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現存在が全体性を欠いているとは、存在可能の未済分があることだ!だが「現存在の全体性の問題」を排除しない! ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第1章」「第46節」

2019-11-08 14:08:37 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第46節 現存在的な全体存在を存在論的に把捉し規定することの、みかけの不可能性」

(1)現存在が全体性を欠いているとは、存在可能の未済分、《おのれに先立って》があることだ!
A 「全き現存在をわれわれの先持(※主題)のうちに取り入れることが必要である。」(236頁)
A-2 「現存在の構造全体の全体性をなしている関心」、その「関心構造の第一次的契機」は「《おのれに先立って》」である。(236頁)
A-3 「現存在は『存在している間は』その終末に至るまで、おのれの存在可能に関わり合っている。」つまり「現存在の存在は・・・・《おのれに先立って》によって規定されている。」(236頁)
A-4 「現存在の根本的構成の本質には、常住の未完結性が含まれている・・・・。現存在が全体性を欠いているということはこのように存在可能の未済分があることを意味する。」(236頁)
A-5  「現存在は、存在者として存在している間は、決しておのれの『全額』を入手しない。」(236頁)

《感想1》「現存在の根本的構成の本質には、常住の未完結性が含まれている」ということは、生きている間は《終わっていない》ということだ。だが年老いてまたは瀕死状態で、「存在可能」の範囲が極めて狭められれば、「未完結性」は極限的に空虚=死に近づく。生きたまま死ぬ!

(1)-2 だが「現存在の全体性の問題」を排除したりしない!以下「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第47-53節」で取り扱う!
B 「現存在の全体性の問題を空しい問題として排除する」ことはできない。
B-2 つまり「現存在が終末に至っているということ(das daseinsmässige Zu-ende-sein)の存在論的性格を規定し、死の存在論的概念を獲得するという課題」に取り組まねばならない。
B-3 以下の考察の手順:「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」「第47-53節」
一、「第47節 ほかの人びとの死についての経験の可能性と、全たき現存在の把捉の可能性」
二、「第48節 未済、終末ならびに全体性」
三、「第49節 死の実存論的分析と、この現象についておこないうる諸他の解釈との対照的区別」
四、「第50節 死の実存論的=存在論的構造の素描」
五、「第51節 死へ臨む存在と、現存在の日常性」
六、「第52節 終末(死)へ臨む日常的存在と、死についての十全な実存論的概念」
七、「第53節 本来的な《死へ臨む存在》の実存論的投企」
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