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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その2):根柢に、「無限性」の立場をとる「自己意識」であってはじめて「欲望」をもちうる!

2024-05-23 14:04:56 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その2)(129頁)
(25)-4  根柢に、「無限性」の立場をとる「自己意識」であってはじめて「欲望」をもちうる!
★(B)「自己意識」の段階(Cf. (A)「意識」(対象意識))において「欲望」という態度が出てくる。(129頁)

《参考1》ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」(A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」)である。
《参考2》金子武蔵氏は(B)「自己意識」も3段階にわける。(B)「自己意識」:イ「生命あるいは欲望」個別性(Cf. 「感覚」)。ロ「主と奴」特殊性(Cf. 「知覚」)。ハ「自由」普遍性(Cf. 「悟性」)。(126-127頁)

★「欲望」のもっとも直接的なものは「食欲」だ。(129頁)
☆われわれが「食物」に面し、それをとって食べるさい、「食物が自我に対立し自我から独立して絶対におかすべからざる他者性をもつ」と信ずるとすれば、とって食い「自己化」しえない。(129頁)
☆だが「食物は『他者』にちがいないにしても『自我に対立するだけの力』をもたず無力である」と自我で確信しているからこそ、とって食べることができる。(129頁)

《参考》☆つまり(B)「自己意識」の段階でも、(A)「意識(対象意識)」のⅠ「感覚」・Ⅱ「知覚」・Ⅲ「悟性」はやはりあるのだから「自己」が「他者」(Cf. 「対象」)を意識することが残るわけだが、そうかといって、ここではすでに「無限性」の立場がとられているから、「他者」(Cf. 「対象」)といっても「自己」と全然別のものでなく、本質的には「自己」と同じものだ。(128頁)
☆すなわち「対象」は、「現象」においては「他者」であるが、つまり「他者」であるかのごとき「現象」を呈するが、しかし「対象」は、「自己」あるいは「自我」と本質的には同じものであるということになる。(128頁)

★「根柢に、『無限性』の立場をとる『自己意識』であってはじめて『欲望』をもちうる」と言える。(129頁)
☆したがって広い意味での実践的な立場からは、「『対象』を意識するのが『自己』を意識することだ」というのがある程度わかるだろう。(129頁)
☆かくてさきに述べた「疑惑」(Cf. 125-126頁)もある程度とけるだろう。(129頁)

《参考》さきほど「対象意識は自己意識である」と言ったが、これではたとえば「私が机を意識する」こともじつは「自分を意識する」こととなるわけで、なんだかふにおちない。(125頁)
☆「いわゆる形而上学的なものをふくむのではないか」という「疑惑」が残る。(125-126頁)
☆この「疑惑」は「ヘーゲル哲学」に最後までつきまとうものだ。(126頁)
☆だが「(B)自己意識」の段階がヘーゲルにとって本来の境地であることを思うと、この「疑惑」もある程度まで解ける。(この点については追々、述べる:金子武蔵!)(126頁)
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