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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」(続々):「対象の内なるもの」と「主体の内なるもの」は同じだ!「対象意識」も「自己意識」だ!

2024-05-20 13:08:49 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(一)「意識(対象意識)」3「悟性」ハ「無限性」(続々)(122-124頁)
(23)-6 「無限性」とは、まず「統一A」があり、その統一がおのれを二分して「BとCという対立」となり、この対立が「相互転換」をして「統一」にかえるということだ!(122-123 頁)  
★「無限性」とはどういうことか?(122頁)
☆「無限性」とは、まず「統一A」があり、その統一がおのれを二分して「BとCという対立」たとえば陰電気と陽電気という対立となり、この対立が「相互転換」をして「統一」にかえるということだ。(122-123頁)

《参考》「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない!「物」がもはや「物」でなく「力」になった!(109頁)
☆まず「力」という言葉がなぜでるのか?(109頁)
☆「知覚」の段階において「個別と普遍」、「一と多」、「即自と対他」、「自と他」といった対立が、互いに他に転換して切りはなすことのできないものであることが、明らかになった。(109頁)
☆それら諸対立なかで、「一と多」という対立は、両者が切り離せないから、「一」の方もすぐ「多」になり、「多」の方もすぐ「一」になるという相互転換を意味した。(109頁)
☆したがって「一」というものは「多」となっておのれをあらわすべきものであり、「多」もまた「一」が外にあらわれて呈する姿にほかならないので「一」に還帰する。(109頁)
☆かくて「一と多との対立」は、「力」と「その力が外に現れた『外化あるいは発現』」の対立にほかならない。(109頁)
☆この意味で「一と多とが切りはなせない」というのは、「物」がもはや「物」でなく「力」になったことだ。(109頁)
☆「知覚」段階では「物」を知覚していたのに対して、「一」が「多」と互いに他に転換するという点から見れば、そこには「物」的でない、「制約されない普遍性」すなわち「力」がある。このような意味で、「物」とはじつは「力」なのだ。(109頁)

(23)-7 両者(「認識主観」と「認識客観」)は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある!「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく!(123頁)
★さらに「無限性」は「概念」即ち「自己」にほかならないので、「対象意識」の段階から「自己意識」の段階にうつる。(123頁)
☆「無限性」の概念から我々の「意識」を考えてみよう。まず普通に「意識」するというのは「自己を意識する」のではなく、「対象を意識する」ことだ。(123頁)
☆ところが「無限性」からいうと、「対立」は「相互に他に転換」する。したがって「認識主観」は「客観」へ、「認識客観」は「主観」へというように、両者(「認識主観」と「認識客観」)は「根柢において同一のもの」の表現であり、両者を超えた「統一」がある。そしてその「統一」が二分して「対立」し、「相互転換」して「統一」にかえる。このような「無限性」の運動において「対象意識」は成立する。(123頁)

☆「BがCを意識する」あるいは「CがBを意識する」というのは、「BもCもA(同一のもの)のあらわれ」だから、(「C」が)「B」を、また(「B」が)「C」を「意識する」ことではなく、「自己Aを意識する」ことだ。つまり「対象意識」の立場(「B」や「C」を「意識する」)が、「自己意識」(「自己Aを意識する」)にうつってゆく。(123頁)

(23)-7-2 「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない!「対象の内なるもの」と「主体としての内なるもの」とは同じものだ!(123頁)
★言いかえると、「悟性」は「物の内なるもの」をつかむが、その「内なるもの」とは「無限性」であり、しかして「無限性」とは「根柢の統一が対立分化し、その対立がまた統一にかえる」という「運動」だから、「悟性認識の対象」は「物の内なるもの」ではあっても、それは「主体としての、自己の内なるもの」とは別のものではない。(123頁)
☆「対象の内なるもの」と、「自己としての内なるもの」つまり「主体としての内なるもの」とは同じものだ。(123頁)

(23)-7-3 「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ!「実体は主体である」!(124 頁)
★このようにして「対象意識」は「自己意識」に転換してゆく。「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ。かくて「実体は主体である」というヘーゲルの根本テーゼが出てくる。(124 頁)

(23)-8 「普通の認識」(「(A)意識(対象意識)」)の立場では、対象を認識することは他者(他在)を認識することで、自分自身を認識することではない!だが「対象意識」も真の本質からいうと「自己意識」だ!(124 頁)  
★以上、「(A)意識」(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)の論で、「常識的意識」のことは一応終わった。(124頁)
★「対象意識」と「自己意識」の関係にはいろいろの問題が残されている。これについては次のところで論じる。(124頁)

《参考1》「普通の認識」と「哲学的認識」(=「絶対知」):「普通の認識」の立場では、対象を認識することは他者(他在)を認識することで、自分自身を認識することではない。つまり「対象」を認識するときに、その対象は自己と違ったものであり、認識する「自己」も対象とは違ったものであると考えるのが、「(A)意識」の立場だ。(58頁)

《参考2》「精神現象学の構成」:「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)であり、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)であり、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。(53-56頁)

《参考2-2》ヘーゲル『精神現象学』の目次。(333-336頁)
(A)意識:Ⅰ《感覚》感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ《知覚》真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ《悟性》力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)理性(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理。(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)。(CC)宗教:Ⅶ宗教。(DD)絶対知:Ⅷ絶対知。

《参考3》「普通の認識」に対して、「哲学的認識」(「絶対知」)においては「絶対の他在のうちに自分自身を認識する」。(58頁)
☆かくて「哲学的認識」を行うことは、「普通の認識」つまり「普通の意識」(「(A)意識」)に対してはまるで逆立ちして歩けというようなものだ。いきなりそんな要求をしても、それはとうてい行えない。(58頁)
☆「普通の認識」から「絶対知」(「哲学的認識」)へと行くまでに媒介が重要だ。「絶対知」の立場は非常に高い山の頂上のようなものであり、山の麓である「普通の意識」から頂上である「絶対知」へ至るまでの「道案内」あるいは「梯子」(ハシゴ)が必要だ。その「梯子」をかける役目、「道案内」をするのが『精神現象学』だ。(58頁)
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