招き、離れを宿泊先として提供する。彼女は次第にボーレに惹かれていく。
(3)二つの世界とは、人間世界とトロール(妖精)世界だ。人間はかつてトロールを捕獲し研究標本とし、ほとんど絶滅させた。実はティーナとボーレはトロールの生き残りだった。
(4)二人は、人間世界に適応させるため赤ん坊の時、人間によって尻尾を切り取られた。またトロールは両性具有だ。ボーレは、外見は男だが、定期的に子供を産む。その子供は、無受精のためしばらくして死ぬ。
(5)ティーナは、ボーレからトロール(妖精)としての生活を教えられ、同じトロールとしてボーレに心を開いていく。ティーナは女性だがペニスを持ち、ボーレは、外見は男だが膣を持つ。二人は性交し、やがてボーレは有受精の子供を産む。
(6)ボーレは、「父母トロールが人間の実験・拷問によって殺された」とティーナに告げ、人間への復讐を目指す。ティーナは復讐のためとはいえ、「直接的なトロール絶滅行為に参加していない人間」に残酷な復讐をすることに反対する。
(7)警官に追われボーレは逃亡し、ティーナから去る。だがしばらくして、ティーナの自宅に、ボーレが生んだ有受精の子供(トロール)が届けられる。ティーナはその子供を自分の手で育てようと決意する。

《感想1》映画でのトロールと人間の問題は、一般化すれば、征服されたネイティヴの民族(少数民族)と征服者の問題だ。トロールは少数民族として絶滅の運命にさらされている。
《感想2》ボーレは、トロールとして人間への無差別の復讐を目指す。ティーナは、「直接的なトロール絶滅行為に参加していない人間」に残酷な復讐することに反対する。
《感想3》ティーナは、トロールの有受精の子供を、尻尾をつけたまま人間世界で育てることができるのか?トロールの両性具有を人間世界で法的社会的に受け入れさせることができるのか?彼女は、困難な道を歩もうとする。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする