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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」(続):「主体」としての「概念」(「自己としての内なるもの」)に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!

2024-05-13 17:29:38 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」(続)(110-113頁)

(20)「物」の「内なるもの」(「力」):一方で「客体、即ち物における内なるもの」と他方で「主体的なるものとしての内なるもの」!
★いままではヘーゲル『精神現象学』における「悟性」の段階について「表題」という見地から述べたが、今度は「悟性」の段階について「全体の見透し」という立場から、「法則」という概念をとりあげつつ述べる。(110頁)

Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」の目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」2「知覚」3「悟性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」3「現代(あるいは絶対知)」

★さきほど「悟性」の対象は「知覚」される現象ではなく、「物」の「内的なもの」すなわち「力」だと述べた。(110頁)
《感想》ここで「力」とは「エネルギー」とイメージできるだろう。

Cf. 「物」とはじつは「力」なのだというヘーゲルの考え方は歴史的なことをまじえて言うと、「常識的な考え方」または「古代的な考え方」において「物」があるとか「実体」があるとかいうのは、一般に「近代的な考え方」特に「近代科学の考え方」では「力」に還元され、そしてこのことは哲学史的には「ライプニッツの単子(モナド)論」に反映している。この立場がここではヘーゲルによってとられようとしている。(110頁)

《参考1》「エネルギー保存(恒存)の法則」:エネルギーが物体から物体へ移動したり,形態が変わったりするとき,その総量は変化しないという法則。例えば、高所にある物体は落下によって位置エネルギーが減少するが、運動エネルギーを得て、その和は常に一定であり、これを「力学的エネルギー保存の法則」とよぶ。19世紀中ごろJ.R.マイヤー,ジュール,ヘルムホルツらにより熱現象も含めて「熱力学の第一法則(熱力学の法則)」となり,さらに音,光,電磁気,化学変化,原子核反応等に拡張されて,あらゆる自然現象を支配する基礎法則の一つとなった。
Cf. 「熱力学の第一法則」:「熱の作用によって仕事が生み出されるすべての場合に、その仕事に比例した量の熱が消費され、逆に、同量の仕事の消費においては同量の熱が生成される。」あるいは「熱力学的過程において、系の内部エネルギーの増大は、系に蓄積される熱量とその系がした仕事の増大の差分に等しい。」

《参考2》「質量とエネルギーの等価性」:この原理は、物理学者アルベルト・アインシュタインの有名な公式「E = mc²」によって記述されている。

☆「物」の「内的なもの」が、「知覚」によってではなく、「悟性」によってとらえられるかぎり、「悟性」は(A)「意識」(対象意識)の一つの形態だ。(Cf. (B)自己意識、(C)理性!)この限りで「内なるもの」は、「主体的なるものとしての内なるもの」でなく、「一つの客体、即ち物における内なるもの」だ。(110-111頁)

☆だがこの「内なるもの」は、含みのある表現で、それは「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」)でもある。つまりこの「内なるもの」は「実体はじつは主体である」という場合の「主体」でもある。(111頁)

(20)-2「主体」としての「概念」(「自己としての内なるもの」「主体的なるものとしての内なるもの」「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!
★「自己としての内なるもの」(「主体的なるものとしての内なるもの」「実体はじつは主体である」という場合の「主体」)、すなわちこの「自己」・「主体」は、ヘーゲルでは「概念」とも言われる。(111頁)
☆この「主体」としての「概念」に、「対象」の側において対応するものが「法則」だ!(111頁)

★ヘーゲルは「法則」とは「互いに対立した二つの契機をつねにふくむ」と考える。(Ex. 「引力と斥力」、「陰電気と陽電気」、「空間と時間」など。)即ち「法則」の内容は「弁証法的に対立したもの」とヘーゲルは考える。(111頁)
☆さて「弁証法」とは「対立したもの」が「区別され分離されている」と同時に、「相互に転換し統一をかたちづくる」ことだ。「弁証法」的に考えると「対立」は「静的」なものでなく「動的」なものだ。(111頁)

★ところが「法則」では、そういう「動的」な点がはっきりしていない。そもそも「法則」は「主体」としての「概念」(「動的」な「内なるもの」)を、「存在的なもの」・「対象的なもの」・「静的なもの」として定立することによって成り立つものだからだ。「法則」の立場は「対象的存在的」だ。(111頁)
★かくて「法則」では「互いに外的のもの・没交渉のもの」が関係づけられる。この関係づけは「量」の見地からからのみなすことができる。(111頁)

(20)-2-2 「哲学的真理」(Ex. 「ゲシヒテ」の真理)と「その他の真理」(Ex. ①「ヒストリー」の真理、②「数学の真理」)!
★こうしたことは「哲学的真理」と「その他の真理」(Ex. ①「ヒストリー」の真理、②「数学の真理」)の違いにおいても明らかだ。①「歴史的真理」あるいは「ヒストリーの真理」は「個々の出来事を個々別々に羅列」したものであって「個々の出来事のうちに一貫する統一」に着眼しない。したがって例えばシーザーの生まれたのはいつかと言えば紀元前100年というように「量的に規定される」。(111-112頁)
Cf. 「ヒストリー」(記述的歴史)としての歴史に対して、「ゲシヒテ」(歴史哲学)としての歴史がある。(112頁)

★②「数学的真理」もまた「哲学的真理以外の真理」である。「数学的真理」はむろん「量的」に規定される。(112頁)
☆「哲学的真理」は「生ける現実」そのものを問題にする。だが「生ける生命」を捨象して考えた時には、ものごとの区別は固定したものとなる。かくて区別の関係づけは外面的となり、そこに生じるのが「数学的真理」だ。(112頁)

(20)-3 ヘーゲルは「『法則』とはじつは『概念』にほかならぬ、即ち『主体』にほかならぬ」、あるいは「『実体』は『主体』である」という自分(ヘーゲル)の哲学の根本的テーゼを証明しようとしている!
★かくて「法則」は「数学的」に「量的」に表現される。「法則」において「相対立する契機」が関係づけられはするが、「外面的皮相的」で「内面的統一」にはいたらない。(112頁)
☆本来は「主体」として、あるいは「自己」として、相互に他に転換する「概念」(「動的」な「内なるもの」、「力」)を、「対象化」し「存在化」したところに「法則」は成り立つ。(112頁)
★ヘーゲルは「悟性」の段階で、「自然科学」、ことに「ニュートンの引力の法則」などを批判しているが、ここでヘーゲルは「『法則』とはじつは『概念』にほかならぬ、即ち『主体』にほかならぬ」、あるいは「『実体』は『主体』である」という自分(ヘーゲル)の哲学の根本的テーゼを証明しようとしているのだ。(112頁)

★以上、(20)-1、(20)-2、(20)-3が「悟性」段階全体の見透しである。(112頁)
☆以下では、「悟性」の段階をもう少し細かくわけて扱う。3「悟性」の段階について、イ「力」、ロ「超感覚的世界あるいは法則」、ハ「無限性」の順序で扱う。(112-113頁)
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