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浮世博史『もう一つ上の日本史、近代~現代篇』(81)-4 百田氏の誤り④:「日本の敗戦が決まった」のは8月9日の御前会議ではない! 8月14日の御前会議だ!

2021-05-17 11:45:15 | 日記
※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「大東亜戦争」の章(235-314頁)  

(81)-4 8月9日の御前会議:昭和天皇は「国体護持を確認してから、ポツダム宣言を受諾する」ことに賛成した!(313-314頁)
V-5 1949年8月9日の御前会議について、百田尚樹『日本国紀』は次のように述べる。「『ポツダム宣言』をめぐっての会議は完全に膠着状態になった。日付けが変わって、午前2時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が『・・・・陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います』と言った。ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、『それならば意見を言おう。』と初めて口を開いた。・・・・『自分は外務大臣の意見に賛成である。』日本の敗戦が決まった瞬間であった。」(百田405頁)
V-5-2 百田氏の叙述には「膠着状態」や「外務大臣の意見」について説明がないので、以下補足しよう。東郷外相、米内海相、平沼枢密院議長の意見は「国体護持[天皇制の存続]を確認してから、ポツダム宣言を受諾する」。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部長の意見は「ポツダム宣言に複数の条件を付し、これが認められない限りは徹底抗戦すべし」。
V-5-2-2 したがって昭和天皇は「国体護持を確認してから、ポツダム宣言を受諾する」ことに賛成した。

(81)-4-2 百田氏の誤り④:「日本の敗戦が決まった」のは8月9日の御前会議ではない! 8月14日の御前会議だ!(314頁)
V-5-3 百田氏の誤り④:百田氏は「日本の敗戦が決まった」のが「8月9日の御前会議」(会議は長引き実際には翌日)だったと述べるがこれは誤りだ。経過は次の通りだ。
(a) 8月9日の御前会議(終了は8/10)の後、「国体護持が可能かどうか」、日本が連合国に問い合わせた。
(b)8/12未明に来た連合国からの回答で、「国体護持が十分確認できなかった」ため、陸軍が徹底抗戦を唱えて閣議で話が蒸し返された。
(c)8月14日午前11時に再び御前会議が開かれた。阿南(アナミ)陸相が徹底抗戦を説く。だが天皇は「私の考えは変わらない」「これ以上戦争を継続することは無理」「以上は私の考えである」ときっぱり断言した。これが「日本の敗戦が決まった」瞬間だ。ポツダム宣言受諾は8月14日だ。
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